87.エリカの帰還
エリカ・デューゼンバーグは、突き上げるような衝動に駆られて走った。
なぜかは分からない。分からないが、今すぐにロートシュタインに向かわなければならない。その焦燥感は、胸の奥から湧き上がり、全身を支配していた。
夕刻になり、すでにロートシュタイン行きの馬車はなく、魔導車を扱う便乗屋もすでに店を閉じていた。エリカは半ばパニックになりながら、商業ギルドに駆け込んだ。
「ロートシュタイン行き、ですか? ああ! ちょうど、マーサさんが来てますよ! 彼女なら、ロートシュタインまでならビューン! ですよ!」
ギルドの受付嬢が、朗らかな声で教えてくれた。
「マーサ?」
マーサとは、魔導二輪車で緊急便を運ぶことを生業にしている女性だという。エリカは藁にもすがる思いで、マーサの元へと向かった。
そして今、エリカはマーサの後部座席にしがみつき、風になっていた。魔導二輪車は、馬車の比ではない速度で街道を駆け抜ける。
「しっかり掴まっててね!」
マーサの声が、風に乗って耳に届く。
「な、な、なにこれ! 速すぎ!」
エリカは思わず叫んだ。夕闇が迫る街道は、漆黒の帯のように無限に伸びているように見えた。風が髪を乱し、貴族の令嬢としては決して経験することのない速度とGに、エリカは興奮と恐怖が入り混じった奇妙な高揚感を覚えた。
しばらく走ると、地平線の先に、巨大な建物が見えてきた。
「ねぇ?! あれはなに?!」
エリカは、マーサの背中に向かって大声で質問した。
「ああ。あそこは競馬場ですよ! お馬さんを走らせて。お客さんがそれに賭ける。公営ギャンブルですよ!」
マーサの説明に、エリカの頭の中に、まるで古びた書物が一気に開かれるかのように、奇妙な言葉が流れ込んできた。
「競馬……、単勝、複勝、三連単……ん?」
その瞬間、エリカの胸の奥から、抑えきれないほどのワクワクがこみ上げた。理由も分からず、ただひたすらに、身体の内側から喜びが爆発しそうになる。
「なんであたしはこんなにワクワクしてるのよーーー?!」
夜の帳が降り、街の酒場が最も賑わう時間。エリカは、目的地である居酒屋領主館の前に立っていた。普通の貴族の令嬢が来るような場所ではない。騒がしく、下品で、しかし、なぜかその賑わいが、エリカの心に温かいものを灯す。
エリカは、つかつかと店の奥へと歩みを進めた。カウンターの向こうには、見慣れない男の背中があった。なぜだろう、その広い背中が、ひどく懐かしく感じられた。口悪くて、ちょっと乱暴で、しかし、なぜか心が落ち着く。
やはり、エリカはその男を知っている、気がした。
男が客に料理を出し終え、振り返った。その顔を見て、エリカの心臓が大きく跳ねる。その顔は、夢の中で見た男の顔だ。
「いらっしゃい。お嬢さま」
男の声が、エリカの耳に心地よく響いた。
「あ、あの……。茶色くて、それを白いものにかけた、そんな料理って、あるかしら?」
エリカは、抑えきれない衝動のまま、質問した。彼女の心の中には、明確な形はないが、確かに求めている料理があった。
男は怪訝な顔で首を傾げた。
「なんですか? 何かの謎かけですか?」
すると、その時だった。居酒屋の客の一人、冒険者風の男が、酒を煽りながら大声で叫んだ。
「あーあー! 久しぶりに、カツカレーが食いてーなー!」
それに続くように別の客も、カウンターに肘をつきながら声を上げる。
「あー! 俺も、チーズとホウレン草トッピングのカレーが食いてーぜ!」
「チっ! おい、お前ら、余計なことを!」
店主の男は、客たちの言葉にたじろぎ、焦ったように顔をしかめた。その焦りようが、エリカの直感を確信へと変える。
エリカは、ハッとして、カウンターに置いてあったメニューを手に取った。ページをめくる。ない。ない! 探している料理の名前がない。しかし、彼女の目に、ある不自然な部分が飛び込んできた。一箇所だけ、なぜか白色の塗料で塗りつぶされているのだ。何かを、消した?
エリカは、手近にあったコインを掴むと、その白色塗料をガリガリと削り始めた。周りの客や店主の視線など、もはや気にならなかった。指先に伝わるコインの硬い感触。塗料が削れていくたびに、心臓の鼓動が速くなる。
そして、露わになったその文字。
カレーライス
パリンっ!
と、エリカの頭の中で、何かが砕け散る音がした。まるで、凍り付いていた氷が砕け、堰き止められていた水が一気に流れ出すかのように、色鮮やかな記憶の奔流が溢れ出し、渦巻く。
「なんでわたしが働かなきゃならないのよ?! こんな薄汚い場所で!」
「うっさいわね! あんた達、気安く呼ぶんじゃないわよ!」
「ちょっとぉー! 誰よお尻触ったの?! ラルフ! こいつに殲滅魔法ぶっ放してー!」
身体中に、声が、匂いが、感情が、鮮明に蘇る。笑い声、喧嘩の声、罵声、そして、あの男の、呆れたような声。
やはり。やはり、私はここにいた!
この場所に。私はいたのだ。
ラルフだ。ラルフ・ドーソン。そうだ、この人の名前は、ラルフ・ドーソンだ!
「まさか、大魔道士である僕の魔術が、魔道適性の低いお前ごときに破られるなんてなぁ……」
ラルフは、困ったような、しかしどこか感心したような顔で、エリカを見つめた。
「なんでこんなことしたのよ?」
エリカは、涙を流しながら、ラルフに問い詰めた。
「それがお前の幸せなんじゃないか。って」
ラルフの言葉は、まるでどこか遠い場所から聞こえてくるようだった。
「ふん! 余計なお世話よ! 自分の幸せなんてね、自分で決めるものなのよ!」
エリカは、きっぱりと言い放った。彼の魔法は、確かに自分のためだったのだろう。しかし、自分の人生は、自分で選ぶべきだ。
「おーい! いつまで三文芝居やってんだぁ? カレーまだかよぉ」
痺れを切らした客が、大声で催促する。その声が、現実へと引き戻した。
「それに、これ!」
エリカは、母親が渡してくれた一枚の紙を掲げた。それは、あの「奴隷移譲契約書」だ。そこには、ドーソン公爵家からデューゼンバーグ伯爵家への、奴隷の移譲が記されている。そして、小さな文字で「分割払い」とある。
「……分割払いって。伯爵家とは言え、うちもそんなにお金持ちじゃないのね……。よって! あたしは、まだ貴方の奴隷ってことよね? さぁ、あたしをここで働かせなさい!」
エリカは、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、しかし力強く宣言した。
ラルフは、盛大にはあぁ、とため息をついた。その表情には、諦めと、再び始まる騒がしい日々の予感が混じり合っている。
「地下の冷凍庫にお前の作ってた試作品がまだ大量にある。出してこい」
ラルフの言葉に、厨房から駆け込んできたミンネとハルが、エリカにエプロンを差し出した。彼女らの顔にも、久々の再会を喜ぶ笑顔が浮かんでいる。
それを受け取ると、エリカはギュッと腰に巻いた。その手つきは、もうすっかりこの場所の人間だ。
「すぐ出すから待ってなさいよー! アンタたち!」
エリカの声が、居酒屋中に響き渡る。その声は、以前よりもずっと生き生きとしていた。
「捨ててなかったんですね? 彼女のカレー」
アンナがラルフの横に来て、そっと耳打ちをする。その声には、微かな笑みが含まれていた。
「別に、めんどーだっただけ」
ラルフは、そっけなく答えた。だが、その表情には、どこか満足げな色が浮かんでいる。
「まあ、お優しいこと」
アンナは、それ以上何も言わず、静かに微笑んだ。
「ふんっ! ……アルストの店にカレースパイスを持ち込んだの、アンナでしょ? ちょっと前に急に暇を貰うって言ってた、あの日に王都に行ってたんだね?」
ラルフの指摘に、アンナは一瞬、目を見開いた。だが、すぐにいつもの無表情に戻る。
「さあ、……なんのことでしょう?」
アンナは淡々とそう返し、客の注文を取りに歩いていった。
居酒屋の喧騒は今日も変わらず。そして、厨房の奥からは、少しずつ、記憶に刻まれたカレーの匂いが漂いはじめた。エリカの本当の居場所は、間違いなくここだった。