93.世界をかえるもの
ロートシュタイン領。賑やかな居酒屋領主館に、いつものように活気と美味そうな匂いが満ちていた。その喧騒の中、一人の常連客が、満面の笑みで朗報を告げた。
「マスター! この度、私は中隊長に任命されたぞ!」
快活な声の主は、女騎士のミラ・カーライルだ。彼女の目の前には、大盛りチャーハン、ギョーザ、そして唐揚げが山と積まれている。
「おお! 昇進か! そりゃめでたい!」
領主のラルフ・ドーソン公爵は、カウンターの中から威勢の良い声で祝った。しかし、心の中では、ふと疑問がよぎる。
(ん? まてよ。駐屯する騎士団の役職が変わるって、通常はもっとかしこまった挨拶があるよなぁ? それって、なんというか、日中の執務中に、ちゃんとした形式でやらないか? 大盛りチャーハンとギョーザと唐揚げをパクつきながら報告することか?)
ラルフは首を傾げた。しかし、女騎士は山盛りの大好物に囲まれてご満悦そうだ。その細い身体のどこに、これだけの量が収まるのか、ラルフには永遠の謎だったが、まあ、気にしないことにした。ミラの喜びが、店の活気に貢献していることは確かだ。
「そういえば、前任者の中隊長はどうしたんだ? 割と高齢の方だったよな?」
ラルフは、ふと思い出して尋ねた。
「ああ。彼は指南役という立場になる。実質的には、父上にくっついて行って、刀剣酒場の手伝いをするらしい」
ミラは、口いっぱいに唐揚げを頬張りながら答えた。その言葉に、ラルフは少しばかり驚きを覚えた。あのカーライル騎士爵の刀剣酒場計画は、本当に実現するのだろうか。
「まあ、切った張ったの世界よりは、いい老後かもな」
ラルフは、前任者の中隊長の老後を想像し、どこか感傷的な気分になった。
「居酒屋領主館に簡単には来られなくなることは悔しがってたがな! はっはっはっー」
ミラは、なぜか勝ち誇ったように笑った。その笑い声には、まるで自分だけがこの場所を満喫できる特権を得たかのような優越感が混じっている。
ラルフは、その無邪気な驕りに、再び首を傾げた。
その時、居酒屋の扉がギィと開いた。
その小さな影は、よたよたと、まるで何かに引きずられるように歩いてくる。まだ若者だろうか、薄汚れた身なりは、長旅をしてきた者のように見える。
そして、よほど疲れているのか、あるいは怪我でもしているのか、ついに力尽きたように膝をついてしまった。店の客たちが、その異様な光景にざわめき始める。
「ん? あ! ヨハン! ヨハンじゃないか!」
ラルフは、その人物の顔を見て、ハッと声を上げた。彼は、株式会社グルメギルド出版の記者兼編集者で、かつてラルフの下で働いていたこともあるヨハンだった。
確か、数ヶ月前に、新しい記事を書くために南方諸島へと旅立っていたはずだ。
「ら、ラルフさま。つ、ついに……」
ヨハンは、ぜいぜいと息を切らしながら、震える声でラルフの名を呼んだ。その顔は土気色で、今にも倒れそうだ。
「おい! 無理するな。誰か水を!」
ラルフは、慌ててアンナに指示を出す。アンナは素早くコップに水を注ぎ、ヨハンに差し出した。
「ついに見つけたんですよ。こ、これを!」
ヨハンは、水を一口飲むと、震える手で懐から小さな壺を取り出した。その壺は、使い込まれた陶器製で、古びた栓がされていた。
ラルフは、その壺を見て、目を見開いた。
「お、お前。まさか、俺が言ったのを、覚えていて……」
ラルフの声が震える。その言葉には、期待と、そして信じられないという感情が入り混じっていた。
「はい。ありましたよ、あったんですよ! ラルフさまの言ったとおり。これは存在したんです! ぐっ!」
ヨハンは、興奮と疲労の限界で、再び膝から崩れ落ちそうになる。彼の顔には、達成感と、そして極限の疲労が刻まれていた。
「おい! ヨハン! ヨハーーーーン!」
ラルフが叫ぶ。
「は、腹減った……」
ヨハンは、か細い声で、その言葉だけを絞り出した。
「……なんでも好きなもの食え」
ラルフは、そう言いながら、ヨハンの手からそっと壺を受け取った。そして、壺の中を覗き込む。薄暗い壺の奥には、黒い液体が満たされている。恐る恐る、匂いを嗅ぐ。
間違いない。
ラルフの顔に、徐々に笑みが広がる。その笑みは、喜びと、そしてある種の狂気すら孕んでいるようだった。
「なんなんです? それ」
アンナが、隣で事の成り行きを見守っていたが、その壺から漂う独特の匂いに、思わず尋ねた。
「ふふっ、はっは、ハッハッハッハッ! ついに! つ
いにこれが手に入った! これさえ、これさえあれば! 世界を変えることができるのだ!」
ラルフの笑い声が、居酒屋領主館に響き渡る。その声は、これまで聞いたことのないほど、高揚し、そしてどこか不気味だった。客たちは、その領主の奇妙な笑い声に、戸惑いを隠せない。
その深夜、王都の一室。
宰相のニコラウスは、ロートシュタインに放った草の者からの密書を受け取っていた。それは、複雑な暗号で書かれている。彼は、解読表に従い、その文を読み解いていく。
「リョウシュ、ラルフドーソン、セカイヲカエルモノ、ソノシュチュウニ」
宰相ニコラウスの顔から、血の気が引いた。
「領主ラルフ・ドーソン、世界を変える物、その手中に?!」
密書の内容が、彼の脳裏に、雷鳴のように響き渡る。宰相の顔には、恐怖と、そして警戒の色が浮かんでいた。
(なんだ、あいつは、いったい何を企んでおるのだ?!)
ラルフ・ドーソン公爵の行動は、常にニコラウスの想像をはるかに超えていた。彼の笑い声が、王都にまで届いているかのように、宰相の心臓を締め付けた。




