83.華麗なる犯行
「《思考力加速!》」
ラルフの口から呪文が紡がれる。魔力を自分自身に纏わせ、身体能力を向上させる技術の応用だ。その魔力を、今回は脳髄と神経に無理矢理に混線させる。頭の中で時間が引き延ばされたかのように、思考が恐るべき速度で加速していく。
今、ラルフの目には、周囲のすべてがスローモーションに映っていた。
小舟から池に転落しそうになっているランドルフ第七王子。
「やっちまった!」と顔にありありと書かれたエリカの驚愕と後悔が入り混じった表情。
船尾が跳ね上げた、一つ一つの水滴がゆっくりと宙を舞う。
驚愕に目を見開く王子の従者の顔。
手を伸ばす。しかし、王子の落下には間に合わない。
身体強化を重ね掛けして、間に合わせるか?
いや、無理だ。あちらの舟に飛び移らなければ。
どうする?
このままでは、エリカは不敬罪どころか、直接的にそして意図的に王族に危害を加えたとみなされるだろう。
ラルフの脳裏に、ぞっとするような光景が瞬時に再生された。
みすぼらしい格好をさせられたエリカが、手錠と足輪をされ、聴衆から罵詈雑言や小石を投げられながら、鎖を引きずり、断頭台へ登る姿が。
いやいや!
このメスガキがどうなろうと知ったことではない。しかし、まあ多少の、本当に多少の、ほんの僅かな情けがないでもない。
それに、エリカはラルフの所有物だ。彼女が罪を犯せば、ラルフにも何らかのお咎めがある。面倒な事態は避けたい。
念動力で王子の身体を支える? いや、ラルフはそこまで器用ではない。精密な操作は苦手だ。
いっそ、湖面を瞬間的に凍らせるか? いやいや、それでは王子が後頭部を強打して、もっと酷いことになる。
「ああー。もう、なんか。……めんどくせぇ!」
ラルフは開き直った。面倒なのは承知の上だ。だが、やると決めたからには、完璧にやる。
ローブの懐に仕込んだ魔石を数個素早く取り出し、即座に周囲に認識阻害と遮音の魔法陣を展開する。透明な膜が彼らの周囲を覆い、外からの視線と音を遮断した。
バッシャーン、と湖面に盛大な水しぶきを上げて王子が落ちる。魔法陣のおかげで、この音は外には響かない。
「で、殿下っ!」
叫ぶ王子の従者。その背後に、ラルフは瞬時に回り込んだ。魔力を纏わせた手刀を、迷いなくその首筋に「トン」と当てる。
「うっ……」
短く呻き声を上げた従者は、そのまま糸が切れたように意識を刈り取られ、舟の上に倒れ込んだ。
離宮の方を確認する。誰もこの騒ぎに気づいていない。魔法陣の展開が間に合ってよかった。
ラルフは魔力展開をキャンセルした。ほんの一瞬の出来事だったが、思考力を極限まで加速させ、魔力を精密に操作したことで、ラルフはぐったりと疲れを覚えた。脳がジンジンと痺れているような感覚だ。
「ぷはっ! ゲボっ、ゲホっ、ゲホ! 貴様、こんなことをしてどうなるのかわかって……」
水面から顔を出したランドルフ王子が、水を吐き出しながら罵声を浴びせようとする。だが、その言葉は途中で遮られた。
「殿下、ささっ。この手をお取りください」
ラルフはまるで何事もなかったかのように、にこやかな笑みを浮かべ、彼の手を差し出した。
「はっ、はっ、早く助けろ! ゲホっ」
ランドルフ王子は、まだ状況を把握できていない様子で、ラルフの差し出した手にしがみついてきた。その時、ラルフは空いている手の人差し指に、集中して魔力を集めた。
「はい。殿下、では。これをご覧下さい」
「はっ?」
訝しげな表情でラルフの人差し指を見た瞬間だった。
「《記憶消去》」
ラルフの人差し指がピカッと眩い光を放つ。その光は、王子の瞳の奥へと吸い込まれていくようだった。
次の瞬間、王子の顔から感情が完全に欠落したかのような無表情になった。
呆然と虚空を見つめるその瞳には、何も映っていないかのようだ。
「あ、あれ?」
王子が、記憶の断片を辿るように、小さく呟いた。
「殿下、暑くなってきたとはいえ、このような場所で水泳など。お身体に障りますよ?」
ラルフは自然な口調で語りかける。
「えっ、あ。うむ。ん? ああ、……そう。そうか」
王子の意識は覚醒しつつも、曖昧な記憶の混濁に戸惑っているようだった。ラルフは王子の身体を水面から引き上げる。
「まったく。豪胆なお人だ。まさかお召し物を着たまま飛び込むなんて。ハッハッハッハッ」
ラルフはわざとらしく笑い、王子の背中をポンポンと叩いた。
「あ、ああ。そう、そうだった。か?」
王子はまだ疑問符を浮かべているが、ラルフの言葉に流されるように頷いた。
「さあ! 殿下、あちらに美味いカニを出す店があるのですよ! 行きましょう! 食べたいと仰っておられましたよね?」
「あ、ああ。そういえば、そう。だった? か?」
食い気には勝てないのか、王子の表情に少しだけ生気が戻った。
「あ、殿下。少々お待ちを」
ラルフは、気を失っている王子御付きの従者を抱え上げ、離宮の一室、使用人たちの待機部屋のソファにもたれかけさせた。そのうち目を覚ますはずだ。多分、
「あー。ちょっとちょっと。君、いいかな?」
忙しそうにしているメイドに声をかける。
「はい?」
「私の従者なんだが、起こさないでやって貰えるか? 死ぬほど疲れているんだ」
ラルフは、とびきりの笑顔でそう言い含めた。メイドは少し戸惑いつつも、その言葉に従い、頷いた。
なんと、ラルフは自ら所有する奴隷の不始末を、恐ろしく鮮やかな手口でロンダリングしてしまったのだ。
王族御付きの従者を一時的に手に掛け(命に別状はないが)、第七王子の記憶を消去し、拉致する、という。とんでもない大罪に手を染めてしまった。
だが、彼の顔には、大仕事を終えた後の達成感と、少しばかりの疲労感しかなかった。
「エリカ、お前は、とりあえずカレー饅頭売ってろ」
ラルフが小舟に戻ると、エリカはまだ呆然としていた。
「う、うん……」
彼女は、ラルフのあまりにも手慣れた、そして恐るべき鮮やかな「処理」に、心底ドン引きしていた。