88.ある王子の夏
学園の食堂で昼食をとるランドルフ第七王子は、取り囲む令嬢たちの心配そうな視線を感じていた。彼女たちは、彼の顔色を窺い、しおらしい声で問いかける。
「ランドルフさま、どうかなされたのですか?」
「えっ、ああ。いや、……なんでもない」
ランドルフは曖昧に答える。だが、内心では、言葉にならない心地悪さというか、奇妙な気持ち悪さを覚えていた。
「なんだか、お疲れのようですわ」
令嬢たちは、彼を心配する素振りを見せるが、その瞳の奥には、どこか自己満足めいた光が宿っているように見えた。
「いや、本当になんでもないよ。心配しないで」
いつものように笑顔を向けると、彼女たちは恭しく頭を下げ、味気ない世間話を再開した。その声が、ランドルフの耳には、遠い喧騒のように響く。
(なんなんだ? こいつらは?)
ランドルフがこれまで「ハニーたち」と呼んできた貴族令嬢たち。何故、彼女らは自分を取り囲み、こんなにも味気ない話に花を咲かせているのだ? おかしい。ここ数日、なんだかおかしいことには自覚があった。
退屈な授業、形式だけの生徒会、そして退屈なソサイエティに顔を出し、大して美味くもない茶を啜り、菓子を噛む。そのすべてが、まるで色を失った世界を生きているような、そんな気分だった。いつも通り。これまで通り。なのに、おかしい。何かが、決定的におかしいのだ。胸の奥に空いたような違和感が、ランドルフの心をざわつかせていた。
ある日、木っ端貴族の夜会に招かれたランドルフは、クローゼットを開けた。そこには、赤、青、黄色、緑、紫、金色、銀色……色とりどりの、一流の仕立て屋に作らせた一級品の服がずらりと並ぶ。見るだけで目がくらみそうなほどの豪華絢爛さだ。
「なんなのだ? この毒々しい召し物は?」
ランドルフは思わず口に出した。おかしい。今まで、自分はこれを良しとして、いや、これこそが至上のファッションだとして、嬉々として着ていたではないか? その記憶と、目の前の現実との乖離に、ランドルフは困惑する。
その中から、ランドルフは、黒地に灰色の蓮の花があしらわれた、異国情緒あふれる貫頭衣をなんとなく手に取った。一番これが地味だが、なぜか、妙に惹かれるものがあったのだ。手触りも悪くない。むしろ、しっとりとしていて、上質な生地であることが伺える。かなり良い品なのでは?
しかし、貴族の夜会に、貫頭衣など、相応しいはずがない。そう思ったが、他の服を見ると、なぜか着る気が起きなかった。まるで、それらの服が、自分自身を覆い隠す仮面のように感じられたのだ。
その夜、夜会でのランドルフの服装は、概ね好評だった。
「まるで異国の王子さまみたいですわ!」
令嬢たちはそう言って目を輝かせ、悪い気はしなかった。彼らの称賛は、いつも通りの社交辞令だったかもしれないが、ランドルフの心には、いつもより確かに響いた。
そして、ある貴族が、その貫頭衣を指差して言った。
「それ、共和国の南部の少数民族の織物ですよね? さすがですね。とても良いものをお持ちで!」
共和国? その言葉が耳に届いた途端、頭の片隅がチリリと痛んだ。まるで、遠い記憶の扉を叩かれたかのように。
それ以来、ランドルフは学園に行くにも、公務にもこの貫頭衣を着るようになった。まず、着るのが楽だった。締め付けられるような窮屈さもなく、身体の動きを阻害しないその構造は、まるで自由な遊牧民にでもなったような気分だ。
それに、生地がしっかりとしていて、デザインも良い。王族が着てもあまり遜色はないようだ。
ある日、城の廊下に飾られている、一枚の絵に、ランドルフの目が惹きつけられた。
それは、炭で描いたかのような、朴訥とした雰囲気の作品だった。しかし、その素朴さの中に、なぜか心を掴んで離さない魅力がある。
タイトルは、『ロートシュタインの水上マーケット』。
まただ。また頭がジリジリと痛む。その絵には、水上に浮かぶ小舟と、活気あふれる人々の姿が描かれている。なぜか、その景色が、ひどく懐かしく、そして、そこに自分がいたかのような錯覚に陥った。
兄上のミハエルにこの絵について聞いてみた。すると、兄はランドルフの顔をじっと見つめた後、静かに言った。
「行ってみるか?」
最近、兄のミハエルは魔導車にご執心だ。級友に貰ったとかいう、最新魔導車:ネクサス2。それに乗って、翌日にはロートシュタインの水上マーケットに足を運んだ。
水上マーケットは、容赦ない暑い日差しの下、商人達が威勢の良い声を上げながら食べ物を売っている。
熱気と匂いが混ざり合い、それ自体が生命の息吹のようだ。ランドルフは、ある小さな店の前で、山積みになった真っ赤なカニに、目が離せなくなった。その鮮やかな赤色に、舌の奥がざわつく。
まただ、頭がジリっ、ジリっと痛む。そのカニの山が、まるで失われた記憶の扉を開く鍵であるかのように、ランドルフの脳裏に、一つの声が、そして振り返る少女の姿が、鮮明に浮かび上がった。
「あんた……だから、王子さまらしい……しなさいよ」
その声は、どこか口が悪く、しかし、同時に深い愛情を含んでいるようにも聞こえた。振り返る少女の姿。
誰なのだ? 君は。陽の光を反射する絹のような金髪。その髪は風に揺れ、キラキラと輝いている。そして、その表情には、強気な瞳の奥に、少し照れたような、しかし確かな勇ましさと頼り甲斐のようなものが感じられた。
「離宮は舟に乗ってしか行けないんだってよ」
兄のミハエルがそう言ってきた。
舟で湖面に出る。水面には、不思議なくらい真っ青な空と、息苦しいほどの入道雲が広がる。容赦ない日差しが目の奥を焼くようだ。もう、夏なのか。ランドルフはそう思った。
するとそこへ、湖上を滑る一艘の小舟が近づいてきた。
「カレーパンはいらんかねぇ! サクサクもっちり、ピリっと辛い、カレーパンだよー!」
活気に満ちた、どこか懐かしい声が聞こえてきた。どうやら、小舟に乗った少女が、遊覧船相手に何かを売っているらしい。ランドルフは、それに強く惹きつけられた。その声が、自分の中に失われた色の欠片であるかのように。
「面白いもの売っているな。一つくれないか?」
ランドルフは、衝動的に声をかけた。その物売りの少女は、ランドルフと同じくらいの年頃に見えた。麦わら帽子から溢れる、金髪のツインテールが、風に揺れるマリーゴールドのようにも見えた。
何故か、その少女は気まずそうに、しかし、どこか諦めたように答えた。
「は、はい。銅貨一枚です」
ランドルフは小舟に立ち、ハッと気づいた。そういえば、金なんて持っていない。王族が自分の財布を持ち歩くことなんてない。いつも従者が出すものだ。
その時、一陣の風が吹いた。突然の突風が足元の小舟をぐらりと揺らし、ランドルフはバランスを崩す。背中から湖面に落ちそうになる。
しかし、その時。
パシっ! と、誰かがランドルフの手を掴んでくれた。
カレーパンなるものを売っている、あの少女だった。その手は、細くて白い。本当に平民なのか? しかし、その力強さに、この少女の心の、勇ましさと、そして、とてつもない頼り甲斐のようなものを感じてしまった。
「気をつけなさいよ」
少女の声は、叱責のようでありながら、どこか優しさを帯びていた。
「あ、ああ。⋯⋯あの、その。名前を、聞いても?」
ランドルフは、ほとんど無意識のうちに尋ねた。
「⋯⋯あたしは、エリカ。家名は……ないわ。ただのエリカよ」
「そ、そうか。僕は、ランドルフという。あの⋯⋯どこかで会ったことが?」
と聞いたその質問は、離宮の方から聞こえてくる楽しげな喧騒に掻き消された。
どうやら、父上が馴染みの貴族を集めて宴会でも催しているようだ。
兄のミハエルから金を借りて、そのカレーパンなるものを口にする。
辛い! 肌を刺すような日差しの下で、スパイスを効かせた食べ物に、汗が吹き出す。熱い。だが、なぜか、その刺激が心地よかった。でも、悪くはない。いや、むしろ、最高だ。
湖面を吹く風は気持ちよく、この風通しの良い貫頭衣は助かる。
そういえば、この貫頭衣は、誰がくれた物だったか?
その時、エリカがフッと笑って言った。
「あんた、その服は悪くないわよ」