表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/78

57.転職は甘くない!

 居酒屋領主館に、新たな従業員の応募があった。というか、特に採用活動をしているわけでもないのに、馴染みの貴族から押し付けられるのは、もはやラルフの日常と化していた。

 まあ、人手はいくらでも欲しいので、彼は断ることはしない。

 今回の応募者は、年頃の女性だった。齢は二十歳。名はリノ・ワトソン。


 彼女は、驚くべきことに、王女クレア・バランタインの姪にあたるという。騎士爵の出で、嫁いだ先の初夜の寝室で、夫を半殺しにして実家に追い返されてきたらしい。


 ラルフは、その話を聞いて「あー。あの豚野郎か。想像つくわぁ。ざまみろ」と、不謹慎にも口角を上げていたとかいないとか。

 もちろん、アンナの視線は冷たかったが、ラルフは全く気にする様子もなかった。


 とりあえず、リノに居酒屋領主館の仕事を覚えさせるため、ラルフはその身柄をエリカに任せた。

 エリカは、あの「ヘンリエッタ・カフェ」にカレーを卸すなど、領主館の厨房を取り仕切る実力者だ。


「あ、あのー?私は何をすれば?」


 厨房に足を踏み入れたリノが、戸惑いながら尋ねる。

 しかし、エリカは寸胴鍋から目を離すことなく、真剣な表情で応えた。


「静かに!カレーは生き物なのよ。その花開く一時を逃せば、ただの残飯にも成り果てる」


 リノは、その言葉の「一時を逃した」という部分が、まるで自分自身に向けられた皮肉のように感じられ、胸に痛々しいまでに刺さった。初夜の惨劇が、まざまざと脳裏に蘇る。


 居酒屋がオープンすると、厨房は瞬く間に戦場と化した。活気というよりは、もはや混沌だ。


「八番テーブルにありったけビール持っていきなさい!それで時間稼いで!」


 エリカの怒号のような指示が飛ぶ。


「はっ、はい!」


 リノは反射的に返事をした。騎士爵の家に生まれ、いつ何時も生き延びるためと、父に教わった研鑽が、こんな場所で役に立つとは思いもしなかった。剣の稽古、体術の鍛錬。女が剣の腕を磨いても、と周囲から言われ続けた。たしかにそうだ。そして、リノには剣の才能はなかった。しかし、この戦場のような厨房での素早い動き、咄嗟の判断力は、幼い頃の訓練がなければ到底身につかなかっただろう。


「カレーも勧めなさいよ!」


 エリカがさらに指示を飛ばす。


「ええ。この乱戦の中で?」


 リノは、戸惑いを隠せない。こんな状況で、どうやって客に新メニューを勧めるというのか。


「見てなさい!」


 エリカはそう言い放つと、特製のカレールーが入った小鉢を、焼き魚定食を食べている貴族のテーブルに

「トンッ」と音を立てて置いた。


「試しなさいな。新作よ」


 戸惑いながらも、その貴族は言われた通りにカレールーを白飯にかけて食べ始めた。一口、二口と食べ進めるうちに、彼の目が見開かれ、やがて恍惚とした表情を浮かべた。その光景に、リノは驚きを隠せなかった。



 営業時間が過ぎ、ようやく喧騒が収まると、リノはエリカにカレーの鍋を厨房の地下に運び込むのを手伝わされた。重い寸胴鍋を抱え階段を下りていくと、一枚の頑丈そうな扉が現れた。


「この扉は、気安く開けるんじゃないわよ」


 エリカが低い声で忠告した。その言葉に、何か特別なものがあることを感じたリノは、緊張しながら扉を開けた。その向こうは、信じられないくらいに寒かった。


「え、え!エリカさま!なんなのです!ここは!」


 リノは思わず声を上げた。白い壁。棚がどこまでも続く、不思議な保管庫。吐く息は白く、全身の毛穴が開くほどの寒さだ。


「ここは、冷凍庫よ。ラルフの転移門で、この世界の最南端の、人の住まない氷の大陸の地下に繋がってるの」


「えっ!いや、寒っ!それ、それって、そんな魔術、あっていいんですか?」


 リノは、あまりにも常識外れな話に、半ばパニックになっていた。転移門?氷の大陸?自分の知っている世界の常識が、音を立てて崩れていくようだった。


「まあ、事実だからねぇ。とにかく。カレーは冷凍すればいくらでも保管できるから」


 エリカは涼しい顔で、棚に積まれたカレーの試作品を指差した。そこには、番号を振られたカレーの寸胴鍋が大量に積められていた。それらは、一つ一つが、エリカの飽くなき探求心の結晶なのだろう。


「本当に、ここ、最果ての地なんですか?!」


 リノは信じられない思いで、再度尋ねた。


「疑うなら、外見てみなさいよ!」


 エリカの言葉に促され、リノは天井に続く梯子を登った。その先には、丸い扉があった。おそるおそる扉を開き、外の風景を確認する。


 そこには、見渡す限りの銀世界が広がっていた。

 そして、遥か彼方に、白い巨大な影が動いているのが見えた。


「な、な、なんか。白い、タイラント・ベアーみたいなのいました!」


 リノは悲鳴にも似た声を上げ、すぐに扉を閉めて戻ってきた。自分が見たものが信じられない。まさか、あんな巨大な魔物が、本当にこの世に存在するとは。


「気をつけなさいよー。あれ、意外に凶暴だから。クレア殿下が追いかけ回してたけどね」


 エリカは呆れたように言った。

 クレア殿下は、猫や獣人や、とにかくモフモフした生き物を愛でることで知られている。その衝動が、まさかあんな巨大な魔物にも向けられるとは。


「氷上で、あの白い巨大生物と死闘をはじめた時は、さすがのラルフも顔を青くしてたわね」


 エリカの言葉に、リノは叔母とラルフの意外な一面を垣間見た気がした。


 リノの新しい職場は、想像をはるかに超える場所だった。夫を半殺しにした過去が、ここでは何の意味も持たない。この居酒屋領主館という場所は、彼女にとって、これまでの人生とは全く異なる、新しい物語の始まりになるだろう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ