6.エールに革命を!
「うーん、やっぱこれじゃダメだな」
領主館の一室で、ラルフは目の前の木製ジョッキを傾け、琥珀色の液体を一口含んだ。
眉間に深い皺が寄る。口の中に広がるのは、この世界の一般的なエール、いわゆる「農家エール」の素朴で、はっきり言って粗野な味わいだ。発酵は不完全で、酸味と雑味が強く、芳醇さとは程遠い。
「旦那様、それほどまでに不味いのですか?」
アンナが、心配そうに尋ねる。彼女自身は、エールを嗜む習慣がない。
「不味いってわけじゃないんだが……もっと美味しくなるはずなんだよ。せっかく居酒屋をやるんだ。料理に合う、最高の酒を用意したい」
ラルフは、ぐいと残りのエールを飲み干し、ジョッキをテーブルに置いた。前世の居酒屋には、多種多様なビールがあった。キレのあるラガー、香りの良いエール、そしてフルーティーなフレーバービール。この世界の酒は、いかんせん種類が少なすぎる。
「よし、エールの改良だ!」
ラルフは立ち上がると、すぐさま行動に移した。まずは、エールを製造している農家との契約だ。
領地内には、いくつかの農家が自家製のエールを細々と造っている。その中でも、特に規模が大きく、品質もある程度安定している農家を選び、ラルフは直接交渉に赴いた。
「我らが若き領主様が、まさかエールのことで直々に……!」
農家の主は、ラルフの突然の訪問に恐縮しきっていた。ラルフは、丁寧な言葉遣いで、自身の居酒屋計画と、それに伴うエール改良の意図を説明した。農家側も、公爵家からの安定した買い付けは願ってもない話だ。品質向上には協力すると申し出てくれた。
次に、ラルフが向かったのは、王都の錬金薬学専門の知り合い、アルフレッドの元だった。アルフレッドは、ラルフが学園時代からの旧友で、その腕前は賢者の塔からも認められている。
「ラルフ、まさか君が俺の店に顔を出すとはな。何の用だ?」
白衣をまとったアルフレッドは、フラスコを片手に、いかにも研究者といった風情で迎えた。店の奥には、怪しげな液体が詰まった瓶や、珍しいハーブが所狭しと並べられている。
「やあ、アルフレッド。ちょっと頼みたいことがあるんだ。ハーブと香草を大量に売ってほしい」
ラルフは、自身の居酒屋計画を掻い摘んで説明し、エールの改良について相談を持ちかけた。
「なるほど、エールに香り付けか。面白い発想だな」
アルフレッドは、興味深そうに腕を組んだ。
「たしかにハーブは、薬草としての利用が主で、食用や香り付けに使われることは少ない。だが、僕の専門は錬金薬学だ。様々な素材を調合し、新たな香りを生み出すのは得意分野だ」
アルフレッドは、店の奥から様々なハーブや香草のサンプルを取り出してきた。ラルフは、前世の知識とこの世界のハーブの特性を照らし合わせながら、香りを試していく。
「これは、柑橘系の香りがするな……」「これは、少しスパイシーな香りがする」「これは、花のような甘い香りだ」
いくつものハーブや香草を組み合わせ、アルフレッドと共に試行錯誤を重ねる。時には、ラルフの魔法の知識が役立った。ハーブの香りを効率よく抽出する方法や、エールに均一に香りを移すための魔術的なアプローチを提案する。
そして、ラルフは思い出した。前世の「ビールカクテル」や「フルーツビール」の存在を。
「アルフレッド、質問なんだが、白ワインって、エールに混ぜたらどうなると思う?」
ラルフの突拍子もない提案に、アルフレッドは目を丸くした。
「エールにワイン? 悪魔の所業か、天才の発想か……」
アルフレッドは訝しげな顔をしながらも、錬金術師の好奇心に駆られて、すぐに試作に取り掛かった。
まずは、基本となる農家エールをベースに、試行錯誤の末に厳選したハーブや香草を調合したものを加えてみる。
「うむ、これだけでもかなり香りが変わるな。雑味が抑えられ、ハーブの爽やかな香りが広がる。これだけでも十分いける!」
ラルフは、改良されたエールを口にして、満足げに頷いた。しかし、彼の探求心は止まらない。
次に、この改良されたエールに、少量だが質の良い白ワインをブレンドしてみた。
「……!」
一口含んだラルフの顔に、驚きと感動の色が浮かんだ。白ワインの持つフルーティーな酸味と芳醇さが、エールの持つ麦の風味と絶妙に融合している。ハーブの香りが、さらに複雑で奥行きのある味わいを生み出している。
「これだ! これだよ、アルフレッド!」
ラルフは、興奮して叫んだ。
「これは、フレーバービールだ! この世界にはない、
新しい飲み物だ!」
アルフレッドもまた、その完成度に驚きを隠せない。
「信じられん……エールとワイン、異質なものがこれほどまでに調和するとは。しかも、ハーブがこれほど効果的に作用するとはな。まさに錬金術の極致だ!」
その日から、ラルフとアルフレッドは、様々なフレーバービールの開発に没頭した。
柑橘系のハーブと白ワインをブレンドした「シトラスエール」、スパイシーな香草と少し甘めの白ワインを合わせた「スパイスドエール」、そして花のような香りのハーブと辛口の白ワインを組み合わせた「フローラルエール」。
この世界には存在しなかった、ラルフ独自のブレンドによる「フレーバービール」が次々と誕生していく。
数日後、ラルフは孤児院に、新しいエールを携えて向かった。そこでは、子供たちが元気いっぱいに畑を耕していた。
「みんな、ちょっと休憩だ! 新しい飲み物を持ってきたぞ!」
ラルフが声をかけると、子供たちは目を輝かせて駆け寄ってきた。もちろん、子供たちにはアルコールが入っていない、フレーバーエール風の飲み物だ。ハーブで香り付けされた甘い麦芽飲料だ。
「わーい!」「いい匂い!」「おいしい!」
子供たちの素直な感想が、ラルフの心を温かくする。
そして、エヴリンにも一口勧めた。彼女は、まだどこか怯えた表情ではあったが、それでもラルフが差し出したジョッキを受け取った。
「これは……! とても飲みやすいです。香りも良く、爽やかで……」
エヴリンの顔に、初めて心からの安堵と、かすかな笑みが浮かんだ。それは、ラルフが彼女に科した「奴隷」としての労働とは別の、純粋な喜びの表情だった。
ラルフは、満足げにその光景を見つめた。居酒屋領主館は、単なる酒場ではない。この領地に、新たな文化と喜びをもたらす場所になる。そして、そのために、彼は労を惜しまない。