47.カイリーの帰還
カイリーは孤児院の出身でありながら、今はグレン子爵の邸宅に世話になっている食客という立場だ。
彼女に両親の記憶はない。そして今は別に知りたくもない。過去を振り返るよりも、今と未来が重要だった。
ある日。カイリーの人生は大きく変わった。領主である、ラルフ・ドーソンが孤児院にやってきた日から。
彼は食堂での仕事を与えてくれた。
街中の草むしりや、どぶさらいをしなくとも安定した収入をくれた。
そして、空いている時間は、領主館の蔵書を自由に読んでいいと言ってくれたのだ。
ここは天国か?! と思った。
そして、何がどうなったのか。現在は株式会社グルメギルド出版の記者兼編集者という仕事に従事している。
自ら本を執筆するという夢が、こんなにもあっさりと叶ってしまったのだ。
この日も、飲食店の取材周りと、執筆希望者との面談、そして挿絵を描いてくれる画家との打ち合わせに追われていた。
王都の出版社からロートシュタイン領のグルメギルド出版まで、彼女の生活は常に慌ただしく、しかし充実していた。
そして、夕暮れ時。荷物を抱えながら領主館への道をひた走る。
お腹が空いた! お腹が空いた!
かつては、お腹がすくとどうしょうもないほどに惨めな気持ちになったが、今は違う。空腹は、一日の終わりを告げ、美味しい食事への期待を膨らませる、心地よいサインだった。
おっなかがすいたっ♪ おっなかっがすいた♪
いつの間にか、軽快な歌が口をついて出た。足取りも自然と軽くなる。
バンっ!
勢いよく、居酒屋の扉を開いた。
いつもの喧騒、いつもの匂い。醤油と出汁、肉を焼く香ばしい匂いが混じり合い、カイリーを包み込む。そして、いつもの顔ぶれ。カウンター越しに客と談笑するラルフ、忙しなく動き回るアンナ、元気な孤児たち、そして、見慣れた常連客の笑い声。あー。ここだ。
帰ってきた。
そう感じる場所はここなのだ。
「あっ! カイリーちゃん!」
ミンネが、カイリーの姿に気づき、すぐに駆けてくる。二人は手を取り、クルクルと楽しそうに回った。
「おっなかっがすいたー♪」
カイリーが歌うと、ミンネも合わせて楽しそうに笑う。
「はははっ! カイリーちゃん、カウンター空いてるから座って座って」
うんしょ! と、カウンターの椅子に勢いよく座る。
周りを見渡すと、ビールジョッキを美味しそうに飲み干す大人たち。その楽しげな声や、グラスを置く音、ぷはぁー!と聞こえる吐息が、カイリーの耳に心地よく響く。
カイリーの最近の夢は、早く大人になって、仕事終わりにビールを飲んで、ぷはぁ~! と言ってみることだ。あの大人たちの満足げな表情が、カイリーの想像力を掻き立てる。
「なんにしよっかなぁ♪」
メニュー表を眺めながら、心の中でつぶやいた。
「おっ、カイリー、お疲れっす」
ラルフがカウンターから顔を出す。
ふと、その横を見ると、見慣れない青年が中華鍋を振っている。歳はカイリーと同じくらいか、少し上だろうか。
非常に鮮やかな手さばきで、額に汗を浮かべながら、チャーハンを炒めている。熱気と香りが、カイリーの食欲を刺激した。
ゴクリっ!と思わずのどが鳴る。
「チャーハンくださーい!」
気づけば、声に出ていた。
「はいよー。フレデリック、またひとつ注文入ったぞぉ!」
ラルフが、チャーハンを炒める青年、フレデリックに声をかける。
「凄いですね! 本当に飛ぶように売れていく。くっ!」
フレデリックは、額の汗を拭いながらも、その手は休まず鍋を振っている。疲れが見えるが、その顔には充実感が浮かんでいた。
「まだまだへばるなよぉ! まあ、へばっても回復魔法かけてやるけどな」
ラルフは、フレデリックの奮闘を見ながら、かなりブラックな発言をした。普通ならとんでもないパワハラだが、ここでは一種のジョークのようなものだ。
「はい! うぉーーーー。まだまだやれる!」
フレデリックは、ラルフの言葉にさらに気合を入れ、再び鍋を勢いよく煽り始めた。居酒屋の厨房は、今日もまた、新たな才能と情熱が渦巻く場所となっていた。