89.スイカと魔法
ロートシュタイン領の北側には、かつて荒れ果てた砂地が広がっていた。
乾いた風が吹き荒れ、不毛の地として知られていた場所だ。しかし、それも今は昔。
照りつける真夏の太陽の下、お揃いの麦わら帽子を被ったラルフ、アンナ、エリカ、そしてミンネとハルの姿があった。広大な畑の真ん中に立つ彼らの顔には、汗が光る。
「あっついわねぇ」
エリカが顔をしかめて文句を言う。虫の声がジージーと鳴り響き、そのやかましさが一層、暑さを際立たせていた。
「かなり育ってますね」
アンナが感嘆の声を漏らす。彼女の視線の先には、青々と力強く茂る葉の合間から、どっしりと横たわる巨大なスイカが顔を覗かせていた。一つ一つが、両手をいっぱいに広げても抱えきれないほどの、あまりにも巨大なスイカたちだ。
「おっきい!」
ハルが目を輝かせ、小さな手を広げてその大きさを表現する。
「植物魔法って、あんまり得意ではないんだがな。ちょっと色々研究してみたら、上手くいってしまった!」
ラルフは、どこか照れくさそうに、しかし自慢げに言った。彼の顔には、予想外の成功に戸惑うような、しかし確かな満足感が浮かんでいる。
「いえ、あの。上手くって。どうするんです? こんなにいっぱい」
アンナは、呆れたような、しかしどこか嬉しそうな顔で、ラルフが自ら開墾した畑を見回した。その広さは、尋常ではない。いや、広すぎるのだ。どこまでも続くスイカ畑は、夏の豊かな生命力を感じさせる。
「これ、ロートシュタインの全員に配ってもまだ余るんじゃない?」
エリカが、その途方もない量に、思わず声を上げた。
「実は、何度かスイカ泥棒にあったんだ。⋯⋯だが、あまりに多すぎて、どうやら泥棒さんも飽きたようだ」
ラルフは苦笑いしながら答えた。その言葉に、アンナとエリカは顔を見合わせて笑った。
「王都に出荷するしかないんじゃないですか?」
アンナが現実的な提案をする。
「ま、それはそれとして後で考えよう。まずは、店で出す分と、あとは騎士たちの駐屯所にお裾分けだな」
ラルフは、どこか呑気な声でそう答えると、収穫作業に入った。エリカが、両手をいっぱいに広げてやっと持ち上げるほどの巨大なスイカを、うんせっ! と掛け声を上げながら、魔導車の荷台に積み込んでいく。汗が額から流れ落ちるが、彼女の顔には、なぜか充実した笑みが浮かんでいた。
一方、ラルフはというと、汗一つかかずに、空に向かって杖を構える。
「《水球砲》」
空高く打ち上げられた魔力の塊は、瞬く間に四散し、慈雨のように降り注ぐ。畑全体が潤い、熱気を帯びた空気がわずかに和らぐ。こんなことに高度な魔術を使う大魔道士さまは、ラルフくらいなものだろう。皆、呆れを通り越して、もうその奇行には慣れっこになっている。
「ねぇ、ちょっと食べてみない?」
汗をかきながらスイカを運び終えたエリカが、誘うように言った。その言葉に、ラルフは、待ってましたとばかりに顔を上げた。
「む? まあ、少しならいいか。……《氷流星》」
ラルフが呪文を唱えると、空からドン! と音を立てて、巨大な氷の塊が目の前に落ちてきた。
「冷やしとけ」
彼はそう言って、得意げに胸を張った。
「アンタも収穫ちょっとは手伝いなさいよ」
エリカがジト目でラルフを睨む。
「エリカ、僕はここで水を撒くことしかできない」
ラルフは澄ました顔でそう言った。それは、ラルフが前世で一度は言ってみたかったセリフだった。
「というか、なんであんなちっちゃい魔導車で来たのよ! トラックできなさいよ、トラックで!」
エリカは、積み込みに苦労しているミンネとハルを見て、再び文句を言った。
ミンネとハルは、ラルフが降らせた氷を砕き、桶に水を張ってスイカを沈めようとしているが、あまりに大きすぎて、なかなかうまくいかないようだ。
「よう! 領主さまぁ、精が出るのぅ!」
ちょうどそこへ、荷車を引いた農民が通りかかった。ロートシュタイン領では、領主と平民がこれほどまでに気さくに言葉を交わすのは日常風景だ。その光景は、領主と領民の間に築かれた信頼と、この地の温かさを物語っていた。
「おっちゃん! スイカ持ってって! 何個でも持ってって!」
ラルフが手を振ると、農民は遠慮した素振りを見せたが、ラルフは巨大なスイカを一つ、無理やり押し付けた。農民は驚きと喜びに満ちた顔で、頭を下げた。
収穫を終えた一行は、近くの小川へと向かった。全員横一列に並び、裸足を清らかな水につけて涼む。冷たい水が、汗で火照った身体に心地よい。蝉の声と、サラサラと流れる小川の音が、夏の午後を彩る。
「あっ、包丁ないや!」
ミンネは気づいた。しかし、その言葉にラルフはニヤリと笑う。
「《空気斬》」
ラルフの魔法は、スイカを正確に八等分した。まるで切れ味の良い刃物で切ったかのように、断面は滑らかだ。その鮮やかな手並みに、皆、目を丸くする。
エリカは、切り分けられたスイカを手に取ると、シャクシャクシャクシャクと忙しなく食べ始めた。その勢いは、まるでげっ歯類のようだ。瑞々しいスイカの汁が、彼女の口元から顎へと伝う。
「あまーい!」
ハルは、その甘さに喜びの声を上げた。口いっぱいに広がるスイカの甘みが、一日の疲れを癒していく。
遠くには、大きく膨らんだ入道雲が、夏の空に悠然と浮かんでいる。ラルフは、その雲を眺めながら、ふぅっと安堵の息をついた。穏やかな時間が流れていく。
エリカは、あっという間に一つ目のスイカを食べ終え、間髪入れずに二つ目のスイカに手を伸ばした。
「おい、食いすぎると、腹壊すからな!」
ラルフが注意すると、エリカはスイカの赤い果肉を口いっぱいに頬張りながら、無言でトゥ! と、ラルフの顔めがけてスイカの種を飛ばしてきた。その狙いは正確で、種のいくつかがラルフの頬にピタリと張り付いた。
「うわっ! きったねぇ! このクソメスガキぃ!」
ラルフは、憤慨したように叫び、エリカに飛びかかる。しかし、エリカは身軽に華麗に躱し、そのまま逃げ出す。そして、真夏の川辺で、二人の鬼ごっこが始まった。
「ハッハッハッハッ!」
それを見ていたアンナも、ミンネも、ハルも、そして通りかかった農民も、腹を抱えて笑い転げた。
夏の午後の、どこまでも広がる青空の下、ロートシュタイン領の豊かな恵みの中で、彼らの笑い声が響き渡った。