4.月下の罪
夜の帳が降り、王都の裏路地に灯る猥雑な明かりが、メリッサの心を浮き足立たせていた。
昼間の孤児院での疲弊とは裏腹に、今はまるで別人のように軽やかな足取りで家路を急ぐ。
今夜もまた、彼は完璧だった。
舞台の上で輝く彼の姿も、舞台を降りてからの優しい眼差しも、その全てが、メリッサの人生を彩る唯一の光だった。あの若き演劇俳優、ジェイク。彼のためなら、何だってできた。たとえ、それが孤児院の運営費に手を付けるという、神への冒涜にも等しい行為であったとしても。
満たされた心とは裏腹に、ふと、胸に罪悪感がよぎる。しかし、それはすぐに甘美な思い出に塗りつぶされた。自分は、彼のために生きているのだ。孤児院の子供たちも、彼を支えるための道具に過ぎない。そう言い聞かせ、メリッサは夜風に身を委ねた。
孤児院へと続く、薄暗い石橋の上に差し掛かった時だった。
橋の中央に、人影が見えた。最初は、ただの通行人かと思った。しかし、その人影は、メリッサが近づいても動こうとしない。むしろ、メリッサを待ち構えているかのように見えた。
そして、その人物は鼻歌を歌っていた。
ついさっき、聴いていたジェイクの魅惑の歌声、
戯曲『ミリオン・ターナーの悲劇』の中に登場する、『月下の断罪』だ。
心臓がドクリと鳴った。
「歌は良いねぇ。そうは思わないかい? シスター・メリッサ。こんばんは。良い夜だね」
聞き覚えのある、しかし、どこか遊び人風の、軽やかな声。
その声の主は、突如として孤児院を訪れた若き領主、ラルフ・ドーソンだった。夜の闇に溶け込むような、それでいて、どこか楽しげな笑みを浮かべている。
「りょ、あ、ラルフさま……?」
メリッサは、声にならないほど震えた声で、相手の名前を呼んだ。なぜ、こんな夜更けに、こんな場所で彼が?
いや、なぜ彼がここにいるのか、薄々勘づいている。
メリッサが、はっとして振り返ると、背後には音もなく現れた領兵が数名、道を塞いでいた。逃げ道はない。いや、最初から、逃げ場などなかったのだ。
メリッサは、その瞬間、全てを悟った。
ああ、終わった。
頭の中で、懺悔の言葉が渦巻く。
神への、子供たちへの、そして、自分自身への。しかし、その言葉は喉の奥でつかえ、声として紡がれることはなかった。
恐怖で足が震える。全身から血の気が引いていくのがわかる。捕縛される。罪を問われる。そして、待っているのは……縛り首。
ラルフは、そんなメリッサの様子を冷徹な視線で見つめていた。その瞳には、昼間の悪戯っぽい輝きは微塵もなく、ただ、底知れぬ深淵が広がっていた。
「メリッサ、落ち着いて。悪いようにはしない」
ラルフの声は、先ほどとは打って変わって、まるで慈悲深い聖職者のようだった。
しかし、その言葉の裏には、有無を言わせぬ支配者の響きが隠されている。
「ねぇ、アンナ」
ラルフが軽く顎をしゃくると、隣に控えていたアンナが、一枚の書類を広げた。月明かりの下で、その羊皮紙はわずかに光を反射している。
アンナは、感情のこもらない、淡々とした声で、その書類に書かれた内容を読み上げ始めた。
「シスター・メリッサ、貴女は、領主直轄孤児院の運営資金、合計金貨500枚を横領した罪を問われています。その内訳は、劇団『暁の星』への不正な資金提供、合計金貨300枚。残る200枚は、貴女個人の遊興費、および私的な物品の購入に充てられています。また、貴女は、孤児院の子供たちへの食費、衣料費を意図的に削減し、その差額を流用していました。これらは、貴女が本日受け取られた金貨三枚の行方から、より確実なものとなりました。金貨三枚、たったそれだけで、本当に憐れですね」
アンナの声が響くたびに、メリッサの心臓は締め付けられるように痛んだ。
劇団の名前まで、金額まで、すべてが詳細に書かれている。隠し通すことなど、不可能だったのだ。
金貨三枚を受け取った時の自分の動揺が、これほどまでに確実な証拠になるとは思わなかった。
メリッサは、その場で膝から崩れ落ちそうになった。しかし、足の震えは止まらない。
アンナは、読み上げを終えると、再び静かに書類を巻き上げた。
ラルフは、崩れ落ちそうなメリッサを見下ろし、口元にニヤリとした笑みを浮かべた。その笑みは、悪魔の誘惑のように、メリッサの心を凍てつかせた。
「メリッサ、取引をしよう。つまり、司法取引というやつだ。僕が欲しいのはね。人材だよ」
ラルフの声は、夜の静寂に吸い込まれるように響いた。
「僕はね、今、大忙しなんだ。領主の実務に、居酒屋のオープン。わかるね?」
ラルフは、片目を閉じ、まるで内緒話でもするかのように言った。
「ということで、メリッサ、君は僕の奴隷だ」
その言葉に、メリッサは息を呑んだ。奴隷。それは、この世界において最も過酷な運命を意味する。
「もちろん、この事は子供たちには秘密だ。君はこれからも院長であり続ける。しかし、君共々、子供たちも、僕のために働いてもらうよ」
ラルフの言葉は、メリッサの心に深く突き刺さった。それは、死よりも恐ろしい現実を突きつけられたような感覚だった。死は、ある意味で終わりだ。しかし、この取引は、永遠に続く苦痛を意味する。
同時に、子供たちへの罪悪感が、津波のように押し寄せてきた。自分が彼らを道具として利用した報いが、今、自分に跳ね返ってきたのだ。そして、その報いは、子供たちにも及ぶ。
大きな月が二つ、橋の上に浮かんでいた。この世界の夜空に、時折現れる双子の月は、どこか不気味な光を放ち、メリッサの絶望を際立たせていた。