370.ニセモノの味
その日、ロートシュタイン領の冒険者ギルド。
その無骨な喧騒が渦巻く食堂のカウンターに、およそ場違いな華が咲いていた。
リネア・デューゼンバーグ伯爵夫人は、落ち着かない様子で、しかしソワソワと、期待に満ちた瞳で目の前を見つめている。
そこでは、鉄板の上で深紅の麺が躍り、食欲を暴力的に刺激する香ばしい湯気が立ち上っていた。
「ゴクリ……」
淑女らしからぬ、しかしあまりに素直な生唾の音が響く。
見事な手さばきで巨大なヘラを操っていたのは、この地の冒険者の頂点に立つ男、ギルドマスターのヒューズだ。
彼はなぜかエプロンを締め、調理番として戦場に立っていた。
「あの……。まあ、ギルドの食堂は一般開放してますから、どなたがいらしても構わないんですがね。……正直、貴女のような麗しき御婦人が来るような場所じゃないですよ? ここは」
困惑を隠せないヒューズの言葉は、至極真っ当だった。
深刻な人手不足という現実に加え、彼の持つ奇妙な人望と親しみやすさが、彼をこの鉄板の前に縛り付けている。
対するリネアは、いたずらっぽく、そして凛とした笑みを浮かべて言い放った。
「屋台街も、水上都市の名店もあらかた回り尽くしましたの! そうしましたら、ウラデュウス国王陛下が仰ったのです。『あそこのギルド食堂の鉄板料理は、一度は食すべきだ』と!」
するとその隣から、
「リネアさん、これ見てください! ブタタマですって! 美味しそう……これも頼んじゃいましょうよ!」
まるで長年の親友のように、弾んだ声で寄り添うのはヨランダ・カームだ。
二人は『居酒屋領主館』の同僚であり、今や身分を超え、親子のような、あるいは気の置けない悪友のような深い絆で結ばれていた。
「あら、本当! 野菜たっぷりでヘルシー! 豚さんのお肉も、お肌にも良さそうね! ヒューズさん、それも追加で!」
「……はいよ、喜んで」
ヒューズは半ば諦めたように笑い、再びヘラを舞わせる。
現在、領主館は本格営業再開に向けた改装工事の真っ最中。
その隙を突き、従業員二人はロートシュタイン・グルメ巡りに明け暮れていた。
連日の領主館での庭園バーベキューで「貴族」という薄皮を脱ぎ捨ててしまった二人は、ここ数日、屋台で立ち食いをし、水上都市で立ち飲みを決め込み、地下街の大階段の隅に腰を下ろしては、
『……で、ヨランダちゃん。好きな人とかいないの? やっぱり、狙いはラルフ公爵かしら?』
『や、やめてくださいよぉ! ライバルたちが怖すぎますって! こんなこと、もし誰かに聞かれでもしたら、私、本当に〇されちゃいますって?!』
などと、華やかな(?)恋バナに花を咲かせていた。
足元に転がるワインボトルのせいで、その姿はさながら高貴な浮浪者のようでもあったが、彼女たちは今、かつてない自由を謳歌していたのだ。
そして、今宵の飲み屋は、冒険者ギルド――。そういうことだ。すると、
「はいよ! ギルド特製、"焼きナポリタン"だ。熱いうちに食いな!」
目の前に差し出されたのは、真っ赤に染まった情熱的な麺料理。
「ウワァァァァァ! なんて芳醇な香りでしょう!」
リネアの瞳が、宝石のように輝く。
それを見ていたヨランダが、ふと疑問を口にした。
「あれ? ナポリタンって、ポンコツラーメンの屋台にもありますよね? 何が違うんですか?」
「あー、それはだな……」
ヒューズの説明を遮るように、リネアが熱弁を振るう。
「それは! やはり、このオーク肉のベーコンですわ! 見なさい、この暴力的なまでの厚み! そして、この巨大な鉄板が生み出す高火力でなければ到達し得ない、圧倒的な香ばしさ! これこそが『ギルド・ナポリタン』の神髄……らしいですわよ!」
一気にまくし立てると、彼女はフォークでクルクルと麺を巻き上げ、迷わず口へと運ぶ。
ヒューズはもう、すべてを受け入れ、黙々と「ブタタマ」の準備に取り掛かった。
「でも、ナポリタンって。不思議な響きの名前ですよね。語源は何なんでしょうか?」
ヨランダの問いに、ヒューズはヨランダの注文――"ギルド焼きそば"の皿を置くと同時に、一冊の真新しい冊子を差し出した。
「……それは、ここに書いてあるぜ」
ヨランダがそのページを開くと、そこには「ナポリタン」の起源について、あまりに奇妙な一節が記されていた。
【ナポリタンの起源について】
とある神話によると――、
――西方の食の神々がまどろむ隙に、東の島国の狂った料理人が発明した「偽りのナポリ」。
聖典を汚すその冒涜が神々に露見した後も、島国の民は厚顔無恥として、その深紅の麺料理を貪り食い続けたという……。
——ラルフ・ドーソン 談。
ヨランダは唖然として隣を見た。そこには、
「……う、うまぁぁぁいっ!!」
と、顔をほころばせ、魂を震わせるリネアの姿があった。
「す、すみません、私にも一口……!」
神々に背いた料理という、あまりに大仰な文言。
そこに秘められた「背徳の味」に抗えず、ヨランダもフォークを伸ばす。
口に含んだ瞬間、衝撃が走った。
「モグモグ……。ん!? んんんん!? 甘い、なのにちょっとだけ酸っぱい……肉の旨みが爆発して、野菜の甘みが追いかけてくる!」
それは、まさに冒涜的な美味だった。
神話にある「東方の島国」の人々が、神々の怒りを買ってまでこの味を手放さなかった理由が、今なら痛いほど理解できた。
「これが、人々を堕落させた禁断の果実……いえ、禁断の麺料理なのね……」
リネアは恍惚とした表情で、満足げに頷いた。
そして、
(その神話の章の名は――『東方腐敗』……かも)
と……。
✢
翌日、二人は工事中の領主館の庭で、いつものバーベキューを楽しんでいた。
その目的は……。
ラルフなら、また違った解釈の「ナポリタン」を作れるのではないか――そんな期待を胸に注文を飛ばすと、
「あー……。まあ、作れますけど。正直、ヒューズたちの方が『それっぽい』味を出すと思いますよ」
ラルフはいつもの諦念と面倒くささを滲ませながらも、手際よく調理を始めた。
そんな中、庭の片隅では、グルメギルドのマスター、バルドルが酒に酔い、荒ぶっていた。
「ふんっ! ワイバーンの肉だと? 俺は、やはり本物の竜族の肉こそが至高だと思うがなぁ! こんなモノ、偽物だ! 紛い物だ! 偽りの竜ではないか!」
その傍らで、ゲータースキンという名のワイバーンが、悲しげに涙を浮かべている。
その光景を見た二人の脳裏に、あの言葉が過った。
――「偽りのナポリ」。
"ナポリ"が何なのかは、結局わからない。
けれど、美味しければそれでいいではないか。
本物か、偽物か。そんなレッテルに何の意味があるのだろう。
大切なのは、己が信じた「美味」を貫くこと。
神話の中で神々に楯突いた、あの島国の民のように。
二人が意を決して立ち上がろうとした、その時。
「バルドルさん。ちょっと、今夜は酔いすぎじゃないですかね?」
静かに口を開いたのは、領主ラルフ・ドーソンだった。
「むっ? ラルフ! お前だって知っているだろう! 『本物』の味というものを!」
詰め寄るバルドルに対し、ラルフは淡々と言い放つ。
「ワイバーン肉の方がクセがなくて、美味いって客もいる。……そんなの、ただの個人の好みだぜ」
「しかし、ワイバーンなど亜竜に過ぎん! 本物の美食とは言えん!」
「……それは美味さじゃない。あんたの『価値観』を押し付けてるだけだ」
火花を散らすような視線の応酬。
ラルフは少しだけ寂しげに、言葉を継いだ。
「本物か、偽物か……。そんなの、どうでもいい。本物しか食べたくないなら、そうすればいいさ。それは自由だ。……でも、美味いものを食べて幸せそうにしている奴に、『それは偽物だ』なんて言うのは、少し野暮じゃないかい?」
その言葉に、バルドルはたじろいだ。
周囲の視線は、冷ややかではないが、どこか哀れみを含んでいるように見えた。
バルドルは肩を震わせていたが、やがてふっと毒気が抜けたように息を吐き、ラルフに歩み寄った。
「……すまん。どうやら、酔いが回りすぎたようだ。今夜は失礼する。……これは、今日のお代だ」
ラルフの手に金貨を握らせ、背中を丸めて宵闇へと去っていくバルドル。
リネアとヨランダが駆け寄る。
「ラルフ公爵。お気になさらないで? ……仕方ないですよ! 分かり合えないこともありますわ」
「そうです! 美味しいなら何だっていい。私はラルフ様の言葉が正しいと思います!」
夜空を見上げ、ラルフは切なげに呟いた。
「ああ……。ありがとうな。ナポリタン、すぐ作るから……」
そう言って、彼は手を開き、その金貨を眺めた。
「ん? ハァあ~?! ……ちょっと待て! おい、アイツ……?!」
突如、ラルフの顔が驚愕に染まる。
「これ"カドス金貨"じゃねーか?! 詐欺だ、詐欺! あの野郎、いい話風にまとめておいて、僕に金メッキの銅貨を掴ませやがったっ!! 待てコラァァァァァァぁ!!」
余韻を粉砕し、地面を蹴って夜の街へとバルドルを追いかけ駆け出すラルフ。
その手から、軽く、硬質な音が地面に叩きつけられる。
それはかつてコール・ディッキンソン率いる反乱軍が発行した、価値のないニセモノの金貨だった。
残されたリネアとヨランダは、そっと天を仰いだ。
(せめて……"ナポリタン"を巡る神話の神々と人々は、いつか分かり合えますように……)
ちなみに――。
このロートシュタイン領をカドス反乱軍が占拠した、極短期間にのみ流通した「カドス金貨」は、後の時代、その希少性からコレクターの間で爆発的な需要を生み、本物の金貨を遥かに凌ぐ価値で取引されることになる。




