361.過去の輝き
ラルフの左目に宿る深紅の輝き――「名も無き神霊の涙」。
その悍ましくも美しい魔力の残光が、雪解けのようにゆっくりと溶け落ち、元の穏やかなダークブラウンへと戻っていく。それと同時に、張り詰めていた空気が一気に弛緩した。
「ハァ……ハァ……っ。……クソ、便利だが、代償が重すぎる。脳が焼き切れそうだ……。一日、これが限界か……」
ラルフは膝をつき、肩で激しく息を吐く。
その呟きは、勝利の凱歌などではなく、自らの限界を冷静に、そしてどこか忌々しげに分析する魔導学者のそれだった。
決闘の結末を見届けた群衆は、ただ、押し黙っていた。
本来なら、歴史に残る一戦の終結に割れんばかりの歓声が上がるはずだ。
しかし、あまりに壮絶で、そしてあまりに呆気ない幕引きを前に、人々はどう言葉を紡げばいいのか分からなかったのだ。
吹き飛ばされ、ロートシュタイン領の中央門へと叩きつけられたコール・ディッキンソンがいた。
カドスの誇り、そして彼自身の防壁でもあった堅牢で巨大な門が、悲鳴のような軋みを上げて、ゆっくりと、崩壊していく。
轟音と共に舞い上がる土煙。
その中から、コールが這い出してきた。
口の端から鮮血を滴らせ、折れた剣を杖代わりに、幽鬼のような足取りで立ち上がる。
「なによ……アイツ、まだやる気なの……っ!?」
エリカの悲鳴に近い声が静寂を破る。
だが、歩み寄るコールの瞳に、もはや闘志の欠片も宿ってはいない。
泥と血に塗れ、王族としての威厳をすべて剥ぎ取られた男は、虚ろな顔で、ただ一歩、また一歩と、死地を求めるように彷徨う。
「……ここで、終わりなのか。カドスの栄光も……俺という存在も……」
乾いた声が、自身の足元にこぼれ落ちる。
彼は力なく、その場に膝を屈した。
「……神よ。何故、我を見捨てたもうたか……ガハッ!」
せり上がる血を吐き出し、彼は絶望の淵で項垂れる。
「ハァ……ハァ……。もう、無理だ……。こんなの、もう嫌だ……! なんで俺だけ、なんで俺だけがこんな目に遭わなきゃならないんだ……っ! もう嫌だ……、もう……」
震える手で、折れた剣の切っ先を自らの喉仏へと添える。
観衆の誰もが、その凄惨な幕引きを予感して顔を背けた。
反乱の首謀者として、自ら落とし前をつける。それは一つの「正解」かもしれない。
だが、ラルフ・ドーソンだけは違った。
無造作な足音を響かせ、最短距離でコールへと肉薄する。そして、迷うことなくその足を振り抜いた。
――ガィィン!
硬い音を立てて、コールの剣が泥溜まりへと転がっていく。
「……お前は、またそうやって逃げんのかよ! この卑怯者がッ!!」
ラルフの顔は、怒りのあまり激しく歪んでいた。
「……ラルフ……。もう、いい。俺は疲れたんだ……。俺はもう終わった。頼む……殺してくれ……」
虚ろな目で、救いを求めるように囁くコール。
ラルフは無言でマジック・バッグに手を差し入れた。
その様子を見て、コールはふっと肩の力を抜く。
(父上……すみません。今、いきます……)
かつて、父である先王を討ったラルフの手によって、自分もまた散る。その因果の巡り合わせに、コールは奇妙な安らぎさえ感じていた。
首を刎ねる鋭い斬撃。
それを覚悟して目を閉じたコールの頭頂部に、
――スパコーン!!
と、あまりに場違いで軽快な音が炸裂した。
「このバカ! アホ! 間抜け! ……死ね! お前なんて死んでしまえッ!!」
ラルフが取り出したのは、剣でも魔導具でもない。ただの『ハリセン』だった。
全力で振り抜かれた一撃に、コールは目を白黒させて固まる。
「……あ、いや……だから……今、死のうと……」
「えっ? あ! そうか……。いや、いやいやいや、ダメだダメだ! コール、生きろ! この落とし前、生きて償いやがれ!」
あまりの怒りに、当のラルフ自身も支離滅裂な叫びを上げている。
「もう、終わりにしよう。……どうせ、俺のような大逆人は処刑される運命だ。今ここで死ぬのが、貴様にとっても楽だろう……」
その弱々しい言葉を聞いた瞬間。
ラルフの左目が、再び不気味な紅い光を放ち始めた。
ラルフはコールの胸ぐらを掴み、無理やりその身体を引きずり起こす。
「そういうのが一番ムカつくんだよ! お前がどれだけ偉そうにしようが、身分不相応な望みを持とうが、そんなの知ったことか! ……死にたいなら勝手に死ね! だがな……全部投げ捨てるほどのことでもねーのに、絶望を気取ってんじゃねえよ?! この大馬鹿野郎が!」
「き、……き、き、貴様に、何がわかるッ!!」
コールの内側に、最後のアドレナリンが駆け巡った。反射的にラルフの襟首を掴み返し、至近距離でその瞳を睨みつける。
「貴様が……絶望を語るな! お前に、俺の絶望の深さがわかるものか!!」
激突する視線。
再び、ラルフの左目が、妖しく、そして深く明滅する。
「知らねーよ! 知らねぇから、ちゃんと色々話したいんだろ?! ハァ、もういい……なら、見せてやるよ! 僕の……絶望を」
ラルフの赤い目を見たコール。
視界が、反転する。
コールの意識は、ラルフの瞳を通じて「過去」という名の深淵へと引きずり込まれていった。
――四年前、プロドス戦線。
天を焦がす魔力光が、世界の終焉を告げるかのように明滅していた。
焼け焦げた死体が、大地を埋め尽くす。
丘ので、禁忌の極大魔法を発動させた――ラルフは、勝利を喜ぶどころか、ただ一人、泣いていた。
場面が、激しく切り替わる。
――王立魔導学園、中庭。
「ラルフ・ドーソン! 俺と勝負だ! 今度こそ! お前を血祭りに上げてやる!」
「ん、あ? またコールか〜。めんどくせーな。今、魔導発動機の試作が佳境なんだよ。ちょっと待ってくれる? ……ハァ、なんで勝てないってわかってる勝負に、そうムキになるかなぁ……」
呆れ顔で作業に戻るラルフ。
それは、コールが王国へ留学していた頃の、取るに足らない日常の一幕。
そして、景色はさらに遠く、記憶の最果てへと遡る。
それは、コール自身さえも忘却の彼方に置き去りにしていた、失われた情景だった。
――数多の年月を超えた、金色の草原。
まだ五歳ほどの幼いコールが、どこか達観した雰囲気を持つ幼い、ラルフに突っかかっていた。
「おい、お前! 魔法が得意なんだってな! 俺と勝負しろ!」
「は? お前、誰だよ?」
「俺はコール・ディッキンソンだ! カドスの王子だぞ!」
小さな木剣を掲げ、誇らしげに胸を張る幼いコール。
「悪いけど、今、重力魔法の実験中なんだ。付き合ってる暇はないよ」
「……っ?! 貴様、無礼だぞ! 俺は王子だぞ! 偉いんだぞーっ!!」
必死に喚き散らす姿は、あまりにも純粋で、可愛げに満ちていた。
その光景を、コールの意識は、そこにいない存在として、眺めていた。
――そうだ、思い出した。
幼い頃、父上が王都の晩餐会の帰り道に、このロートシュタインへ立ち寄ったのだ。
丘の上では、まだ若かりし日の父――ダイダロス・ディッキンソンと、先代ロートシュタイン領主ヴォルフガング・ドーソンが、微笑ましそうに息子たちを見守っていた。
「ダイダロス陛下……。本当に、共和国の言いなりになるおつもりですか?」
ヴォルフガングの問いに、父は静かに、だが晴れやかな顔で答えた。
「ああ。……もう国に先がないのなら、儂の代で終わらせるべきだ」
「カドスの名が失われても、本当によろしいのですか?」
「名など、呪いと同じだ。儂だって、王になりたくて生まれたわけではないからな……」
ダイダロスは、遠くを見つめる。
「武力だけで形を成す国など、もう意味はない。これからは、新しい時代が始まる。見なさい、彼らを」
視線の先では、
「う、うわあぁっ!? 浮いてる、俺、浮いてるぞ! お前、すげえな!」
「へっへーん! これが浮遊魔法の基礎運用だよ!」
ラルフの魔法によって宙に浮かされたコールが、無邪気にはしゃいでいた。
ダイダロスは、ポツリと本音を漏らす。
「実はな、ヴォルフガング公爵。正直に言うとな、儂は……建築家になりたかったのだ。千年先まで残るような、美しい教会や街並みを作りたかった。……だが運が悪かった。ご先祖様が、カドス独立の英雄だったばかりにな」
「陛下……」
「王なんて、やるもんじゃないな〜。……息子たちには……特にコールには、自由に生きてほしい。あの子の魔法剣の素質は素晴らしい。将来は冒険者にでもなって、この広い世界を駆け回ってほしいものだ」
その言葉に、ヴォルフガングは困ったように笑い、戯れる幼子たちに目を向けた。
「わっ、痛っ! 突然止めるな! 無礼者 ……このバカ! アホ! 間抜け! 死ねっ!」
地面に尻もちをついた幼いコールが、木剣を振り回してラルフを追いかけ回す。
「けーっけっけ! このバカ王子がぁ!」
逃げ回るラルフの笑い声が、草原に溶けていく。
「共和国の尖兵として、戦場で散る。それが王としての、儂の最後の役割だ。カドスの名誉……王が生き延びるなど、恥ずかしいではないか」
「……俺は、貴方を斬る自信が、ありませんよ?」
「いやぁ、その時は頼むよ。儂は肺を病んでいる、長くはない。……歴史とは皮肉だな。皆、幸せになりたいと願っているはずなのに……」
見たこともないほど穏やかな父の顔。
それが、コールの思念体が最後に見た記憶だった。
「ハァ……ハァ……ッ」
意識が現実へと引き戻される。
目の前には、息も絶え絶えになりながら、それでも力強く襟首を掴み続けるラルフ・ドーソンの姿。
魔力は底を突き、汗が滴っている。
だが、その瞳には依然として不敵な光が宿っていた。
コールは呆然と、己の存在意義を見失った子供のように呟いた。
「俺は……。俺は一体、何のために……こんなことを……」
奪われた誇り、父の仇、国の再興。彼を突き動かしてきたはずの「正義」は、今、その根底から崩れ去った。
――しかし。
かつての親友であり、今この瞬間、魂をぶつけ合った宿敵は、最高に醜く、最高に晴れやかな笑みを浮かべて言い放った。
「知らねーよ、バーカ!」




