94.エルフたち
数カ月後。ロートシュタイン領の静かな港に、一隻の大きな船が停泊した。それは、海賊公社の船だ。
そして、船の甲板から、ぞろぞろと降りてきたのは、南方諸島からの移住者たちだった。彼らの姿を見て、港で出迎えていたアンナは、驚きに目を見張った。
「エルフじゃないですか」
アンナは、怪訝そうな顔をした。まさか、移住者がエルフだとは予想だにしていなかったのだろう。
この移住の背景には、ヨハンが南方諸島で発見した、ある「食材」の存在があった。
それは、ラルフが前世の料理を再現する際に、漁村で作られていた魚醤で代用していたもの、つまり醤油だ。
そして、味噌に関してはそれっぽいものを作ることに成功していたものの、本物とは程遠いものだった。
ヨハンによると、南方諸島のエルフたちは、麹や発酵という独自の文化を何百年もの間、密かに受け継いでいたのだという。
さすがのラルフも、醤油の本格的な作り方までは知らなかった。しかし、本物の発酵食品であるこれらの生産が可能になれば、居酒屋領主館のメニューだけでなく、今や王国中に広がったロートシュタイン料理たちは、劇的に進化するだろう。その可能性に、ラルフの胸は高鳴っていた。
そして、ラルフの目の前には、一人のエルフの少女が立っていた。
キラキラと輝く金色の髪。陽光を浴びて透き通るような、絹のように白い肌。そして、特徴的な、長く尖った耳。まさに、ラルフが抱いていたエルフのイメージどおりの、美しく神秘的な姿だ。しかし、彼女が口を開いた瞬間、そのイメージは鮮やかに打ち砕かれた。
「あんたがここの領主さまだべか?」
少女は、どこか威勢の良い声で、ラルフを見上げた。
「あ、ああ。はい……」
ラルフは、思わずたじろぎながら答えた。
「あら、まあ。よろしゅうなぁ! あっ、オラども田舎者だすけ、あんまし礼儀とかわがんねっけ、かんべやれ!」
少女は、にこやかにそう言うと、ラルフの手を掴み、ブンブンと力強く振った。その握手の勢いに、ラルフはたじろぐ。
(なんか、イメージと違うなぁ)
ラルフの頭の中には、ファンタジー小説に出てくるような、優雅で神秘的なエルフの姿が思い浮かんでいたが、目の前の少女は、まるで田舎の元気な娘、といった雰囲気だった。
「あっ、ああ。よろし、く?」
ラルフは、戸惑いながらも、なんとか挨拶を返した。
「ひゃー! デッケぇ建物ばっかだねっか! オラどもんとこなん、木の枝やら草編んだ家しかねぇっけ、こんげなん初めて見たわぁ!」
少女は、きょろきょろと周囲を見回しながら、興奮したように叫んだ。
(な、訛ってる……)
ラルフは、内心で愕然とした。かろうじて共通語ではあるようだが、独特の抑揚と、聞き慣れない方言が混じり合って、ちょっと聞き取りづらい。しかし、その素朴な言葉遣いの中に、純粋な驚きと、未来への希望が感じられた。
彼女の名前はミュリエルという。年齢を聞けば、驚くべきことに121歳になる、とのことだ。エルフとしてはまだ「若者」だという。やはり長命なのか、とラルフは改めて彼らの種族の特性を認識した。
元々、エルフは森の奥で暮らす保守的な種族ではあるが、最近では、若いエルフたちも外の世界に憧れを持つ者が増えているらしく、価値観の変容が起き始めていたらしい。
人間の文化に非常に興味津々で、ロートシュタインに移住して醤油や味噌作りを生業にできるなら、まさに渡りに船だったのだという。エルフの長老たちも、「数十年くらいなら人間の暮らしを見てみるのもよい」といった、長命種ならではの、悠長な考え方で移住を許可したらしい。
今回、移住を申し出たのは十六人。その中に男は三人しかいなかった。どうやら、エルフの文化では、活動的なのは女性らしい。
「ここは漁村なので、ロートシュタインの街中はもっと大きな建物もありますし、人も多いですよ」
ラルフは、ミュリエルにそう説明した。
「はーっ! ここより多いん? あっ! 忘れてやったわ! これつまらんもんですけど!」
ミュリエルは、何かを思い出したように、慌てて背中から小さな壺を取り出し、ラルフに差し出してくれた。彼女の顔には、申し訳なさそうな、しかしどこか誇らしげな笑みが浮かんでいる。
ラルフは、壺の中を覗き込んだ。そして、その匂いを嗅ぐ。
香りでわかる。これは、ラルフが試行錯誤して作ったなんちゃって味噌ではない。紛れもない、正真正銘の発酵食品だ。その複雑で奥深い香りは、ラルフの知る「味噌」そのものだった。
「凄い匂いでふね」
アンナが、思わず鼻をつまんだ。彼女にとっては、まだ慣れない、強烈な発酵の香りだったのかもしれない。
しかし、ラルフの目には、その匂いが、未来への可能性を秘めた、輝かしい香りのように感じられた。ロートシュタインの新たな時代が、今、始まろうとしていた。




