372.領主館で朝食を
いつもより数刻早く、ラルフは意識の浮瀬へと浮上した。
重い瞼を押し上げ、乱れた髪のままベッドを這い出す。
肌寒さに身を縮め、パジャマの上から、脱ぎ捨ててあった象徴的な魔導士のローブを無造作に羽織った。
階段を下りる足取りは、まだ覚束ない。
昨晩の酒精が頭の芯に微かな痺れを残し、ぬるい倦怠感が全身を包んでいる。
そんな微睡みの残滓を引きずりながら、彼は一階へと降り立った。
視界が開けた瞬間、ラルフは思わず足を止め、溜息を漏らした。
「……いや。だから……広すぎだろ、これ」
呆れを含んだ独白が、静まり返った店内に吸い込まれていく。
そこにあったのは、昨日ようやく増改築の全工程を終えたばかりの領主館一階――『居酒屋領主館』の新たな姿だった。
訪れる客たちの欲望と、職人たちのこだわり、そして時として暴走する思惑が編み合わされ、一介の領主の邸宅兼、居酒屋は奇妙な進化を遂げていた。
朝陽を浴びた真新しい高級木材のテーブルや椅子が、静謐な空気の中で琥珀色の光を放っている。それはまるで、嵐の前の静けさを慈しみながら、夜の喧騒をじっと待ちわびているかのようだった。
壁際に鎮座する大時計が、時を刻む微かな鼓動を店内に響かせている。
床面積は以前の三倍にまで拡張され、空間の奥行きが圧倒的な存在感を持って迫ってきた。
新調されたカウンターは、優美な曲線を描く湾曲したデザインへと生まれ変わり、並ぶ席数も大幅に増やされている。
ラルフがふと視線を奥へ向けると、真新しい硝子ケースの中に、至宝のように展示された名工ポール・リーの弦楽器が、静かな威厳を漂わせていた。
(さて……厨房はどうなっているか)
確認のために歩き出したラルフだったが、カウンターの一角に場違いな影を見つけ、眉を寄せた。
そこには、ダンジョン・マスターのスズが一人、まるで最初からそこにいたかのように平然と腰掛け、読書に耽っていたのだ。
「おい……。何しれっと人ん家に不法侵入してんだよ?」
ラルフの冷ややかな視線に、スズは栞を挟んで顔を上げた。
「この静寂も、また風情があると思って。今は“朝読”の最中。心が洗われるような、実に優雅な心地」
「優雅ねぇ……。住居侵入罪で、領兵を呼びたいところだが」
もっとも、彼女が管理するダンジョンの隠し通路が領主館の地下に繋がっている以上、彼女にとってここは庭も同然なのだ。今更咎めるのも馬鹿らしくなり、ラルフは肩の力を抜いた。
「ラルフ。この素晴らしい朝に相応しい"モーニング"を所望する」
「……お前のその厚かましさ、もはや芸術的だな。感心を通り越して畏敬の念すら覚えるぜ」
毒づきながらも、ラルフの体は自然と厨房へ向かっていた。
保冷庫の扉を開くが、本格的な営業前ということもあり、庫内は幾分寂しい。
「あぁ、そうか。定期の納品はまだだし、本格的な仕入れはミンネとハルに頼んだんだったな」
独り言ちながら、手早く食材を捜査する。
(コロントロの卵にベーコン、キャベツ。あとは鮭の切り身と……キノコか)
「おい、スズ! 優雅なメニューは期待するなよ。だが、腹を満たすくらいならなんとかなりそうだ」
振り返り声をかけると、スズは無言で、しかし力強く親指を立てて応えた。
「確か、まだ陽だまり食堂のパンが……、おっ! あったあった」
冷えたパンを取り出す。
気まぐれなダンジョン・マスターのわがままに付き合う形にはなったが、料理の支度を始めると不思議と意識が研ぎ澄まされていく。
今夜には新装開店を迎え、この静かな空間が戦場のような喧騒に包まれるのは自明の理だ。今のうちに滋養をつけ、精神を整えておくのは、決して無駄なことではない。
何より、限られた食材で一品を組み上げる作業は、魔導の構成を練るのにも似た知的な愉悦があった。
「よし。まずは、ベーコンエッグだな」
魔導コンロに魔力を通し、スキレットを火にかける。
バターが溶け、芳醇な香りが立ち上がるのを待って、厚切りのベーコンを六枚並べた。
ジュウジュウと、食欲を執拗に刺激する音が静かなカウンターへと流れ出す。スズが鼻をひくつかせ、本から顔を上げた。
(……ジブリ飯……。さすがはラルフ、わかっているわね)
彼女の満足げな頷きを背中で感じながら、ラルフは六つの卵を次々と割り落とした。
仕上げにペッパーミルを力強く捻り、粗挽きの胡椒が宝石のように白身を飾る。
「さて、次はスープ……いや、味噌汁でいいか」
パンが主食ではあるが、そんな些細な文化の不一致など知ったことではない。
彼にとって「食」とは自由の象徴であり、美味ければそれが正解なのだ。
片手鍋に水を張り、火にかけながらキャベツを大胆に手でちぎり入れる。
キノコは水でさっと洗い、石づきを手でちぎり、そのまま投入。
鮭の切り身も、包丁を使う手間を惜しんでそのまま鍋に落とした。熱が通れば自ずと身は解れ、良い出汁が出る。
それは、包丁も、まな板すら汚さない徹底した合理化――あるいは極限の横着。
(これでいいんだ、これで……)
脳裏を過ったのは、かつての前世で「一汁一菜」という質素ながらも豊かな食の在り方を説いた、高名な料理研究家の姿だった。味噌汁は何を入れてもいい。自由で、気取らない温かさがあればそれで完成なのだ。
湯気が立ち上る鍋に、ミュリエルから仕入れた最高級の味噌を溶き入れる。
菜箸で軽く突けば、鮭の身がホロホロと崩れ、黄金色の脂が汁の表面に輪を描いた。
仕上げに、ラルフは指先を向けた。
「《小火炎球》」
精密に制御された魔力の炎が、白パンの表面を黄金色に焼き上げる。
「はいよ。お待たせ。一汁一菜、ならぬ、一汁一菜一パンの『適当モーニングセット』だ」
スズの前に差し出されたのは、湯気を上げる具沢山の味噌汁と、完璧な火入れのベーコンエッグ、そして香ばしいパン。
彼女の瞳が、少女のように純粋な輝きを帯びた。
「……素晴らしいわ。これよこれ、これこそが、日本人の気取らぬ心の拠り所。では、いただきます」
「僕も。いただきます」
二人は並んで腰掛け、まずは同時に味噌汁を啜った。
――ズズズズズ……。
朝の静寂に、汁を啜る音が心地よく響く。
「ああ……落ち着く。鮭の塩気が野菜の甘みを引き立ててるわ。キノコの食感もいいアクセントね」
「ふぅ。出汁を引く手間を省いたが、キノコと鮭から十分な旨味が出てる。合格点だな」
自画自賛するラルフ。その時、エントランスのドアベルが涼やかな音を立てた。
振り返ると、そこには端正なメイド服に身を包んだアンナが立っていた。
「あら? 旦那様、今日はお早いお目覚めですね」
「あれ? アンナ。アンナこそ、いつもより早いじゃないか」
「本日は新装開店の日ですから。準備を万全に整えておくべきかと」
事務的な口調ながら、その瞳には主人の早起きを喜ぶような色が混じっている。
「そうか……。まぁ座れよ。アンナもまだだろ、朝飯」
アンナはほんの僅かに口角を上げ、
「ふふ。使用人である私に旦那様自ら料理を振る舞うとは。主従の立場が逆転してしまいましたね」
「まあまあ、気にすんな!」
ラルフが立ち上がり、再び厨房へと消える。
「……では、お言葉に甘えさせていただきます」
アンナは首に巻いたマフラーを丁寧に解き、椅子にかけると、スズの隣へと腰を下ろした。
「ほらよ、追加だ!」
アンナの前に置かれたのは、スズやラルフと全く同じ内容のモーニングセット。
それを見て、スズは密かに目を見開いた。
先ほど、ラルフは卵もベーコンも「六つ」用意していた。
つまり彼は、アンナがこの時間にやってくることを、最初から予期して動いていたのだ。
無骨に見えて、その実、驚くほど細やかな気遣い。スズは何も言わず、ただ口元を緩めた。
三人並んでの、静かな朝食。
アンナが味噌汁を一口啜り、ふぅ、と深い吐息をつく。
「不思議ですね。新調されたこの店の中で、このお味噌汁だけは、ずっと昔から知っていたような……とても懐かしい心地がいたします」
「……そうか。気に入ったならよかったよ」
ラルフは少しだけ照れくさそうに、ぶっきらぼうに応えた。
彼自身も、温かな汁を喉に滑らせる。
朝の静謐。
規則正しく時を刻む大時計。
そして立ち上る白い湯気。
それは、これから始まる激動の一日を前にした、束の間の聖域のようだった。
アンナが、静かに告げる。
「今夜からは、また忙しくなりますわね。……この静けさが恋しくなるほどに」
「……はぁ」
ラルフの口から漏れたのは、満足の溜息か、あるいは今夜の騒乱を予感した焦燥の吐息か。
いずれにせよ、せめて今だけは静かな朝食を楽しむことにする、ラルフだった。




