344.最悪のはじまり
ロートシュタイン領、その中心を貫く目抜き通りを、一人の小さな人影が足早にゆく。
道ゆく者の誰もが、最初はそれを子供の姿だと思った。しかし、その人物が纏う風体はあまりに異様だった。
隙のない黒のブラックスーツ、深く被った黒のハット。そして白昼にもかかわらず、目元を完全に覆い隠す黒のサングラス。白日の下に現れたその姿は、周囲の視線を嫌でも惹きつけた。
小柄な人物は人混みを避け、領主館の裏手へと回り込む。厨房へと繋がる勝手口に辿り着くと、コンコンコン、と控えめなノックの音を立てた。
カチャリ、と僅かに開いた戸の隙間から、鋭い眼光を飛ばす少女が顔を覗かせる。金髪のドリルツインテールが印象的な少女、エリカだ。
彼女は、冷徹なまでの声音で問いを投げかけた。
「きのこの山、たけのこの里、……あともう一つは?」
その奇妙な問いに、黒尽くめの人物は一瞬怯み、絞り出すように答える。
「す、すぎのこ村……」
「よし! 入っていいわよ」
「は、はい。失礼します……」
裏戸をくぐり、ようやく安堵の吐息を漏らしたのは、共和国諜報機関のエージェント。コードネーム「M」と仮称されるハーフリングであった。
「というか、エリカ殿……なんなんです? この意味不明な符牒は?」
恨みがましいMの視線に、エリカはなんとなく不機嫌そうに顔を背けた。
「あたしだって知らないわよ! ラルフが決めたことなんだから……」
ラルフの前世における、「お菓子三兄弟」のうちの、不遇な末弟の悲哀など、この世界の住人である二人が知る由もなかった。
厨房では、なぜか主であるラルフが山のようなオニギリを握っていた。
「おや? M、いらっしゃい。どうでした? コール・ディッキンソンの足取りは……」
「ふむっ、……やはりと言えばいいかな。強制送還された後、忽然と姿を消したよ。まさか、我々の尾行を完全に巻くとはな……。議員の中にも、強力な協力者がいるのは間違いないのだが……」
苦々しい表情で、Mは従業員用の席に着く。
「まあ、そんなこったろうとは、思っていたよ……。さて、どう出るか? だな……」
ラルフは独りごちながら、皿に載せたオニギリを差し出した。
「えっ?! 酸っぱ! ビックリしたぁ! えぇぇ?! 酸っぱ!! これ、味、合ってます?!」
差し出された「梅干しのオニギリ」を口にした途端、Mは目を白黒させて悶絶した。この世界の住人にとって、梅干しの刺激はあまりにレベルが高すぎたらしい。慌ててお茶を喉に流し込み、口内の酸味を洗い流していた。
すると、再び勝手口からコンコンコンとノックの音が響く。
エリカがタッタッタと小走りに駆け寄り、隙間から外を覗き見た。
そして、
「……キム?」
「ヨン」
「ジャ」
「……よしっ。入っていいわよ……」
現れたのは、冒険者ギルドマスターのヒューズ、そしてファウスティン・ド・ノアレイン公爵だった。
そのやり取りを呆然と見ていたMは、ついに堪えきれずに叫んだ。
「ちょっとぉぉぉぉ! ラルフ殿ぉ、その謎の符牒って何種類あるんですかぁぁぁ?! 何一つ、意味がわからないんですけどぉぉぉぉぉ?!!」
そんなMの混乱を他所に、ファウスティン公爵はその黒尽くめの装束を物珍しそうに見下ろす。
「お? 共和国のスパイの長殿は、ブルース・ブラザーズでもやるのか?」
「アァぁぁぁぁぁ……もう意味がわからない! 本当に、何一つ意味がわからないよぉぉぉぉぉぉ!!!」
頭を抱え、混乱の極みに達するM。
ラルフは振り返り、自慢げに口を開いた。
「やっぱり、スパイといえば、そういう格好かなぁと。仕立屋にオーダーメイドで作らせたんですよ! 結構、高かったんですけどね……」
ラルフの謎の美学と拘りに、Mのツッコミが炸裂する。
「この格好、すっっっっごい目立って恥ずかしかったんですからねぇ!! えっ?! 高かったって、コレいくらしたんですか?!」
「総額で、金貨二十枚!」
「たっけぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
絶叫するしかないM。もはや、自分が何のためにロートシュタインに潜伏していたのか、本来の職務すら遠のいていく感覚に陥る。
「ファウストさんと、ヒューズも、お昼まだでしょ? 食べる?」
勧められるまま、公爵はドカリと席に着いた。
「ふむ。俺は、シャケと昆布をくれ」
「俺は、ツナマヨを」
ヒューズも続き、それぞれ好みのオニギリを頬張りながら、遅めの昼食が始まった。
「やはり。コールは、僕を狙ってくるんですかねぇ?」
豚汁をかき混ぜながら呟くラルフの声は、どこか他人事のように平坦で、感情が欠落していた。
「だろうなぁ。近々、ウチの領兵もここロートシュタインへ派遣する。守りは厳重にしておいた方がいい……」
ファウスティンは頬に米粒をつけたまま、真面目な面持ちで提言する。
「しかし。彼の手の者が入領してきても、今は把握は困難ですぜ。何せ、デューゼンバーグ伯爵家の別荘建設に合わせて、人夫や建材の搬入が始まってますから。また人が増えている……」
ヒューズの報告に、ラルフは「ん〜、そうか……」と適当に相槌を打った。
だが、その頭の片隅で、拭い去れない違和感が鎌首をもたげる。
「ん? デューゼンバーグ伯爵家別邸は、ロートシュタインのトレント材で建設する予定じゃなかったか? なあ、エリカ?」
話を振られたエリカも、眉間に皺を寄せて答える。
「そのはずよ。お母様が拘って木材から選定していたし。……何より、人夫って……。裏にあるツリーハウスを建てたドワーフたちに建設は依頼する手筈だし。そのはず……なんだけど……」
二人の中に、言いようのない不気味な違和感が膨らんでいく。
「……は? いや、どういうことだ? 数日前から、大量の馬車が積み荷と共にロートシュタインに来ているんだぞ?」
ヒューズの怪訝な言葉を遮るように、ラルフが静かに問いを重ねる。
「……その人たちは、何処から来たと、言っているんだ?」
「聖教国からだと……」
ラルフは深く、深く、吐き出すような溜め息をついた。
「なるほど、な……。コールめ。革命から日が浅い、聖教国からのルートを選んだか……」
最悪の予感が、現実を侵食する。
バンっ! と、領主館の表扉が乱暴に開かれる音が響き、直後、遠くから低い爆裂音が空気を震わせた。
「伝令! 伝令です!!」
駆け込んできたのは、一人の若い領兵だった。彼は声を嗄らし、最悪の報告を叫ぶ。
「報告……っ、申し上げます! 市街区に、突如として魔導機械化兵器が多数出現! 現在、領兵と駐屯騎士団が交戦中! ……しかし、防御魔法も重装盾も、奴の熱線の前では歯が立ちません! 閣下! 状況は、最悪です!! ……敵機が中央広場を突破するのは時間の問題です。……奴ら、敵は、……ここ、領主館に向け、侵攻中です――!!!」
「死傷者は?!!」
冷徹な、しかし激情を孕んだラルフの声が飛ぶ。
「はっ! 申し訳ございません。現時点では、……不明です――」
ラルフは怒りのあまり歯軋りをし、テーブルを叩きつけそうになる拳をぐっと堪えた。
「……まさか、こんなことが……」
「バカな?! こんなに早く、しかもテロだと? ……こんなことが許されるかっ!!!」
愕然とするヒューズと、激昂するファウスティン。
そこへ、さらにもう一人の領兵が血相を変えて駆け込んできた。
その報告は、ラルフの理性を断ち切るに十分な、最悪の凶報だった。
「報告! 領直轄の孤児院が強襲されました! 幼き子供たちは一人残らず、賊の手に落ちております!
この非道なる凶行の首謀者……コール・ディッキンソンと名乗る男が、人質の命を引き換えに、ラルフ閣下との対面を要求。繰り返します! ……コール・ディッキンソンの要求は、ラルフ閣下を“ここに呼べ”とのことです……」
「あ、あの……、クソがぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
激情が爆発した。
無意識に発動した身体強化魔法の余波で、ラルフが殴りつけたテーブルが無惨に粉砕される。
この時間、孤児院には――、
ミンネとハルもいたはずなのだ。




