86.王都のエリカ
エリカ・デューゼンバーグは、ゆっくりと目を開けた。そこに見慣れた王都の屋敷の天井が広がっている。柔らかな朝の光が窓から差し込み、部屋を淡く照らしていた。
(なんだか良くない夢を見ていた気がする……)
胸の奥に、得体の知れない重苦しさが残っている。しかし、それが何だったのか、思い出そうとするほどに、記憶は曖昧な霞の中へと消えていった。
控えめなノックと共に、専属のメイドが入ってくる。いつものように、滑らかな手つきで丁寧に髪を梳かし、金髪のドリルツインテールに整え、完璧な巻き髪に仕上げてくれた。鏡に映る自分の顔は、絵に描いたような貴族の令嬢そのものだ。完璧な姿に違和感はない。だが、やはり胸の奥に薄い膜のようなものがかかっているような気がして、エリカは小さく首を傾げた。
母親と朝食をとった。広いダイニングテーブルには、銀食器がきらめき、彩り豊かな料理が並ぶ。
「エリカ、今日はダンスの先生がいらっしゃいますよ」
母親の優雅な声が聞こえる。
「はい。お母様」
エリカはぼんやりと返事をした。身体はここにいるのに、意識のどこか一部分だけが、まるで雲の中にいるかのようにフワフワしている。この違和感は何なのだろう?
スープを口に運ぶ。⋯⋯薄い。いや、味は薄いわけではない。むしろ上質な食材の味が十分に引き出されている。しかし、何かこう……物足りないのだ。舌の奥が、もっと強い、もっと刺激的な味を求めている気がする。
「はあ、やっぱり、カ、……カ、カ?」
その言葉が口から出かかった瞬間、エリカのこめかみにチリリとした痛みが走った。まるで、その言葉を発することを拒むかのように。
「どうしたの? エリカ」
母親が心配そうにエリカの顔を覗き込む。
「なんでもありませんわ。お母様……。そういえばお母様、お父様は今日は?」
エリカは、咄嗟にごまかした。
「ロートシュタインに滞在中ですよ? どうしたの?」
母親の言葉に、エリカは再び痛みを覚えた。
「ろ、ロートシュタイン?」
その地名を聞いた途端、またしてもチリチリとした痛みが頭を駆け巡る。ロートシュタイン領。確か、あの新進気鋭の大魔道士の公爵様が治めている土地だと聞いたことがある。エリカには、何の縁もゆかりも無い、はずだ。だが、なぜか、その名前を聞くと、胸の奥がざわつくのだ。
ダンスのレッスンを終え、エリカはメイドを連れて街に出た。屋敷にいても、この得体の知れない違和感は消えそうになかったからだ。王都の街は、屋台が並び、人々が行き交い、活気に溢れている。賑やかな声や、立ち並ぶ店の匂いが混ざり合い、それ自体は心を高揚させるものだった。しかし、エリカは、なぜか、何とも言えぬ所在なさを感じていた。まるで、自分だけが、この活気の中から切り離された存在であるかのように。
代わり映えのしない、どこかフワフワとした一日が過ぎていく。夕食の席で、母親はエリカに縁談が来ていることを教えてくれた。
どこかの子爵家の長男とのことだが、エリカの耳には、その言葉が遠く、ぼんやりとした音としてしか届かなかった。まるで、自分とは関係のない、どこか他人事のような感覚。
夜、自分のベッドに横たわる。柔らかい寝具は心地よいはずなのに、なかなか睡魔はやってこない。静寂が、かえってエリカの頭の中を駆け巡る違和感を増幅させる。
「知らない天井ね」
思わず、口からそんな言葉が漏れた。
いや。何を言っているのだ。見慣れた天井のはずだ。この屋敷で生まれ、この天井をずっと見て眠りについてきた。本当に? その疑問が、深く、深くエリカの心に沈んでいく。
いつの間にか、エリカは夢の中だった。
夢の中で、エリカは、どこか知らない場末の酒場のような場所で給仕をしていた。油と埃と酒の臭いが混じり合い、そこに香ばしいソースの焦げた匂いが加わる。下品な笑い声と、客たちの喧騒。エリカは、そこで常連客たちに怒鳴り散らしながら、雑な接客をしている。だが、なぜか、皆、笑っている。エリカも、不満そうな顔をしながらも、楽しそうに笑っていた。
カウンターの中にいる、その男がエリカを呼んだ。誰だっけ? えーっと、ラ、ラル……。男は見慣れない料理をエリカに差し出した。どうやら、食べてもいいらしい。その皿から漂う、鼻腔をくすぐる独特の香り。
「えっと? この、料理は、カ、カ、カレ……」
エリカは、ハッと目を覚ました。辺りはまだ暗い。真夜中の静寂の中で、彼女は自分が涙を流していることに気がついた。頬を伝う涙は冷たく、拭っても拭っても止まらない。一体なぜ、自分は泣いているのだろう?
翌日。縁談相手の肖像画が屋敷に届いていたが、エリカはそれを見る気になれなかった。心が、どこか別の場所へと強く惹かれているのを感じる。
ふと、街を歩いていると、妙に気になる匂いがただよってきた。胃の奥からじわりと湧き上がるような、記憶を刺激する香り。それに惹かれ、エリカはフラフラとそちらへ向かった。
「お、お嬢様!」
メイドが慌てて後を追うが、エリカの足は止まらない。
辿り着いたのは、小さな食堂だった。看板には「アルストの食堂 絶品! ネギたっぷり麺」と書かれている。エリカはまるで何かに導かれるかのように、迷わずその扉をくぐった。
「いらっしゃい! ん? あ! エリカ様!」
店主が嬉しそうにそう声をかけてきた。しかし、エリカはその男を知らない。知らない……はずなのに、なぜ彼は私を知っているのだろう? 頭にまたもやヂリヂリと痛みが走る。
「あっ、あの。この匂いって?」
エリカは、鼻腔をくすぐる香りの元を尋ねた。
「さすがエリカ様! わかりましたか? 完成したんですよ! ネギたっぷりカレー麺が! どうぞ。試食してください!」
カレー。カレー?!
その言葉を聞いた瞬間、エリカの脳裏に、あの夢の中の匂いが蘇る。彼女はそれを知っている気がする。食べたことがある、気がする。そして、その匂いの奥に、もっと大切な何かがあるような気がしてならない。
エリカは、家に帰ると屋敷の書庫にあるロートシュタイン領に関する本を必死に探した。そして、埃を被った棚の奥で、一冊の薄い本を見つけた。『ロートシュタイン領 魅惑のグルメ探訪記 著者:ヨハン』。表紙には、見慣れないが、なぜか心を惹かれる料理の絵が描かれている。
ページをめくるたびに、エリカの頭痛はガンガンと強烈なものになっていく。まるで、閉じ込められた何かが、誰かが、「ここから出してくれ!」と、必死に叫んでいるかのようだった。
喉の奥から、込み上げるような、抑えきれない衝動が湧き上がる。
エリカは、そのまま書庫を飛び出し、母親の元へ駆け出した。
「お母様! 教えて、私、ロートシュタインにいたことがあるわよね?」
エリカの声は、半ば悲鳴のようだった。
母親は、優雅なティーカップを静かにソーサーに戻した。その表情には、微かな動揺と、そして深い悲しみが浮かんでいる。
「エリカ、エリカは生まれてから一度も王都から出たことは……」
「お願い! お母様! 本当のことを教えて!」
エリカは母親の腕にすがりついた。その瞳は、真実を求める強い光を宿している。
母親は、ふぅ、と諦めたようにため息をついた。その視線は、遠く、過去を見つめているかのようだった。
「ねえ、エリカ。あなた、今が幸せだと、そうは思わない? 貴族として生まれ、自由はそれほどにあるわけではないけれど、飢えることもなく、凍えることもなく……」
母親の言葉は、エリカの心を慰めようとしている。だが、それは、エリカが求めている答えではなかった。
「お母様、私、あたし、あたしの居場所は、ここじゃない気がするの……。だから、お願い。本当のことを教えて!」
エリカの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。彼女の心が、まるで引き裂かれるかのように叫んでいた。その場所がどこかは分からない。だが、確かに自分には、帰るべき場所がある。あの夢の中の酒場。あの男。そして、あの香ばしいカレーの匂い。そこが、本当の自分の居場所なのだと、彼女の魂が叫んでいた。




