378.串焼きを巡る出会い①
エドという少年は、14話に名前だけは出てきていました。
居酒屋領主館。
そこは今やロートシュタインの美食の象徴であり、同時に、多くの孤児たちが未来を夢見る自立の場でもあった。
その従業員の筆頭格といえば、しっかり者のミンネとハルだ。
領直轄の孤児院に身を寄せる彼らは、傍目には過酷な労働に身を置いているように見えるかもしれないが、事実はその真逆だった。
なぜなら、領主ラルフ・ドーソンは、労働条件に関しては病的なまでに厳格な「ホワイト経営」を貫いているからだ。
長時間労働は厳禁。
四日を超える連続勤務も禁止。
そして未成年の深夜労働に至っては、絶対に、断固として厳禁。
まだ幼い子供たちが皿洗いや簡単な配膳をお手伝いするだけでも、ラルフは平然と「銀貨二枚」ほどの報酬を支払う。十分な収入が得られる一方で、彼らには自分を磨くための「暇」がたっぷりと与えられていた。
ある者はメイド長に読み書きを習い、ある者は料理の腕を買われて冒険者の専属料理人として旅立ち、またある者は自らの屋台を引き、この祭りの熱狂へと商いに繰り出す。
そして、領主館随一の"問題児"とされる少年エドもまた、自らの城を構える「一国一城の主」であった。
「……いらっしゃい。いらっしゃい。串焼きだよー。ロックバードの串焼きだよぉ」
だが、エドの振り絞るような呼び込みの声は、押し寄せる雑踏の喧騒に無惨にもかき消されていく。
今日もロートシュタインは、万華鏡のように華やかな人々が往来する祝祭の渦中にある。しかし、エドの屋台だけは、まるで世界から忘れ去られた沈没船のように、誰一人として足を止める者はなかった。
すぐ近くでは、同じ孤児院出身のエマが、歓声を浴びながら絶好調で立ち働いている。
「いらっしゃいませ! はい、トルティーヤロール三つですね? 少々お待ちください!」
もはや名物となったその屋台には、延々と続く長蛇の列が。
さらに目を移せば、金髪ツインテールの少女が、相変わらず不遜な態度で客をあしらっていた。
「はい、次の人ぉ。……激辛? ない。辛口もない。中辛しかない。……中辛を四つね? ……もういい?」
そんな雑な接客をしているカレーパンの屋台ですら、並ぶ人々は列を乱さず、期待に目を輝かせているのだ。
それを見せつけられたエドの胸中に、ドロリとした苦い感情が広がる。
「チッ、ハァ……」
忌々しさをぶつけるような舌打ちと、肺の底に溜まった焦燥を吐き出すような溜息。
美食の街として劇的な進化を遂げた今のロートシュタインにおいて、ただ焼くだけの「串焼き」はあまりに古臭く、派手さに欠ける料理に成り下がっていた。
つい最近までは露店の定番であり、伝統でもあったはずなのに。
今やそれは、時代に取り残された「つまらない食物」というレッテルを貼られているかのようだった。
だが、エドなりに進化を求めてもがいてはきたのだ。
世話になっているラルフから、貴重な香辛料や醤油を分けてもらい、独自の調合で特製タレを完成させた。何度も何度もタレに潜らせ、炭火の熱を計算して焼き上げることで、芳醇な香りと深みのある味を生み出したはずだった。
しかし、現実はこれだ。
エドは、もともと喧嘩っ早く、孤児院のシスターを何度も泣かせてきた荒くれだ。
そんな彼に訪れた転機は、ミンネとハルが連れてきた若き領主、ラルフ・ドーソンとの出会いだった。
彼は領主館での仕事を与えてくれた。当初、エドは「領主の慈悲なんてまっぴらだ」と、不承不承に手伝いをこなしていた。
開店前、嫌々テーブルを拭いていた時のことだ。
「……隅の方がまだ埃が残ってますよ。もう少し丁寧な仕事をして頂きたいですね」
背後から突き刺さったのは、あの無表情なメイド、アンナの冷徹な一言だった。
カチンときたエドは、反射的に毒づく。
「チッ……うっせーなぁ」
「ここは、領主館なのです。貴方が生きてきた場所とは、格式が異なるのですよ。もう少し……」
アンナの正論が、エドのプライドを逆撫でする。
(生きてきた場所? 生まれが違うだけで、なんでこんな下に見られなきゃいけねーんだよ? やってられるかよ!!)
怒りで視界が赤く染まり、手に持った布巾を叩きつけようとした、その瞬間だった。
「アンナ! いいからいいから! テキトーでいい! そんな細かいこと気にする客なんざ、こっちから願い下げなんだよ!」
呆れたような、けれど明るい声が割って入った。
「しかし、旦那様……。領主館としての格式が……」
「そういうのが嫌だから、居酒屋なの! ハァあ~、アンナ……。まだわかってないようだけど。僕が作りたいのは、下賤な酒場なの!」
そう言って、ラルフはエドに向かって軽やかにウインクをしてみせた。
それはいたずら好きな同い年の少年のような、屈託のない笑顔だった。
あの日、エドの生活は、そして世界は一変した。
その後、製麺工場に配属され、そこでも真面目に働けた。
ラルフがいつも言ってくれた、「自由に生きていい」その言葉を信じ、なけなしの金を叩き、小さな屋台を購入し、そして独立開業した。
もっと金を稼ぎ、もっと自由に生きる。そう信じていた。はずだった。
なのに、このザマだ。
エドは幼いながらも、身を削るような現実を理解し始めていた。
商売とは、形を変えた「喧嘩」だ。
客という限られた牌を奪い合う、残酷な戦い。
そして今、自分はその戦いに完敗しようとしている……。
(もう、辞めちまおう……)
いっそ冒険者にでもなって、ダンジョンの深淵で一攫千金を狙うか。
だが、それは死と隣り合わせの、文字通り命を懸けたギャンブルだ。
自分にそんな覚悟があるのか?
暗い思考の螺旋に堕ち、再び溜息が零れそうになった、その時だった。
「ほう、いい匂いだな。おい。それ、ヤキトリか? 一本くれ」
頭上から降ってきたのは、重厚でよく響く紳士の声。
顔を上げると、そこには銀色の髪が混じる長身の男が立っていた。
領主館で何度も見かけた、ラルフの親友。最強の退魔師と謳われる、ファウスティン・ド・ノアレイン公爵。
「は、はひっ! い、一本でふね!」
跳ねるように立ち上がり、情けないほどしどろもどろに答える。
エドにとって、「強いか弱いか」は絶対的なヒエラルキーだ。目の前の男が放つ圧倒的な「強さ」のオーラは、それだけでエドを萎縮させるに十分だった。
炭火でじっくりと炙り直した串を、震える手で差し出す。
「ど、どうぞ……」
「ふむ」
ファウスティンは、その肉料理に豪快にかぶりついた。
エドの頬を冷たい汗が伝う。
心臓がうるさく鳴り、喉が鳴るのを必死で抑える。
沈黙の数秒。
やがて、公爵が口を開いた。
「ふむ……。味は悪くないな。このタレは素晴らしい。……ただし、この鶏肉、テメーはダメだ!!」
「は、はひっ! ごめんなさい!」
雷鳴のような一喝に、エドは反射的に身を縮こませ、謝罪を口にしていた。
「ふん。……お前、確かラルフのところで世話になってる孤児だよな? 名はなんという?」
「は、はい。俺。エドっていいます……」
「そうか……俺はファウスティンだ。ファウストと呼べ」
「あ、はい。存じております。ファウスティ……あ、ファウスト様……」
エドは、なぜこの雲の上の存在である公爵に絡まれているのか、さっぱり理解できなかった。
よく観察すれば、公爵の左手には蒸留酒のボトルが握られており、その顔も朱を帯びている。
どうやら、酔いに任せてこの祭りの街を徘徊しているらしい。
すると、公爵は無造作に懐を探り、
「ほらよ……」
あれほど酷評したにもかかわらず、彼はキラリと光る、金貨を投げて寄越した。
「あ、あのぅ……、金貨はちょっと……」
エドは恐る恐る手を伸ばしつつも、遠慮した。
屋台の串焼きで金貨など出されても、お釣りなどどこを探してもないのだ。
「それは、つまり、ああ、そうそう。出資だ! お前がもっと美味いヤキトリを作れるようになる為に、俺はお前の可能性を買った。…いいか? 一日やる! 明日また来る。もっと美味いヤキトリを作れ!」
「は? へ? あ、ええ?!」
目の前の展開が、エドの理解の許容量を軽々と超えていく。
「ちっ、ラルフの野郎……。暫くはヤキトリは作れねーとか抜かしやがって……ハァ……」
未練がましく独り言をこぼしながら、ファウスティン公爵はロートシュタインの雑踏へと消えていった。
手元に残された、掌を焦がすほど重い金貨を見下ろす。
そして、エドは誰に問いかけるでもなく、呆然と呟き続けた。
「な、なに? なんなの?!」
燻る炭の香りと、手に残る金貨の重み。
それがエドの「逆転」に向けた、長く熱い挑戦の始まりだった。




