373.剣聖の弱み
ロートシュタイン領の郊外。
見渡す限りに広がる翡翠色の草原は、柔らかな春の陽光をその身に湛え、穏やかな海のように波打っていた。時折、若草の香りを孕んだ瑞々しい風が吹き抜け、対峙する二人の男の髪を悪戯に揺らす。
だが、その絵画のような静寂は、魂の底から絞り出された一振りの咆哮によって無残に引き裂かれた。
「おおおおおおおぉぉッ!!」
マティヤス・カーライル騎士爵。その裂帛の気合が、草原の起伏を震わせる。
彼は訓練用の木槍を正眼に構えると、爆縮したバネのごとき勢いで突進した。
力強い踏み込みが若草を噛み、湿り気を帯びた土を豪快に撥ね上げる。突撃が巻き起こす狂風に、周囲の小さな蕾が左右へとひれ伏した。
「相変わらず、自らの魂を削り、刃に換えるような剣閃だ。並の剣士であれば、その覇気に中てられただけで膝が笑い出すだろうが……」
対する男――『剣聖』ヴォルフガング・ドーソンは、風に身を任せる柳のように、あるいはそこに根を張る古樹のように自然体で立っていた。
死を予感させる木槍の先端が、その喉元を貫かんと迫った刹那。
ヴォルフガングの手にした木剣が、物理法則を無視したかのような最小限の軌道で動く。
カンッ!!
――乾いた硬質な打突音が、一点の曇りもない蒼穹へと高く響き渡った。
「……あいにく、俺の膝はジョークが通じない不器用なタチでね!」
円を描くような流麗、かつ冷徹な受け流し。マティヤスの渾身の突きは、まるで見えない理の壁に触れたかのように右斜め後方へと滑り、空虚な空間を虚しく突いた。
「まだだッ!」
マティヤスは地面を滑るように踏み止まり、強引に手首を返した。逆手に持ち替えた木槍の石突が、地を這うような低い軌道から一転、ヴォルフガングの顎を狙って鋭く跳ね上がる。草原の緑を鮮烈に裂き、真空の刃を伴った苛烈な一撃。
「ほう。……その疾さを、淀みなく出せるようになったか」
ヴォルフガングの唇が、純粋な武への愉悦に歪む。
彼はわずか半歩、後ろに引いた。
それだけだ。だがその半歩は、神の指先が測ったかのような絶対的な距離。
跳ね上がった石突は、わずか数ミリの差で彼の鼻先を空振り、無情にも虚空を薙いだ。
「ヴォルフガング! 遊んでいないで、貴様も打ち込んできたらどうだッ!」
マティヤスの瞳に、焦燥と、それ以上に「届かぬ壁」への怒りが混じる。
返しの横薙ぎ。
暴風を纏ったその一閃は、訓練用の木槍であることを忘却させるほどの破壊力を孕んでいた。
「くくく……。相変わらずだな、マティヤス。感情を乗せすぎるのは、自分の急所を晒すようなものだぞ?」
ヴォルフガングは身を低く沈め、大気を断ち割るような一撃を紙一重で回避する。
その声は、激戦の最中とは思えないほど冷徹に、そして滑らかに響いた。
「視線が泳げば意図が漏れる。肩が力めば刹那の遅れが生じる。そのわずかな『淀み』こそが、実戦では貴殿の命を刈り取る死神の鎌となるんだぞ」
「黙れッ! 貴様のその、人を食ったような態度が……昔から癪に障るのだ! 神聖なる立ち合いを、戯れに変えるなァァァァッ!!」
激情という名の燃料を注ぎ込まれたマティヤスが、必殺の突きを放つ。
だが、ヴォルフガングはその猛攻に対し、ただ、そっと、木剣を添えただけだった。
それは激流を導く呼び水のように。
マティヤスの全力が込められた一撃は、吸い寄せられるように外側へと逸らされ、無防備な重心が前方へと投げ出される。
「まあ、腕力だけは上げたようだがな……」
「ふんぬぅぅッ!」
マティヤスは強引に重心を落とした。逸らされたベクトルを野性的な力技で引き戻し、ヴォルフガングの懐へと肉塊のごとく肩をねじ込む。
文字通り、肉を切らせて骨を断つ。
己の身を盾にしてでも、この不遜な天才を地に這わせる――その執念だけが、彼の肉体を駆動させていた。
しかし。
「――そりゃ悪手」
耳元で、甘やかな死神の囁きが聞こえた。
直後、マティヤスの両足から確かな地面の感触が消え、視界いっぱいにどこまでも深い青空が広がった。
ヴォルフガングが木剣を支点にし、マティヤスの突進の慣性をそのまま上方へと放り投げたのだ。
「ぶげっえぇ!?」
重力に裏切られた男の、実に間抜けな悲鳴。
マティヤスの身体は、空中で無様に半回転し、柔らかな草のクッションを享受することさえ許されず、顔面から地面へと叩きつけられた。
舞い上がる土くれと、ちぎれた草の葉。
そこには、先ほどまでの勇猛な騎士の面影はなく、ただ地面に張り付いた「潰れた蛙」のような、哀れで惨めなシルエットだけが残されていた。
「ハァ、ハァ……参った……。完敗だ」
やがて、カーライル騎士爵は、大の字に横たわったまま、流れる雲を見上げた。
この憎き友は、どうやらまだまだ永遠のライバルでいてくれるらしい。十歩も、百歩も先の剣の道を歩み、その背中を追わせ続ける絶望的な道標として――。
暫くして、
汗を拭った二人はロートシュタインの目抜き通りを並んで歩いていた。
「なあマティヤス。まだ、ラルフがやっているという『イザカヤ』とやらの開店には、いささか早すぎるんじゃないか?」
ヴォルフガングが怪訝そうに尋ねる。
「ああ……。しかし、早くいかんと席が取れんかもしれん。なんたって、今日は新装開店だからな!」
騎士爵は顔面の汚れも気にせず、豪快に笑う。
「いや……それにしても早すぎるだろ?」
ヴォルフガングは太陽を仰ぎ見る。まだ天頂に近い位置にあるのだ。いったい、これから何時間並ぶつもりなのか。
それほどまでに、自分の息子であるラルフが営む『イザカヤ』という場所は、人々を惹きつけてやまない魔窟なのかと、ヴォルフガングは困惑するしかなかった。
「うーん……まあ、確かにそうだな……。なら、少し屋台街で時間を潰すか。貴殿にぜひ教えたい、オススメの『立ち呑み処』があるのだ!」
カーライルに促されるまま、ヴォルフガングはその背を追う。
彼は、物珍しそうに街を見渡した。
自分が領主として統治していた頃の、質実剛健なロートシュタインとは明らかに空気が変わっている。
それもこれも、息子・ラルフが掲げた『美味しい革命』などという、ふざけた名前の政策の産物だろう。
視界に入るのは、屋台、屋台、また屋台……。
芳醇な酒を売る店、見たこともない香辛料の匂いを漂わせる店。
屋台街に足を踏み入れれば、そこはまさに心地よい混沌だった。
高貴な衣装に身を包んだ貴族も、泥に汚れた平民も、毛並みの良い獣人も、屈強な冒険者も。
真っ昼間から酒杯を交わし、身分を忘れて大声で笑い合っている。
「ガッハッハハッハッハッハッ!」
ふと見れば、道端に座り込んだ共和国の参事会議員らしき一団と、聖教国の厳格そうな司祭たちが、何やら政治的なディベートをしたたかに酔いながら繰り広げていた。
「分からぬか! 商人どもが暴利を貪る重商主義のままでは、民の活力は枯渇する一方なのだ! ラルフ様を見よ! あの御方は、富の蓄蔵を良しとせず、あえて私財を投じて『共有地』を解放し、農具を無償貸与されている……。これは単なる施しではない。民草に生産手段を還元し、領地全体の総厚生を高めておられるのだ! 強欲な一部の特権階級が富を独占する歪んだ構造を、ラルフ様は内側から正そうとされているのだぞ!」
「はんっ! お前のような甘い幻想が、聖教国の発展を阻害していたのだ! それに、ラルフ殿を侮辱するな! 良いか、富の集約と『株分け』の仕組みこそが、未開地の開墾や香辛料航路の開拓に必要な莫大な資金を生み出す唯一の手段なのだ!ラルフ殿が今行っているのは、等し並みの貧困を招く分配ではない! 民に『出資』という形での参画を促し、リスクとリターンを分配する……いわばロートシュタインそのものを巨大な商会に見立てた、前代未聞の社会実験なのだ! まったく……これだから。帳簿も読めぬ生臭聖教者崩れには、その高度な統治策が理解できんようだな!」
あまりにも高度で難解、かつ物騒な理論が飛び交っており、ヴォルフガングは息子の名前が不穏な文脈で引き合いに出されていることを密かに心配したが、彼らの足元には空のボトルが何本も無造作に転がっていた。
……ただの泥酔した知識人の戯言である。
すると、案内役のカーライル騎士爵が足を止めた。
「着いたぞ。ここが我がイチオシの場所だ!」
指差された場所は、酒樽が何個も乱雑に並べられただけの広場だった。
人々は、立ったままその樽をテーブル代わりにし、琥珀色の酒を呷り、小皿に盛られた料理をつついている。
騎士爵は、近くの屋台へと意気揚々と歩み寄ると、
「ビール大、二つだ!」
と注文し、肩越しに振り返った。
「おい、ヴォルフガング! お前はそっちの屋台で、適当にツマミを買ってこい!」
剣聖に対して、あろうことかパシリの命令が下った。
ヴォルフガングは肩を落とし、
「へいへい……分かったよ……」
と、億劫そうに歩き出した。
目的の屋台にたどり着くと、
「いらっしゃいませ!」
と、ハツラツとした少女が、一人で店を切り盛りしていた。
「あー、えっと。あー、えーっと。あれ? ……何を頼めばいいんだ?」
ヴォルフガングは、戦場での決断力など微塵も感じさせないほど、戸惑いの色を浮かべる。
剣の道一辺倒を貫き、その血筋だけで公爵を継ぎ、領主になってからもあまりに世俗に疎すぎた弊害が、ここで露呈したのだ。
すると、屋台のオーナーらしき少女――共和国から逃れてきた難民のエマは、眩しいほどの笑顔で、
「ふふ……、オススメは、このトルティーヤロールと、あとは新商品のタコスなんてどうですか?」
「あー、あ……。ト、トル……なんだって? あの、それは……えーっと、これ。どうすれば……。あ、あ、あの……その……。す、すまんが、よく分からん……。適当に、その、二人分見繕ってくれるか? 俺と、あ、あの……あそこにいる、マティヤスの分なんだが。あっ、そう! その、マティヤス・カーライルってのは騎士なんだが……。あっ、それは、どうでもいいか……。で、あの、その、二人とも、酒を飲むので……えっと、あの、そのぉ……」
後頭部をボリボリと掻きながら、剣聖は年端もいかぬ少女に対して、恥ずかしそうに、腰を低く上目遣いに、やっとのことで言葉を紡ぐ。
エマは、最初こそ首を傾げていたが、やがて、その武骨な男の様子に目を細め、
「はい! わかりましたよ!! お任せ下さい!」
と、快活に応じる。
その一言に、ヴォルフガングは赤面しながらも、救われたような思いで胸を撫で下ろした。
(む、むぅ……。やはり、こういうのは、よくわからん……)
ため息をつきそうになり、思い止まる。
ラルフに領主を押し付けてからの放蕩も、買い物などの世俗的な雑事はすべて、妻であるジャニスに任せきりだった。
旅先で、気のいい連中からご相伴に与ることはあるが、それは差し出されたモノを食うだけでやり過ごせた。
しかし、流行りのモノや、新しいモノには、からっきし……弱い。
剣に生き、剣に愛された男――剣聖ヴォルフガング・ドーソンの、世間知らずで不器用すぎる一面が、春の陽光の下でひっそりと晒された瞬間だった。




