54.果てしなきスイーツの旅路
ヘンリエッタは、潮風が頬を撫でる船上で、遠ざかる東の水平線を眺めていた。
船は緩やかな揺れとともに、故郷ロートシュタインへと向かっている。14歳までを過ごした孤児院の記憶は、遠い日の霞のようだが、そこで培われた知識への渇望は、今や彼女の生きる糧となっていた。
彼女の両親は行商人だったと聞く。魔物の襲撃に遭い、志半ばで命を落としたらしい。その話を聞くたび、幼いヘンリエッタの胸には、広大な世界への憧れと、わずかな不安が去来したものだ。
孤児院での日課は、青豆の水やり。単調な作業の繰り返しだったある日、ミンネとハルが、見慣れない男を連れてきた。
それが、領主ラルフ・ドーソンだった。貴族と聞いて身構えたが、彼の穏やかな眼差しには、嫌悪感を抱かせない不思議な魅力があった。
その日から、ヘンリエッタは領主館の居酒屋で皿洗いを任されることになった。たったそれだけの仕事で、一日に銅貨三枚。孤児院では考えられないほどの報酬だった。
ある日のこと、ラルフ様が読んでいる本が気になり、そっと視線を送ると、彼は優しく微笑んだ。「もしかして。本、好きなの?」その言葉に、ヘンリエッタの心は弾んだ。
大好きだ。孤児院にある数冊の歴史書は、擦り切れるほど読み込んだ。
表紙に描かれたドラゴンの絵に惹かれ、その物語を読んでみたいとシスターにせがみ、読み書きを覚えたほどだ。
ラルフ様は、ヘンリエッタを領主館の書庫へと連れて行ってくれた。「空いてる時間に自由に出入りしていいよ」その一言は、ヘンリエッタの人生を大きく変えた。
貴族は嫌いだったはずなのに、ラルフ様は別だった。心から尊敬し、慕っていた。
農作業と居酒屋の手伝いの合間は、書庫で過ごすのが日課になった。そこには、同じ孤児院出身のヨハンとカイリーもいた。三人でひたすらに本を読み耽り、夜遅くまで語り合った。「いつか、私たちも本を書く仕事がしたいね!」幼い頃からの夢は、日ごとに具体性を帯びていった。
そして、その夢が瞬く間に叶う日が来た。
株式会社グルメギルド出版。ヘンリエッタは、わが世の春を迎えた気分だった。
初めての執筆。何を書こうか?真っ先に思い浮かんだのは、ラルフ様が時々作ってくださる、パンケーキの味だった。初めて口にした時の、温かくて優しい甘さ。忘れられない思い出だ。
「そんなに美味しい?まあ、似たような菓子は王都にもあるけどね」ラルフの言葉に、ヘンリエッタの好奇心は一気に王都へと向いた。パンケーキに似た菓子とは?
護衛として冒険者を雇い、彼女はすぐに王都へ飛んだ。
王都には、ヘンリエッタの想像をはるかに超える魅惑の菓子たちが溢れていた。色とりどりのタルト、繊細な焼き菓子、そして香り豊かなケーキ。
しかし、彼女の関心は単なる味覚だけにとどまらなかった。
これらの菓子は、いつ、誰が発明したのだろう?そして、この甘味の源、砂糖はどこから来たのだろう?
居ても立っても居られず、ヘンリエッタはすぐに行動を開始した。取材だ。王都の名店と呼ばれる菓子屋を巡り、片っ端から食べ、店主や職人たちから話を聞いた。しかし、情報は断片的で、なかなか核心に迫れない。
そんな時、偶然出会ったのが、元宮廷料理人だという老菓子職人だった。彼の小さな工房の奥には、代々受け継がれてきた膨大な蔵書があった。その中には、彼の先輩、そのまた先輩と、何世代にもわたる菓子作りの研究メモが残されていたのだ。
ヘンリエッタの目の前に、途方もなく果てしない、スイーツの歴史が悠然とそびえ立った。
それは単なるレシピの羅列ではない。菓子職人たちの情熱、試行錯誤、そして文化と技術の進化の軌跡が、そこには刻まれていた。
彼女は心の中で叫んだ。行かなくては、この先へ、この甘い歴史の源流を、この手で辿らなくては!
そして、彼女が編纂した『スイーツ・ヒストリー』は、瞬く間に一大ベストセラーとなった。その書は、この世界の菓子文化に新たな光を当て、多くの人々を魅了した。
今、彼女は東大陸での調査を終え、再び船に揺られている。ロートシュタインが、もうすぐだ。
「お嬢!陸が見えてきたぜ!」
護衛の冒険者が、甲板から大声で知らせてくれた。
潮風が心地よく、ウミネコの声が耳に届く。
船倉の積荷は、ラルフへの最高の手土産だ。東大陸で「サトウキビ」と呼ばれる、砂糖を抽出できる特別な植物。
これがあれば、ロートシュタインでも、さらに多様なスイーツが作れるようになるだろう。
船はゆく。ヘンリエッタの、果てなきスイーツの旅の一路を乗せて。彼女の好奇心と探求心は、決して尽きることはない。次は、どんな甘い発見が彼女を待っているのだろうか。




