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90.一杯の価値

 デューゼンバーグ伯爵は、出会ってしまった。その日、王都の喧騒の片隅で、彼の運命を変えることになる一杯と。


 それは、小さな飲み屋だった。いや、飲み屋というより、屋台に近い。木製の簡素なカウンターが一つ置かれているだけで、椅子もない。貧民向けの安飲み屋かと思えば、置かれている食器は妙に場違いだった。磨き抜かれた銀食器、洒落た陶器の皿。そして、光を反射して煌めく、緻密な細工のワイングラス。そのアンバランスさに、伯爵の好奇心がくすぐられた。


 気になり、フラフラと店の前まで引き寄せられるように立ち寄ってしまった。王都の貴族街からは外れた場所だが、ここから見える夜空は妙に澄んでいる。


「いらっしゃい」


 低い、しかし温かみのある声に、伯爵は顔を上げた。ふと気づく。その店主の顔に、見覚えがあるではないか。

 確か、ロートシュタインの居酒屋領主館にいた、あのひょうきんな常連客の一人ではないか? なるほど。ロートシュタインは商業ギルドと連携し、屋台オーナーに融資して開業を支援する施策をとっていると聞いていた。

 おそらく、この男もその恩恵を受け、独立開業し、王都に出てきて小さいながらも一国一城の主というわけだ。伯爵は、そのことに密かに感心した。


「オススメの葡萄酒を」


 伯爵がそう言うと、店主は「へい」とだけ返事をして、慣れた手つきでワイングラスに赤い液体を注いだ。


 出された一杯に、伯爵は一口含む。その瞬間、彼の全身に衝撃が走った。


 澄んだ口当たり。舌の上で転がるフルーティーな香りは、決して重くはないのに、深いコクを感じさせる。飲み下せば、少しスパイシーな余韻が残り、鼻腔を抜ける春風のような清かさが、脳髄にまで染み渡るようだった。これまでに飲んだどのワインとも違う、まさに「至高」の一杯だ。


「店主! これはどこの酒なのだ? あれば樽で買いたいんだが?」


 伯爵は興奮を隠せずに身を乗り出した。


「樽はちょっと困りますよぉ。それは、ロートシュタインの小さな農家がこじんまりと作ってるものでして」


 店主は申し訳なさそうに答えた。


 ロートシュタイン?!

 伯爵の脳裏に、あの若い領主ラルフ・ドーソンと、娘のエリカの顔が浮かんだ。

 そして、同時に「ずるい!」という感情が、胸の奥からこみ上げてきた。美味いもの、革新的な物はすべてロートシュタインに集まっている。まるでラルフ・ドーソンという磁石に吸い寄せられるかのように。


 デューゼンバーグ伯爵も、ロートシュタインの飲食店にいくつか投資をしている。そのことには自負があった。しかし、まだまだこのような、王都の片隅の屋台でさえ、これほどまでに素晴らしいものが隠されているとは。自分の見識の狭さを恥じると同時に、ロートシュタインの底知れない可能性に、伯爵の心はざわめいた。


 翌日、デューゼンバーグ伯爵は、ラルフ・ドーソン公爵から譲ってもらった(実際には、ごねてごねてねだり倒した)魔導車:マーク・ワンを飛ばし、ロートシュタインの農家へと向かった。

 マーク・ワンは、王都を抜け出し、ロートシュタインの豊かな田園地帯へと滑り込んでいく。窓から見える景色は、王都のそれとは全く異なり、どこまでも緑が広がっていた。


 農園に着くと、ちょうど葡萄の収穫時期だったようで、農園の夫婦とその娘たちは、暑い日差しの下で黙々と働いていた。彼らの顔には、汗が光り、その表情からは勤勉さと、自然に対する敬意が感じられた。

突然の伯爵さまの来訪に、農園の人々は驚き、恐縮しきっていた。

 しかし、デューゼンバーグ伯爵が、このワインに感銘を受け、投資を申し出ると、農園の主は少し困ったような顔をした。


「そりゃあ。開墾して畑を広げられたら、勿論ありがたいのですが、ご覧の通り、うちは家族でやってるもので、人手が足りません」


 なるほど。伯爵は深く頷いた。資本を投じるだけでは解決しない、人手不足という現実的な問題があるのか。一瞬、ラルフ・ドーソン公爵に助言を求めることも頭をよぎったが、なんだかそれは悔しかった。あの若造に頼るなど、伯爵としての矜持が許さない。


 そういえば、公爵はどうやってあれほどの商売をしていたか? そうだ、あの男は、自ら働いているのだ。居酒屋の厨房に立ち、顧客と直接向き合っている。そういえば、それはそれで凄いことだ。貴族としては異例の、いや、常識外れの行動だ。

(ウチで葡萄を育てるか?)

 突拍子もない考えが、伯爵の頭をよぎった。邸宅の庭は広い。というか、裏庭は手つかずのまま、広大なスペースが残されている。メイドたちの中には、農村出身の者もいたはずだ。しかし、葡萄の栽培は気の長い話だ。収穫までに何年もかかる。その間、資金を寝かせ続けるのは、投資家としては得策ではない。

 すると、農園の主が、伯爵の考えを察したかのように口を開いた。


「葡萄酒を作っているのはウチだけじゃありません。割とこのあたりじゃ、小さい農家がこじんまりと作ってるのですよ」


 その言葉に、デューゼンバーグ伯爵の目に光が宿った。彼はその日から、農家回りの旅をはじめた。ロートシュタインだけでなく、他領にも足を運び、隠れた名品を探し求めた。

 公務の合間を縫って、ワイン生産者探訪を続け、その知識と人脈を広げていった。彼の中には、これまでの貴族としての常識では考えられなかった、新たなビジネスへの情熱が芽生えていた。


 そして。


 王都の邸宅の一階を大々的に改築し、

 "ワインバー・デューゼンバーグ"をオープンさせた。  

 その店構え、シンプルな内装、そして顧客との距離の近さは、完全にラルフ・ドーソン公爵の居酒屋領主館のパクリだった。


 実際に自分で店を経営してみて、デューゼンバーグ伯爵は驚くべきことに気づいた。


 意外に、金が稼げる、ということを。


 貴族の副業として始めたワインバーは、王都の美食家たちの間で評判を呼び、連日満員御礼となった。執事やメイドたちの給金も上げられるようになり、彼らの士気も向上した。そして、何よりも、葡萄農家に投資する元手も手に入るようになったのだ。伯爵は、これまで知らなかった商売の面白さに、すっかり魅了されていた。

 だが、新たな問題も持ち上がった。ワインに合う料理だ。



「で、そのワインバーで出す、メニューを考案して欲しい。と?」


 執務室で書類に目を通していたラルフは、顔を上げ、盛大にめんどくせぇ、という顔をした。結局、デューゼンバーグ伯爵は、回り回ってラルフに泣きつくことになったのだ。ラルフの顔には、この伯爵の行動パターンを既に見抜いているような、どこか諦めにも似た表情が浮かんでいた。

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