99.料理の真髄
その夜も、居酒屋領主館はまるで戦場のような忙しさだった。
カウンターには、国王ことヴラドおじさんの隣に、宮廷料理人の総料理長が座り、鋭い眼光でラルフを睨んでいた。しかし、今は彼を相手にする余裕などない。
「おーい! ギョーザくれー!」
「こっちはパリパリキャベツ! 山盛りでなぁ!」
客たちの注文が、怒涛のように押し寄せる。ラルフは、総料理長には申し訳ないが、当分相手にはできない。幸い、総料理長も国王もこの状況を汲んでくれたようで、二人仲良く並んでフレーバービールを飲んでいた。
「どうだ?」
国王が総料理長に尋ねた。何がどうだというのか、と思ったが、総料理長はフンッと鼻を鳴らした。
「⋯⋯僭越ながら、国王陛下。私の目には、素人料理人にしか見えんですな。ただまあ、独創的ではありますな」
総料理長は、子供の給仕がトテトテと駆けていくそのトレーの上に置かれた料理を、鋭い眼光で追っていた。彼の言葉には、ラルフの腕前を認めないという、職人のプライドがにじみ出ている。
「その独創性を、お前にも持ってもらいたいのだ」
国王は、グビリとビールを飲み、総料理長にそう諭した。
総料理長は、厨房で忙しく働くラルフの背中を見た。彼の周囲には、くるくると円盤状の物体が浮かび、少しずつその周縁が広がっていく。どうやら、魔法を使って小麦粉で練った生地を綺麗な円形に伸ばしていると見えた。その手際と、魔法の応用力に、総料理長は密かに感心する。
伸ばされた生地の上には、真っ赤なソースが敷かれ、またも魔法で切り刻まれたチーズや肉や野菜がその上に乗っかる。
「よーし! ピザ焼くぞー! 釜から離れろ! ――《火炎球》」
ラルフは、そう叫びながら、巨大な石窯の中に魔法をブチ込んだ。轟音と共に炎が燃え上がり、窯の中を瞬く間に高温にする。
「どうだ? 何か真似できそうか?」
国王が、面白そうに総料理長に耳打ちした。
「あんなのどうしろと?!」
総料理長は、思わず声を荒げた。ラルフ・ドーソン公爵が大魔道士だと聞いてはいたが、まさかこれほどまでに高度な魔法を料理に使っているとは思いもしなかった。
普通であれば、この店のキャパシティと、この尋常ではない混雑を考えれば、料理人を十数人は雇いたいところだ。それは、かつて王都の街外れの食堂で働いていた頃の経験則として、彼には痛いほどよくわかる。
しかし、あの公爵は、まさに十人力なのだ。
厨房の中は、戦場のようだった。
「いたっ! ウワーン! 指切っちゃったぁ!」
厨房で料理の手伝いをしている子供が、痛みに顔を歪めて叫んだ。
「リノっ! 早く5番テーブルにビール持っていきなさい!」
金髪ドリルツインテールの少女、エリカが、怒鳴るように指示を飛ばす。
「フレデリックさま! 五目チャーハン、レタスチャーハン、カレーチャーハン、餡掛けチャーハン、普通のチャーハン、オーダー入ります!」
孤児の一人が、チャーハン担当のフレデリックに、次々と注文を告げる。
「はい!」
フレデリックは、汗だくになりながらも、懸命に鍋を振る。
皆、懸命に自分のベストを尽くしている。
しかし、それも限界だ。
店のキャパシティと人員は、すでにパンク寸前だった。
かつて、宮廷料理人になる前の、平民の店で働いていた頃の、あの頃の憧憬にも似た、しかし、懐かしくもあり、良くない焦りが、総料理長の胸にも伝播してしまった。
彼は、自分がかつて経験した、あのひりつくような忙しさを、この店で再び感じていた。
その時、ラルフの声が響いた。
「フレデリック! 落ち着け! 急がなくていい。丁寧に、美味いチャーハンを作ることだけ考えろ! お前ならできる!」
「はい!」
フレデリックの声に、わずかながら落ち着きが戻ったようだ。
「エリカ! すぐに出せるクイックメニューを配れ! サービスだ! お茶を濁せ! 待たせてる客優先な! カレーでもいいぞ! お前ならできる!」
「ふっ、了解!」
エリカは、不敵な笑みを浮かべ、素早く動き出した。
「リノ! 落ち着け! まずは落ち着け! 冷静に周りを見ろ! 大丈夫、お前ならできる!」
――お前ならできる。
その言葉が、総料理長サルヴァドル・バイゼルの胸に、幼い頃の記憶を鮮やかに蘇らせた。
――「お前! そんなこともできないのか?!」
――「もういい! 皿洗いしてろ! お前はそれしかできんだろ?!」
あの食堂の親方は、厳しく、そして容赦のない人だった。悔しくて悔しくて、泣きながら皿を洗っていた日々。その悔しさをバネに、いや、そんな自分の反骨心だけを原動力に、彼はこの地位まで上り詰めた。奥歯を噛み締め、料理の真髄とは孤独なものだと自分に言い聞かせた。
同僚を蹴落とし、共に切磋琢磨した仲間を出し抜き。そうして、宮廷料理人という最高の立場を勝ち取ったのだ。王族たちの食べる料理を作る。それは、彼にとって最高の名誉だった。しかし、
ふと、彼は振り返る。
この居酒屋領主館は、皆、楽しそうに笑っている。美味しそうに、無我夢中で料理を頬張っている。そこに、勝ち負けも、優劣もない。ただ、目の前の料理と、それを囲む人々の笑顔があるだけだ。
――お前ならできる!
もしかしたら、いつかの私は、ただ、誰かにそう言って貰いたかったのかもしれない。
幼い頃の自分が、求めていた言葉は、あの厳しい親方からの叱責ではなく、この温かい励ましの言葉だったのかもしれない。
「国王陛下。少し、失礼します」
サルヴァドルは、国王にそう告げた。
「ふむっ」
国王は、サルヴァドルの様子から、何かを察したようだった。
サルヴァドルは、真っ直ぐにラルフのいる厨房へと向かい、深々と頭を下げた。
「私はサルヴァドル・バイゼル! 宮廷料理人だ! 料理人の聖域である厨房に無断で立ち入る無礼を詫びる。……しかし! あくまでも私個人として、思うところがあり、手を貸したく存ずる!」
ラルフは、ずかずかと厨房に入ってきた宮廷料理人に、目を丸くして驚いた。
「えっ。えー?」
ラルフが呆然としている間に、サルヴァドルの的確な指示が厨房に響き渡る。
「君たち! 汚れが少なくて、すぐに使うであろうジョッキとグラスを優先して洗い給え! 大皿は場所を取る。置く場所の確保ができるまでは、とりあえず浸け置きをすれば良い!」
「はっ、はい! ありがとうございます!」
洗い場のハルが、その的確な指示に感謝の言葉を述べた。混乱していた洗い場に、瞬く間に秩序が生まれた。
「フレデリック殿下! その、チャーハンとやら。種類は多いようだが、共通の具材が見受けられますな! それらをなるべく集めて、近くに置いておきましょう!」
チャーハン作りに奮闘していたフレデリックに、サルヴァドルは的確なアドバイスを送る。
「はっ、はい!」
フレデリックも、その言葉に従い、素早く具材の配置を変えた。
「野菜が、間に合ってないな! すまんがドーソン公爵! 包丁をお借りするぞ! 切り方は⋯⋯なるほど。こうか?」
サルヴァドルは、ラルフから包丁を受け取ると、驚くほど鮮やかな包丁捌きで、次々と野菜を切り刻んでいく。その手際と正確さに、料理番の孤児たちは思わずパチパチと拍手をした。彼の動きは、これまで見たどの料理人よりも洗練されており、まるで舞を踊っているかのようだ。
忙しい時間が過ぎ、夜も更け、やっと客もまばらになり始めた時間。
国王や酒飲み常連たちは、テーブルを一つにまとめ、バカ話に花を咲かせている。
ラルフと孤児たちは、テーブルに座らせられた。何故か、あの宮廷料理人が、賄いを作ってくれるのだという。
「お前ら、宮廷料理人の作る賄いなんて、滅多に食えるもんじゃないぞ! というか、普通食えないからな!」
ラルフの言葉に、やっと休憩に入れた孤児たちの目が、期待に輝いた。彼らにとって、宮廷料理人は雲の上の存在だ。
「さっ! できたぞー! 食べてみてくれ」
総料理長が、温かい料理を皆に出してくれた。
「ええっ!! これって?」
ラルフが驚きの声を上げた。目の前に出された料理は、彼が前世で知る中で、もしかしたら最も馴染み深い家庭料理だった。
「ここの料理に着想を得てな! 余り物で作ってみた」
総料理長はそう言って胸をはる。
ラルフはそれを目の前にして、信じられないといった様子だ。
これは、
"肉野菜炒め"だ。
そういえば、この料理のことはラルフはすっかり忘れていたかもしれない。
まさか、この世界で、こんな形で再会するとは。
嬉しくなり、すぐに箸でひと掬い。それを、ほかほかの白飯の上にポンとバウンドさせて、一口。
「うーわ、……美味ぁ!」
ラルフは、感動に打ち震えながら、白飯をかき込んだ。
醤油の香ばしさと、野菜の甘み、肉の旨味が絶妙に絡み合い、食欲を掻き立てる。
どうやら、総料理長は、醤油の味と米の相性を、この短時間で見抜いたようだ。葉野菜とオーク肉、そしてキノコ。余り物でぱぱっと作ったはずなのに、具材のバランスも完璧。そして香辛料の塩梅。というか、前世も含めて、ラルフは今まで食べた肉野菜炒めで最も美味しいかもしれない、とさえ思った。
「いやぁ、さすが宮廷料理人様です。本当に、⋯⋯これは勝てない」
ラルフは、心からの賞賛を口にした。彼の言葉に、サルヴァドルは鼻を鳴らし、どこか得意げな顔をした。
「ふんっ! そうか?まあ、そうだろうな⋯⋯。まあ、もし万が一、私が宮廷料理人を辞するような事があれば、⋯⋯まあ、なんならここで働いてやってやらんでもないぞ! どうしても、と言うならな!」
サルヴァドルは、冗談なのか本気なのか、そう言い放った。彼の言葉に、居酒屋領主館の孤児たちは、目を輝かせた。
すると、孤児たちの何人かが、飲んだくれている国王の元に駆け寄っていった。
「ヴラドおじちゃーん! あの人クビにしてー!」
悪気なく、楽しげに懇願する子供たちの声が響く。
「こっ、こらー!」
「や、やめんかぁー!」
総料理長とラルフは、同時に焦った。
その様子に、またこの場にいる皆が笑った。