426.真夜中の社交場
夜も更け、銀鼠色の静寂が街を包み込む頃。ロートシュタインの喧騒は、ラルフ公爵が営む「居酒屋領主館」の無作法な熱狂から、もう一つの社交場へと引き継がれていた。
――スナック・リネア。
そこは、下賤な酒場の泥臭い活気とは一線を画す、洗練された大人のための聖域だ。
柔らかな琥珀色の灯りがベルベットのカーテンに溶け込み、氷のぶつかる涼やかな音と、控えめな談笑が心地よい和音を奏でている。
その一角、重厚なボックス席に陣取っていたのは、浮世離れした美貌を持つエルフ、ユロゥウェルだった。
「……これほどまでに黴臭い葡萄酒を珍重するとは。やはり、人間族の情緒というものは、実に不可解を極めるな……」
齢二万年という、気の遠くなるような時間を生きてきた彼女は、クリスタルグラスに揺れる深紅の液体を、訝しげな眼差しで見つめている。
「んだなー。オラも、ワインなら果実をそのまんま搾り出したみてぇな、あんまげがん(甘いもの)の方が好きだわ〜」
宝石のように色鮮やかなフルーツが浮かぶサングリアを啜っているのは、子孫のミュリエルだ。彼女ののんびりとした訛りが、この都会的な空間に不思議な安らぎを添えている。
「その感覚は正しいと思うわよ〜。でもね、世の中には『物好き』っていう需要が確実に存在するのよねー」
バターピーナッツを指先で弄びながら、聖女トーヴァ・レイヨンが可笑しそうに口角を上げた。
「そうそう。実は、そのヴィンテージ・ワインを完全再現して売り出さないかって、大教会から打診が来ているのよ。聖教国の新たな名物にするつもりらしいわ」
「そうそう。しかも、ただ売るだけじゃないってねぇ。そこにヨハン君やカイリーちゃんが執筆した冊子を特典として付けるんですって。……誰が思いついたか知らんけど、天晴れな機転よねー」
ウイスキーの水割りを、氷の音ひとつ立てずに嗜む聖教国マルシャ・ヴァールが言葉を継ぐ。
「ああ、あれでしょう? 伝説の船長ジェームス・ストーンの、数多の空想が詰め込まれた『薄い本』を同梱するっていう……。物語を売るなんて、よく考えたものだわ」
トーヴァは生搾りレモン入りの焼酎を呷り、小さく息を吐いた。
かつての閉鎖的で教条主義的だった聖教国にも、どうやら資本主義の萌芽が芽生えつつあるらしい。幻の味に、悲劇の英雄という「付加価値」を上乗せする——その手法は、明らかにこの地の領主であり、稀代の策士でもあるラルフ・ドーソンの背中を追っている者の仕業だった。
「よいではないか。金が回るというのは、国が生きている証拠だ」
ユロゥウェルが赤ら顔で、愉しげに喉を鳴らす。
「ラルフ様じゃないけど……ほんと、めんどくせーっす……」
トーヴァが、これ以上ないほどだらけきった声で、ラルフの口調を完璧に声帯模写してみせた。
「キャッハッハッ! お姉ちゃん、それ! 魂まで乗り移ってるって!!」
マルシャが膝を叩いて爆笑し、その華やかな笑い声が店内の空気を一層華やがせる。
「お酒、足りてるかしら? 新しいボトル、何かお持ちしましょうか?」
その時、パーテーションの陰から、優雅な所作でオーナーママのリネア・デューゼンバーグが顔を覗かせた。
「……いや、まだ十分にあるぞ。案ずるな……」
ユロゥウェルが指し示したテーブルの上には、所狭しと並んだボトルの森があった。
それら一本一本の首には、白銀のボトルタグが誇らしげに掲げられている。持ち主の個性を象徴する自筆のサインが刻まれたそのタグは、単なる管理札ではない。
自分の酒を店に預け、再びこの場所へ帰ってくる約束を交わす——。
ラルフが提案した「ボトルキープ」という名の革新的システム、それに、誰よりも先に魅了されたのは、自由を愛し、居場所を求める彼女たちだった。
カウンターの奥で鈍い光を放つ白銀の列は、ここが彼女たちにとっての「また還るべき場」であることを静かに証明していた。
その時、ドアベルがチリリンと涼やかな音を立て、夜の冷気を連れて新たな客が舞い込んだ。
「あら、メリッサさん。いらっしゃい。お一人かしら?」
リネアが柔らかな微笑で迎える。
「あ、ああ……。さっきまで居酒屋領主館にいたんだが……その、少々飲み足りなくてな……」
どこか決まり悪そうに視線を泳がせているのは、海賊公社のメリッサ・ストーン船長だ。荒波を越えてきた強靭な彼女にしては、珍しく挙動が怪しい。
「あれま、メリッサさんだねっか?! こっちきなせっ! 一緒に飲まねがねー?!」
ミュリエルが元気よく手を振ると、メリッサの表情が、霧が晴れたかのような満面の笑みに変わった。
「なんだ、みんなもいたのか! これは丁度いい!」
彼女は弾んだ足取りでボックス席に滑り込むなり、両手で大切に抱えていた「それ」を、祭壇に捧げるかのような恭しさでテーブルに置いた。
「なん、これ……?」
ミュリエルの問いに、メリッサの瞳が狂気的な熱を帯びて輝く。
「ふふ……。刮目せよ。これは、我がアビエラ・グレイス号の改造後完成予想模型なのだ! ソニアの父上と、あのポール・リー氏が心血を注いだ合作だぞ!」
どうやら彼女は、この「自慢の塊」を見せびらかしたくて、夜の街を彷徨っていたらしい。既に領主館で散々自慢し尽くし、更なる称賛を求めてこの店へ辿り着いたのだろう。
「はぁ〜……。恐ろしいほど精巧ね〜。これ、制作費だけで、どれくらいかかったのかしら……?」
トーヴァが、鋭い目つきで木造模型のディテールを検分する。
「ねえ、これ。限定生産してマニアに売ったら、相当な値がつくんじゃない?」
マルシャの口から漏れたのは、もはや聖女の慈愛ではなく、冷徹なまでの市場原理だった。
――需要と供給、――偏愛と付加価値。
彼女たちの思考回路は、無意識のうちにラルフという猛毒に侵食され、強欲なまでのビジネスセンスを研ぎ澄ませていた。
当のメリッサは、周囲の打算などどこ吹く風で、新型主砲の仰角や船体補強の理論について、身振り手振りを交えて熱弁を振るい始めている。
リネアはその光景を眺め、ふっと自嘲気味に、しかし満足そうに微笑んだ。
ラルフ公爵の真似事で始めた貴族の道楽酒場。
けれど、この心地よいカオスこそが、今の彼女にとって何よりの報酬だった。
「私も、少し喉が渇いてしまったわ。あとの接客は任せてもいいかしら?」
従業員に声をかけ、リネアは既に自らのグラスを手に取っていた。
「もちろんです、リネア様! あ、そういえば、先程いつもの"御用聞き"さんが来ていましたよ。『夜食のラーメン、注文しますか?』って……」
その言葉に、リネアの喉が小さく鳴った。
深夜に、出来立てのラーメンが届く……。
ラルフが持ち込んだこの「悪魔のデリバリーシステム」は、美貌とスタイルを維持すべき貴族の女性にとって、まさに破滅への招待状だった。
「……ラーメンか。悪くない、な……」
ユロゥウェルがポツリと、抗えない誘惑に身を任せるように呟く。
「あー……夜のラーメン。それは、魂を売るに値する堕落の味よねー」
「そうよ……。私たちはもう、このロートシュタインという楽園で、手遅れなほどに堕落してしまったのよ……」
聖教国の姉妹は、もはや抗うことすら放棄し、恍惚とした表情で開き直っていた。
その欲望は瞬く間に店内の客たちへ伝播していく。
「えっ、ラーメン? こんな時間に食べられるのか!?」
「うーわ……どうする? 食べる? あー、無理だよな……。ということで……。こっちにも人数分ラーメンくださーい!!」
洗練された大人の隠れ家は、いつしか「禁断の夜食」を待ちわびる共犯者たちの巣窟へと変貌していた。
気の利きすぎた夜の社交場、スナック・リネア。
その大盛況の裏には、今夜もまた、ラルフ・ドーソンという男が撒いた「愉悦」という名の種が、美しく、そして罪深く芽吹いていた。




