354.終わりに向かう
エストルンドの漁村を包み込んでいたのは、もはや言語化を拒むほどの、深淵な静寂だった。
物理的な音が消えたわけではない。打ち寄せる波の砕ける音、飢えた海鳥の乾いた鳴き声、そして絶え間なく入港する交易船から重い荷を運び出す人夫たちの野卑な怒号。
それらは確かにティナの鼓膜を震わせていた。しかし、それらの喧騒は風景の一部として摩耗し、彼女の意識を通り抜けていく。かつてあれほど鮮烈だった「騒がしさ」という熱を失い、世界は色彩を欠いたモノクロームの記録映像のように淡々と再生されている。
使い古された漁網の破れを繕う、傷だらけの指先を、ふと止める。
視線の先には、"ラルフの酒場"があった。
固く閉ざされたドアには、不格好な筆致で"Closed"と記された木札が掲げられ、潮風に煽られては、乾いた音を立てて壁を叩いている。
嵐のように現れ、この寂れた辺境の村に熱狂という名の火を灯した、ラルフという名の奇妙な男。彼はその火がもっとも激しく燃え上がる瞬間に、あまりにも唐突に姿を消した。それは過ぎ去った夏の夜の雷雨のように、鮮烈な記憶の爪痕だけを残して。
村人たちの動きもどこか緩慢で、気怠げな空気に支配されている。彼らもまた、あの男が振りまいた毒にも似た熱に浮かされ、そして今、日常という名の緩やかな死へと回帰していく自分たちを、諦念とともに受け入れようとしているのだ。
むろん、村は変わった。東大陸や聖教国を繋ぐ中継港としての脈動は始まり、行き交う行商人たちは、この港の輝かしい未来を声高に喧伝している。文明の利器が運び込まれ、金が落ち、建物は増えていくだろう。
けれど、ティナの胸に空いた空洞は、発展という言葉では埋めようもなかった。
ラルフがいなければ、何もかもが空疎だった。
常に酒の香りを漂わせ、理解の及ばぬ法螺話ばかりを並べ立てていた男。しかし、その裏表のない無垢な笑顔に、彼女は救われていたのだ。あるいは、彼の差し出す未知の、暴力的なまでに豊かな味わいの料理に、魂を毒されてしまったのかもしれない。
彼はもう、……いない。
ティナが天を仰ぐと、つい先ほどまで透徹していた蒼穹を、低く垂れ込めた鉛色の雲が侵食し始めていた。それは彼女という矮小な存在を、この狭隘な港町に繋ぎ止めようとする、運命の悪意に満ちた采配のように感じられた。
(どうせ、私は、ここで生きるしかない……)
自分と彼とは、決定的に住む世界の層が違う。
彼は自由だった。
遮るもののない風のように、境界を、規律を、あらゆる立ち入り禁止の看板を嘲笑うかのように、ただ軽やかに吹き抜けていく。
ティナは、眼前に伸びる一本の道を見つめた。王都へと続くその轍は、彼女の人生とは無縁の、どこか遠い世界へと通じているように思えた。
その道を、ラルフは去っていったのだ。
煌びやかな装束を纏った貴族たち、鋼の肉体を持つ冒険者たち。
多くの民に傅かれ、敬愛の眼差しを一身に浴びながら、彼は戦勝国の王子のように眩く着飾り、去っていった。
その姿は、あまりにも神々しく、もはや地上に属さぬ天上の住人が、本来あるべき場所へ帰還していくかのようであった。
一陣の風が吹き抜け、遠くで低い雷鳴が唸りを上げた。
大気が湿り気を帯び、逃れようのない嵐の予感が肌を刺す。
ティナは、あの騒がしい男が消えていった果てしない道の先を、ただ、祈るような虚脱とともに見つめ続けていた。
✢
新生カドス国を標榜し、ロートシュタインを占拠した反乱軍の長、コール・ディッキンソンは、かつての領主館の主のような顔をして、二階の執務室で傲慢な指揮を飛ばしていた。
「よしッ! 共和国金貨はそちらへ運び込め。一枚たりとも数え漏らすな!」
剥き出しの野心を隠そうともせず、彼は部下であるカドス兵たちを怒鳴りつける。机の上には、共和国の腐敗した議員から秘密裏に届けられた、武力蜂起を支援するための軍資金と物資の目録が散らばっていた。
(……これで、兵たちの飢えは消える。私の権威も盤石だ)
コールは歪んだ満足感を口元に浮かべた。
彼にとって、国家の統治とはあまりに単純な、子供の積み木遊びにも等しい理論だった。
この地に根を張る商人や農民など、金貨をちらつかせれば食糧を差し出し、それを再び「税」として吸い上げればいい。経済の循環も、社会の構造も、ただ力を持つ者が回すだけの単純な歯車だと、彼は短絡的に信じ込んでいた。
「平民どもは、我ら選ばれし統治者のために、馬車馬のごとく働けばいいのだ……」
陶酔に浸る彼の言葉を遮ったのは、窓際にいた兵士の、震える声だった。
「へ、陛下……。あ、あの、アレはいったい……?」
兵士が指差す先、眼下の広場には、異様な光景が広がっていた。
何重もの魔封処置を施された巨大な鎖にがんじがらめにされ、身じろぎ一つ許されぬまま鎮座する、禍々しい巨躯の魔獣。
「ああ……万が一の備えだ。王国騎士団が奪還に動くか、あるいは……あのラルフ・ドーソンが、再び牙を剥くか。その時のための切り札よ」
コールは忌々しげに吐き捨てた。
「あ、あんな禁忌の化け物を、誰が調達したのですか……?」
兵士の額から、嫌な汗が滴り落ちる。その問いに、コールの瞳が冷酷な光を帯びて射抜いた。
「貴様が知る必要はない。分を弁えろ」
有無を言わせぬ恫喝。兵士は「失礼いたしました!」と、命乞いをするような勢いでその場を辞した。
独り残されたコールは、苛立ちを隠さず吐き捨てる。
「ふん、道理の分からぬ奴らばかりだ。民は、正しき指導者を正しく支えればそれでいい。御託は聞き飽きた……」
しかし、その傲慢な独白を切り裂くように、街中にけたたましい鐘の音が鳴り響いた。
――カーン! カーン!!
「な、なんだ?! 何が起こった!」
椅子を蹴立てて立ち上がるコール。その刹那、執務室の重厚な扉が乱暴に跳ね開けられた。
「報告! 報告いたします! 東門にて民衆による大規模な暴動が発生! すでに制御不能です!」
飛び込んできたのは、肩で息をする女兵士だった。彼女は必死の形相で進言する。
「戦力を東門に集中させ、即刻鎮圧すべきです! でなければ、内側から門を破られます!」
「ちっ、下衆どもめ! 何が不満だというのだ? 我が国の栄光の下で生かしてやるというのに……。構わん、全軍を集結させよ! 逆らう者は……一人残らず斬り捨てろ!」
冷徹な命令を下すコール。だが、彼は気づいていなかった。その混乱の裏側、ロートシュタインの地下街では、全く別の「物語」が終幕に向けて動き出していたことを。
「Okay, it’s showtime. Switch to Shelter Mode.」
ひんやりとした湿り気を帯びた地下の深淵で、ダンジョン・マスターのスズが静かに呟いた。彼女の指先が、ガーゴイル像の鎮座する球体の魔石に触れる。
「地下通路の全セクターを完全封鎖。ロックを確認して。……We're going dark.」
その指示を直接脳内に受け取ったガーゴイル――その内に封じられた悪魔は、困惑に身を震わせた。
(……うん。何を言っているのか、さっぱり分からん。だが……よくわからんけど。なんとなく、わかった!)
刹那、地下街に爆発的な魔力光が溢れ出した。
密かに避難してきた民衆がひしめき合う薄暗い通路で、不安に震える一人の女性がスズへと歩み寄る。かつて冒険者として名を馳せ、今は定食屋を営むあの店主だ。
「スズちゃん……。本当に、大丈夫なの?」
「大丈夫! あとは、ラルフが全部やってくれるから」
スズの断言と同時に、地上へと通じる全てのゲートや通用口が、未知の魔導機械の駆動音とともに重厚な音を立てて閉鎖された。
「うぉっ?! な、なんだ、この音は! 床が、壁が閉まっていくぞ!」
街頭で見張りに立っていたカドス兵たちは、足元で起きている劇的な変化に腰を抜かした。
地上に残されたのは、武装した兵士たちのみ。
人質に取るべき「弱き民」は、文字通り煙のように消え、強固な地下の要塞へと呑み込まれてしまったのだ。
「報告いたします! 暴動は……虚報でした! 東門には誰もおりません!」
「街から民の姿が消えました! 全員、地下通路へ立て籠もった模様!」
「地下への入り口が特殊な装甲で閉鎖されています! 大型ハンマーでも、傷一つ付きません!」
領主館に次々と舞い込む絶望的な報せ。
コールの顔は、怒りと困惑で土気色に変色していた。
人質がいなければ、この蜂起はただの孤立無援なテロに過ぎない。
民衆という名の「盾」と、税収という名の「血」を失い、彼の描いた国家の設計図は、ただの落書きへと成り下がった。
(なぜだ……カドスの悲哀を語れば、正統性を誇示できると、あの議員連中も言っていたはずだ……!)
歯噛みするコールの脳裏に、ある疑念が閃いた。
「おい、……最初に、暴動の報告を上げた兵は、誰だ? ……どこにいる!!」
整列した兵士たちが、互いに顔を見合わせ困惑する。
その中に、コールは見覚えのない「女兵士」を捉えた。カドス民族の精鋭は全て面通しを済ませていたはずだ。だが、先ほど息を切らして報告に来たあの女は、明らかに異質だった。
「お前……何者だ?!」
コールは腰の剣を電光石火の速さで引き抜き、魔法の術理を乗せて一閃した。
「《滑空斬》!」
不可視の真空刃が、空を裂き、女の細い首筋へと肉薄する。
コールの判断は速かった。彼女が潜入工作員であると確信し、その命を瞬時に刈り取る。
それは、間違いはなかった。
彼女こそ、スパイだったのだ。
この、欺瞞に満ちた、その報告で撹乱を狙った主犯。
そして、驚愕に見開かれた女の瞳。
不可視の斬撃が、その身体を両断し、鮮血が舞い散る――。
はずだった。
――コロン、コロン。
無機質な音を立てて床を転がったのは、丸太だった。
「んっ? ……はっ?!」
剣を振り抜いた姿勢のまま、コールは凍りついた。
手応えは確かにあった。
しかし、敵の姿は霧のように消えていた。
「ふぅ~、危なっ! いや〜、ラルフ様に『変わり身の術』を教わってなかったら、今ごろお陀仏だったわー」
窓枠に軽やかに腰掛けた女――共和国のエージェント、ヨランダ・カームが、茶目っ気たっぷりに笑っていた。
「捕らえろ! その女を逃すなッ!」
「あはは、ヤバっ! でも私の仕事はここまで。あとは"本隊"に任せるわー!」
ヨランダは大窓をガシャーン! と、背後に突き破り、鮮やかに戦場を離脱した。
「お、追えぇ!」
「逃がすなー!!!」
兵達が叫ぶが、もう遅い。
呆然と立ち尽くすコールに、追い打ちをかけるような悲鳴が届く。
「陛下! 中央門の彼方より、未確認の魔導兵装が接近中。あれは……恐らく、ジョン・ポール商会の重火器群です!」
ジョン・ポール商会。
この地で謎に包まれ、これまでコールとの面会を拒み続けた巨大軍需産業。
その真の力が、今、牙を剥こうとしていた。
「お、お、おのれぇぇぇぇぇ!! どいつもこいつも、カドスの栄光を邪魔しおってぇぇ!」
叫ぶコールの瞳からは、もはや指導者としての知性は消え失せていた。
そこに宿るのは、袋小路に追い詰められた獣の、無惨で醜悪な殺意だけだった。
「俺はカドス王だ……千年先まで語り継がれるべき唯一の王なのだ! それを……それを阻むというのか……? ラルフ・ドーソンッ!!」
狂乱の叫びが、主を失った領主館に虚しく響き渡った。




