362.暗闇の終幕
「ハッ……!」
肺に溜まった澱んだ空気を吐き出すように、共和国の参事会議員ピエトロ・ガッリは意識の底から浮上した。
まぶたを押し上げれば、そこにあったのは見慣れた自室の天蓋ではなく、湿り気を帯びた石壁と、どこまでも冷酷な静寂だった。
見渡せば、そこは案外に広い、地下室を思わせる部屋。
天井付近に設えられた小さな魔導灯が、今にも消え入りそうな弱々しい光を明滅させている。その不規則なリズムが、ピエトロの心音をいやが応にも急かした。
「な、なんだ……ここは……。いったい何が起きた……」
記憶の糸をたぐり寄せる。
昨晩、共和国の喧騒を離れ、自室で眠りに就こうとした所までは鮮明だ。
王国で勃発したコール・ディッキンソンによる武力蜂起。それが、あまりにもあっけなく鎮圧されたという報せ。
その不快感と、計画の狂いからくる焦燥を紛らわせるために、安物の葡萄酒を呷ってベッドに倒れ込んだはずだった。
いや――そうだ。朧げな記憶の断片が、意識の隅で明滅する。
窓を叩く、不自然に硬質な音を聞いた。訝しみながらもカーテンを開けると、そこには夜の闇に紛れるようにして、一羽のミミズクが佇んでいた。
その瞳が、深淵のような紫色の光を放った瞬間、ピエトロの意識は消失したのだった。
「う、うぅ……。な、なんだここは? ここはどこだ?」
「な、なんで儂が、こんな場所に……」
呻き声が重なり、部屋のあちこちで床に転がっていた人々が起き上がり始める。
ピエトロは戦慄した。そこにいたのは、彼一人ではなかったのだ。
「ん? アントワン! それに、ギゼムも……! 貴様らまで、どうして」
互いの顔を確認した瞬間、部屋に流れる空気が一変した。
彼らは単なる同僚ではない。共和国の影で甘い汁を吸い、ある種の仄暗い企みを共有する、強固な利害関係で結ばれた「共犯者」たちだった。
「ピエトロ! ここは……いったいこれは、誰の仕業だ?!」
ギゼムが、絞り出すような怒号を放つ。その声が壁に跳ね返り、虚しく消えた。
すると、闇の奥――魔導灯の光すら届かない天井の梁の上で、ふたつ、怪しく光る眼球がこちらを見下ろしていた。
「ようこそ。"裏金議員"の皆様」
やけに甲高い、神経を逆撫でするような声が響く。影の中から姿を現したのは、あの夜、窓辺にいたミミズクだった。
「あっ! こ、コイツだ! あの時、私の部屋にいたのは!」
「なに? では、お前の所にも来たというのか?!」
議員たちが騒ぎ立てる中、ミミズクは翼を広げ、傲慢なまでに堂々とした態度で告げた。
「皆様。ご静粛に……。これから皆様には、素晴らしいアトラクションに参加していただきます。名付けて『裏切りのデスゲーム』。生きてここから出るためには、是非とも協力し合い……そして、美しく裏切り合ってくださいね」
冷酷なルールを一方的に告げると、ミミズクは天井付近の細い隙間から、夜の闇へと溶けるように飛び去っていった。
「おいっ! 誰か! 誰か助けてくれっ!」
届かぬ助けを求め、高い小窓に縋り付く者。
「クソっ、クソっ! 扉は重厚な鋼鉄製だ。ハンマーでもなければ、魔法でも使わん限り破れんぞ!」
出口を求め、絶望を爪に刻む者。
混迷が極まる中、ピエトロだけは部屋の奥に佇む、唯一の扉を睨みつけていた。
「……仕方あるまい。どうやら、この先に進む以外に道はないようだ」
その言葉に、他の議員たちは唾を飲み込み、視線を扉へと向ける。
それは、明らかな罠だ。しかし、先程のミミズクの、あの狂った言葉を信じるならば、この先にある「ゲーム」とやらで同僚を出し抜き、勝ち残るしか、生還の目はない。
彼らは恐る恐る、絶望への入り口に手をかけた。
✢
「……なんていうか、凄まじく回りくどいことをなさるんですね?」
呆れたような声を上げたのは、共和国諜報機関のエージェント、ヨランダ・カームだった。
彼女の視線の先には、上司であるハーフリングの男がいる。彼は最近、何故か『M』というコードネームを好んで使い、妙に芝居がかった振る舞いを見せていた。
「まあ、これもラルフ殿のアイデアなんだよ。物理的な拷問よりも、こうして極限状態で心を折っておけば、後の自白もスムーズにいくだろう? 何より……見ていて飽きないしねぇ」
Mが手元の魔導タブレットを操作する。そこには、ラルフから貸し出されたという、未知の技術による映像が映し出されていた。
『うっ!』
『む? やはり毒が盛られているのか?!』
『うっ、か、辛ァァァァァァっ! み、水を! 誰か水をくれぇ!!』
第一ステージ『裏切りのデスソースカレー』。
そこには、地獄のような赤色をした液体を口にし、のたうち回る裏金議員たちの無様な姿があった。
Mは愉悦に満ちた表情で、満足げに鼻を鳴らす。
「ふむ……。アレは、本当に恐ろしい代物だ。辛いというか、ただ、痛い……」
彼は、あの狂気のソースを笑顔で差し出した、金髪ツインテールの少女――ラルフの傍らにいた恐るべき料理人を思い浮かべ、小さく身震いした。
「今回の件、報告書にはなんと記述しましょう?」
ヨランダの問いに、Mは重いため息をつきながら、執務椅子の背もたれに深く体を預けた。
「ああ……。もう少し待ってくれ。今回は共和国一国で完結する問題じゃない。王国とも連携しながら、極めて慎重に事を運ぶ必要があるんだ。四ヶ国間の擦り合わせには、少々骨が折れそうでね」
「まあ、そうですよね……。捕縛された反乱軍だけでも、優に二百を超えています。そこから協力関係にあった議員の洗い出し、資金源の特定……。はぁ、当分は休暇なんて夢のまた夢ですね」
「あ、そうだ! ヨランダ君。君はロートシュタインでの潜伏……いや、『駐在』を続けて構わないよ」
Mが不意に顔を上げた。
「へっ? え、もしかして私、クビですか……?」
「いやいや! 我々としても、あの若き天才公爵……ラルフ・ドーソンとの太いパイプは維持しておきたい。元店員という肩書きを持つ君は、駐在連絡員としてこれ以上ない適任じゃないか!」
ヨランダは目を丸くした。
確かに、彼女は一時的にではあるが、ラルフの経営する『居酒屋領主館』で、偽りの――しかし、どこか誇りを持って店員として働いていた。
「ああ……。そういえばあの時、頂いた辞令、まだ生きていたんですね?」
「そういうこと! いいじゃないか。あそこは飯も酒も絶品だ。私も暇ができたら再訪したいのだが……。当面は無理そうだからね」
Mはデスクに頬杖をつき、窓の外を見遣った。
コール・ディッキンソンによる、ロートシュタイン領占拠事件。
これほどの大規模な騒乱の収束は、先の大戦以後、最大の政治案件となるのは明白だった。
厄介なのは、反乱の火種が国境を跨いで飛び火していたことだ。
だが、そのすべての盤上を、見えざる手によって操り、この結末へと導いた人物たちがいることも、また事実……。
Mは、窓辺で羽を休める一羽のミミズクに、畏敬にも似た視線を向けた。
「コール・ディッキンソンの処遇……どうなるのですかね?」
ヨランダは答えを知りながらも、やりきれなさを吐き出すように問いかけた。
「間違いなく、法が定める『最も重いモノ』……だろうね」
「……そう、ですよね」
「当然だ。奇跡的に死者は出なかったが、彼が犯した罪は国家の根幹を揺るがす大罪だ。情状酌量の余地はない」
「なんだか、ラルフ様に……なんと声をかけたら良いか……」
「案ずるな。彼は今頃、壊された領主館の復旧作業に追われて、感傷に浸る暇もないはずだ。君も当然のような顔をして、その作業に混ざればいい」
「そう、ですね。そうします!」
ヨランダは意気揚々と部屋を後にした。今夜中に荷造りを終え、ロートシュタインへ向かうのだという。
彼女があの場所で得た絆がどれほど深いものだったのか、Mにも理解できた。
しかし、一人残された執務室で、彼はふと重苦しいため息を吐いた。
「これで……あの大戦の残り香が消えるとでも? いいや。戦後は続き、新たな戦前がはじまる……。ヒトが自分勝手な欲望を抱き続ける限り、歴史は残酷な円環を描き続けるのさ」
独り言をこぼしながら、彼はデスクの引き出しから、ロートシュタインの市場で手に入れた『カリカリ梅』を取り出した。
そのパッケージには、可愛らしくデフォルメされた、エルフの少女の似顔絵――、最近よく見かける新進気鋭の駄菓子ブランドとして刻まれている。
一粒、口に放り込む。
「すっぱ……ッ!!」
酸味の暴力に、Mは目を白黒させた。
✢
新生カドス国を自称した、コール・ディッキンソンによるロートシュタイン領占拠事件。後に『ディッキンソンの乱』と記されるその顛末を、ここに総括しよう。
武力蜂起に参加した元カドス兵は、延べ二百数十名。
この未曾有の事態に対し、王国、共和国、聖教国、そして帝国の四ヶ国が異例の連携を見せた。
王都にて開かれた「四ヶ国合同裁定:ディッキンソン裁判」の判決は、峻烈を極めた。
コールに近い首謀格とされる五十三名、および彼らに資金提供を行っていた共和国の参事会議員たち。彼らは一族郎党共に、ロートシュタインから南西に位置する、地図にも載らぬ未開の孤島へと流刑に処された。
それ以外の兵士たちには、数年間の労役刑が科せられた。市民権を剥奪され、期間奴隷としての労働力となった彼らは、ある者はエストルンドの漁村再開発へ、またある者はロートシュタインの冒険者たちの荷物持ちへと割り振られた。
皮肉なことに、労働力不足に喘いでいた商人たちからは、この「屈強な労働力」は大変な歓迎を以て迎えられたという。
そして。
この騒動の主犯、コール・ディッキンソン。
彼の最期は、――死刑。
王都の地下、冷たい石壁に囲まれた非公開の刑場で、彼は毒杯を呷ったと発表された。
新生カドス王を名乗り、失われた栄光と欲望に身を焦がした男の、あまりにもあっけない幕切れであった。




