56.それぞれの居心地
"ヘンリエッタ・カフェ"プレオープンの日。この日は、ラルフの関係者や招待客のみに開かれた特別な日だった。
「どうも。ドーソン公爵」
柔らかな声に振り返ると、浅黒い肌に、煌めく金髪が眩しい、貴公子のような男が立っていた。洗練された立ち姿は、まさに絵になるようだった。
「ああ、今日はよろしく」
ラルフは軽く頷き、男と握手を交わした。その顔には、いつもの飄々とした笑みが浮かんでいる。
「どなたです?」
小声でアンナが尋ねてきた。彼女は、ラルフの社交の場に立ち会うことは少ないため、貴族や商人の顔には疎い。
「ああ。こちらは……」
ラルフが紹介しようとしたその時、男は自ら口を開いた。
「どうも。はじめまして、レディ。私はモーガン・ホルストと申します。ジョン・ポール商会の外商部長をしている者です」
モーガンは、優雅に貴族式の礼をとった。その動きは淀みなく、彼が上流社会の人間であることを物語っていた。
「では、モーガン君、案内を頼む」
ラルフは、旧知の仲であるかのように彼に声をかけた。
「かしこまりました」
モーガンに導かれ、店内に足を踏み入れると、すでに招待客で満ちていた。
華やかなドレスをまとった貴婦人たちや、きっちりとした服を着込んだ商人たちが、新しい甘味と、香しい紅茶を楽しんでいる。
店内には、笑い声と、上品な会話が満ちていた。
ドワーフ謹製のガラス細工の器や銀の匙が、陽光を反射して煌めき、シャンデリアの輝きがその空間を一層、特別なものにしていた。
ラルフとアンナが席につくと、モーガンが恭しくメニューを差し出した。
「なんですか?これ、チヨコレイト?」
アンナはメニューに目を凝らし、見慣れない文字を指さした。
「ああ。それがこの店のメインだ。ヘンリエッタが東大陸から持ち帰ったサトウキビと、海賊公社のメリッサが南海諸島から見つけてきたカカオ。それらを組み合わせて作られた菓子だな」
ラルフが解説をすると、
モーガンは流れるような口調で説明を引き継ぎだ。
「実は、カカオは大昔、この王国の東部でも、滋養強壮の薬として飲まれていた歴史があるのです。ヘンリエッタさんが古い資料を見つけ出さなければ、忘れ去られていた歴史です」
彼の完璧な説明に、アンナは感心した。ジョン・ポール商会が単なる流通業者ではないことを、その言葉が示していた。
「あっ、旦那さま。パンケーキもありますよ?」
アンナが、メニューの隅を見つけて声を上げた。
「ん?どれ。あっ!ホントだ。『ドーソン邸のパンケーキ』って、これ、完全に俺が作ってやってたやつだろ?」
ラルフは、自分の名前がメニューに載っていることに、どこか照れくさそうな、それでいて誇らしげな表情を浮かべた。
モーガンは、その様子を見てニヤリと笑った。
「ヘンリエッタさんの著書に載っているメニューを、できる限り再現しています。それはなかなかに、思い入れがあるように見受けられましたが?」
「ふんっ、じゃあ、僕はチョコレートケーキと、この白ワインを」
ラルフは照れ隠しをするように、ぶっきらぼうに注文した。
「旦那さま、こんな所でも飲むのですか?というか、お酒のメニューもあるのですね?」
アンナは驚いた。カフェで酒を飲むというのは、彼女の常識にはなかった。
「もちろん。奥方をお連れする旦那様方もいらっしゃるでしょうし。なので、軽食も少しばかりですが、ご用意させて頂いております」
モーガンは抜かりなく説明した。
「では。私は、このチョコレートタルトと、紅茶のセットを」
アンナは、上品な雰囲気に合わせて、慎ましく注文した。
「かしこまりました」
注文を終えたラルフは、キョロキョロと周りを見渡した。どうやら、給仕たちの姿を追っているようだ。
彼らの身のこなしは洗練されており、言葉遣いも丁寧だった。
「人員は、共和国の人間たちを雇ったみたいだな?難民か?」
ラルフがモーガンに問いかけた。
モーガンは静かに頷いた。
「ええ。先の戦で、故郷を追われた、私の同胞達ですよ」
彼の声には、わずかながら悲しみが含まれているように聞こえた。
「ああ、……そういえば、そうだったな」
ラルフは、モーガンが過去に共和国の貴族だったことを思い出した。彼らは、ジョン・ポール商会の活動を通して、ロートシュタイン領で新たな生活を築いているのだ。
周りの客たちは、優雅に甘い菓子とお茶を楽しんでいる。誰もが満足げな顔をしており、「ヘンリエッタ・カフェ」の成功を予感させる光景だった。
約一名、席に座ったエリカだけが、紅茶と口にした軽食のカレーライスを交互に味わいながら、真剣な顔で呟いていた。
「うーん。紅茶と合わせるとなると、もう少し辛さを控えてもよかったのかしら?」
彼女は自分がこの店に卸したカレールーの改良点について、一心に分析しているようだった。
そういえば、アイツも招待したんだった、とラルフは思い出した。美食への探求心にかけては、エリカもヘンリエッタに劣らない。
さらに、奥の席では、王女クレア・バランタインが、貴族のご婦人達に囲まれて、優雅な一時を過ごしていらっしゃった。彼女の笑顔は、この店が社交の場としても、すでに高い評価を得ていることを示していた。
ラルフは、少しの時間をヘンリエッタ・カフェで過ごし、満足げな表情で店を出た。
「すまんが、モーガン君。経営の方はよろしく頼む。赤字は出ないはずだが、万が一、何か困ったことがあったら、いつでも相談してくれ」
「ありがとうございます。ドーソン公爵のご期待に応えられるよう。私どもジョン・ポール商会は身を粉にして働かせて頂きます」
モーガンは深々と頭を下げ、再びラルフと握手をした。その手には、確かな信頼と、ビジネスにかける情熱が宿っているようだった。
領主館に帰る道すがら、ラルフはなんだかそわそわしているように見えた。いや、今日一日、アンナはなんとなく違和感を拭えなかった。ラルフが、なんとなく、「らしくない」。そう感じていたのだ。彼のいつもの奔放さや、気ままな振る舞いが、今日のところは影を潜めているように見えた。
分からない。もしかしたら、あの得体のしれないジョン・ポール商会との間に、何か、アンナには理解できない取り決めや、深い関係があるのだろうか。アンナにはその真意はわからなかった。
そして、居酒屋領主館の門をくぐる。
そこには、いつもの喧騒、いつものざわめき、いつもの無遠慮な客たちがいた。
「ぶわっはっはっはっは!」
冒険者の男が、酔いに任せて大声で笑う。その光景を目にした途端、ラルフの顔に、いつもの「居酒屋店主」の顔が戻った。
彼はツカツカとその客の元へ歩みを進める。そして、
「えっ?あ、領主さま!俺の酒!」
ラルフは常連客のビールジョッキを奪い取り、一気に飲み干した。皆が、その突然の行動に唖然とする。
そして、
「ぷはぁー!くぅーーーー!これこれ!やっぱり、下賤な酒場の方が居心地いいわ!」
ラルフは心底気持ちよさそうな顔でそう叫んだ。その言葉を合図に、居酒屋の喧騒は再び活気を取り戻し、ラルフもその中に巻き込まれていく。
アンナは、愛する旦那様が、妻を娶って流行りのカフェに連れて行く、なんて未来は、恐ろしく遠いなぁ、と、なんだか少し安堵してしまった。
彼の本質が、決して変わらないことを再確認できたことに、静かな笑みがこぼれた。