57.転職は甘くない!
居酒屋領主館に、新たな従業員の応募があった。というか、特に採用活動をしているわけでもないのに、馴染みの貴族から押し付けられるのは、もはやラルフの日常と化していた。
まあ、人手はいくらでも欲しいので、彼は断ることはしない。
今回の応募者は、年頃の女性だった。齢は二十歳。名はリノ・ワトソン。
彼女は、驚くべきことに、王女クレア・バランタインの姪にあたるという。騎士爵の出で、嫁いだ先の初夜の寝室で、夫を半殺しにして実家に追い返されてきたらしい。
ラルフは、その話を聞いて「あー。あの豚野郎か。想像つくわぁ。ざまみろ」と、不謹慎にも口角を上げていたとかいないとか。
もちろん、アンナの視線は冷たかったが、ラルフは全く気にする様子もなかった。
とりあえず、リノに居酒屋領主館の仕事を覚えさせるため、ラルフはその身柄をエリカに任せた。
エリカは、あの「ヘンリエッタ・カフェ」にカレーを卸すなど、領主館の厨房を取り仕切る実力者だ。
「あ、あのー?私は何をすれば?」
厨房に足を踏み入れたリノが、戸惑いながら尋ねる。
しかし、エリカは寸胴鍋から目を離すことなく、真剣な表情で応えた。
「静かに!カレーは生き物なのよ。その花開く一時を逃せば、ただの残飯にも成り果てる」
リノは、その言葉の「一時を逃した」という部分が、まるで自分自身に向けられた皮肉のように感じられ、胸に痛々しいまでに刺さった。初夜の惨劇が、まざまざと脳裏に蘇る。
居酒屋がオープンすると、厨房は瞬く間に戦場と化した。活気というよりは、もはや混沌だ。
「八番テーブルにありったけビール持っていきなさい!それで時間稼いで!」
エリカの怒号のような指示が飛ぶ。
「はっ、はい!」
リノは反射的に返事をした。騎士爵の家に生まれ、いつ何時も生き延びるためと、父に教わった研鑽が、こんな場所で役に立つとは思いもしなかった。剣の稽古、体術の鍛錬。女が剣の腕を磨いても、と周囲から言われ続けた。たしかにそうだ。そして、リノには剣の才能はなかった。しかし、この戦場のような厨房での素早い動き、咄嗟の判断力は、幼い頃の訓練がなければ到底身につかなかっただろう。
「カレーも勧めなさいよ!」
エリカがさらに指示を飛ばす。
「ええ。この乱戦の中で?」
リノは、戸惑いを隠せない。こんな状況で、どうやって客に新メニューを勧めるというのか。
「見てなさい!」
エリカはそう言い放つと、特製のカレールーが入った小鉢を、焼き魚定食を食べている貴族のテーブルに
「トンッ」と音を立てて置いた。
「試しなさいな。新作よ」
戸惑いながらも、その貴族は言われた通りにカレールーを白飯にかけて食べ始めた。一口、二口と食べ進めるうちに、彼の目が見開かれ、やがて恍惚とした表情を浮かべた。その光景に、リノは驚きを隠せなかった。
営業時間が過ぎ、ようやく喧騒が収まると、リノはエリカにカレーの鍋を厨房の地下に運び込むのを手伝わされた。重い寸胴鍋を抱え階段を下りていくと、一枚の頑丈そうな扉が現れた。
「この扉は、気安く開けるんじゃないわよ」
エリカが低い声で忠告した。その言葉に、何か特別なものがあることを感じたリノは、緊張しながら扉を開けた。その向こうは、信じられないくらいに寒かった。
「え、え!エリカさま!なんなのです!ここは!」
リノは思わず声を上げた。白い壁。棚がどこまでも続く、不思議な保管庫。吐く息は白く、全身の毛穴が開くほどの寒さだ。
「ここは、冷凍庫よ。ラルフの転移門で、この世界の最南端の、人の住まない氷の大陸の地下に繋がってるの」
「えっ!いや、寒っ!それ、それって、そんな魔術、あっていいんですか?」
リノは、あまりにも常識外れな話に、半ばパニックになっていた。転移門?氷の大陸?自分の知っている世界の常識が、音を立てて崩れていくようだった。
「まあ、事実だからねぇ。とにかく。カレーは冷凍すればいくらでも保管できるから」
エリカは涼しい顔で、棚に積まれたカレーの試作品を指差した。そこには、番号を振られたカレーの寸胴鍋が大量に積められていた。それらは、一つ一つが、エリカの飽くなき探求心の結晶なのだろう。
「本当に、ここ、最果ての地なんですか?!」
リノは信じられない思いで、再度尋ねた。
「疑うなら、外見てみなさいよ!」
エリカの言葉に促され、リノは天井に続く梯子を登った。その先には、丸い扉があった。おそるおそる扉を開き、外の風景を確認する。
そこには、見渡す限りの銀世界が広がっていた。
そして、遥か彼方に、白い巨大な影が動いているのが見えた。
「な、な、なんか。白い、タイラント・ベアーみたいなのいました!」
リノは悲鳴にも似た声を上げ、すぐに扉を閉めて戻ってきた。自分が見たものが信じられない。まさか、あんな巨大な魔物が、本当にこの世に存在するとは。
「気をつけなさいよー。あれ、意外に凶暴だから。クレア殿下が追いかけ回してたけどね」
エリカは呆れたように言った。
クレア殿下は、猫や獣人や、とにかくモフモフした生き物を愛でることで知られている。その衝動が、まさかあんな巨大な魔物にも向けられるとは。
「氷上で、あの白い巨大生物と死闘をはじめた時は、さすがのラルフも顔を青くしてたわね」
エリカの言葉に、リノは叔母とラルフの意外な一面を垣間見た気がした。
リノの新しい職場は、想像をはるかに超える場所だった。夫を半殺しにした過去が、ここでは何の意味も持たない。この居酒屋領主館という場所は、彼女にとって、これまでの人生とは全く異なる、新しい物語の始まりになるだろう。