339.新米店員の一日
諜報員、ヨランダ・カームの朝は、意外なほどに遅い。
それは、このロートシュタイン領に潜伏——いや、「居酒屋領主館」に匿ってもらっている、ある一日の風景だ。
彼女の目覚めは、地下牢の中。
しかし、決して囚われの身というわけではない。領主ラルフ・ドーソンに「空いてる客間を好きに使って」と言われたものの、過分なもてなしへの申し訳なさが勝り、自らここを寝床に選んだのだ。当然、鉄格子に鍵はかかっておらず、出入りは自由である。
流石にそれを不憫に思ったラルフの手によって、今やそこにはふかふかの豪華なベッドと簡易デスク、そして数冊の本が運び込まれていた。いつの間にか、そこは「地下牢」という体裁を保った立派な自室となっていた。
薄暗い通路の対面には、もう一つの牢獄。そこにはコール・ディッキンソンとその取り巻きたちが、死屍累々の如く雑魚寝し、酒臭い鼾を漏らしていた。
昨晩も、ラルフが差し入れた「囚人らしからぬ超豪華な中華フルコース」を貪り、大量の蒸留酒を酌み交わしたのだろう。
政治思想なのか社会不満なのか、ありとあらゆる呪詛を吐き散らしていた彼ら。
あの亡国の王子殿下は、相も変わらず、自らの身の上がただただ時勢の成り行き故の不幸であると信じて疑わない。
ヨランダはベッドから起き上がり、昨晩読み耽るうちに寝落ちしてしまった『殲滅の魔導士』をデスクに置いた。
ロートシュタイン出版の孤児たちが執筆・編集したというその本は、ラルフがあの大戦に臨んでいく姿を描いた、ノンフィクションとも言える一冊だった。
鉄格子の向こうから響く鼾を背に、彼女は階段を上がる。
窓から差し込む眩しい光に、思わず目を細めた。庭園に僅かに融け残った雪が、冬の陽を鋭く反射させている。
(やっぱり、ちょっと寝すぎたかな……)
僅かな罪悪感がこみ上げるが、ラルフからは「遅番をやってくれるなら、全然昼過ぎまで寝ていていいよ!」と言われている。その言葉に甘えてしまう自分に、苦笑いするしかなかった。
静かな一階ホール。
大時計の針は、午前九時を少し過ぎていた。
夜になれば「居酒屋領主館」の客席となるこの場所で、無表情なメイド、アンナが食事を摂っていた。
朝礼を終え、領主が執務を開始したばかりのこの僅かな時間が、彼女にとっての貴重な休息なのだろう。おそらく、この屋敷で一番の働き者は彼女だ。ヨランダはそう確信していた。
アンナが、その無機質な眼光をヨランダへ向けた。
「おはようございます。貴女もいかがですか? ハルさんの作ったパンケーキもありますし、エリカ様のカレーもありますよ」
静かな提案。しかし、ヨランダは反射的に遠慮してしまう。
「あ、あ、はい! ありがたいお言葉なのですが……その、私、別に朝は食べなくても平気なので」
「朝食は健康上、そして充実感ある生き方には不可欠だと、旦那様も仰っておられます。それに、一日三食はここの従業員にとっての『福利厚生』ですので。遠慮することはありませんよ」
アンナの言葉には、まるで「食え」と言わんばかりの静かな迫力が湛えられていた。
「あ、はい……。では、パンケーキを頂きます」
ヨランダが折れると、アンナは無言でカウンターの上を示した。そこには山盛りのパンケーキと、色鮮やかなイチゴやオレンジ。勝手にとって食え、ということらしい。
ヨランダは半ば諦めるように皿を手に取り、パンケーキを二枚、そこにイチゴ二つとオレンジを一欠片添えた。
「いただきます……」
席につき、その糧を口にする。
孤児であり、獣人族のハルが焼いたパンケーキは、驚くほどふんわりとしていた。まるで彼女の柔らかな毛並みを彷彿とさせる食感。メイプルシロップとバターがじゅわりと染みたそれは、頬が落ちるほどに美味しかった。
午前十時。
甘いカフェオレで人心地ついた後、外に出てみると、そこには巨大な赤鱗のワイバーンが鎮座していた。ラルフのペット、レッドフォードだ。
その背に跨るのは、歴戦の竜騎兵のごとき威厳を纏った貴婦人、リネア・デューゼンバーグ。
「じゃあ、行ってくるわねー! エリカ! 夕方には戻るから」
「いってらっしゃーい!」
芝生の上でハンカチを振る娘のエリカ。
レッドフォードがその堅牢な翼をブワリと振り下ろすと、リネアの後ろに同乗していた二人の聖女が、強烈なテイクオフの衝撃に絶叫を上げた。
「ぎゃあああああああああ!!!」
空の彼方へ消えていく三人と一頭を、地上に残されたエリカが冷ややかに見送る。
「まったく。あの二人ときたら、高所恐怖症なら無理に空輸業務なんて引き受けなきゃいいのにね」
「は、はぁ……」
ヨランダは生返事を返すのが精一杯だった。
あの聖女様方は、どうにも俗っぽく、金銭欲の塊のような人たちだ。日々この居酒屋で飲み食いする日銭と、新型魔導車への物欲を解放している彼女たちを見ていると、信仰の不可思議さを感じずにはいられない。
午前十一時。
エリカと、ペットのオオカミの魔獣とフリスビーをして遊ぶ。
フォレストウルフが街中にいるなど信じがたい光景だが、それは純粋に楽しく、子狼たちはひたすらに可愛かった。
正午。昼時だ。
執務を終えたラルフが二階から降りてきて、子狼たちを撫で回していたエリカとヨランダに声をかける。
「お~い! お前ら、チャーハン作るけど、食べるかぁ?」
驚くべきことに、この若き領主は自ら包丁を握る。居酒屋店主として毎晩カウンターに立つ、筋金入りの変わり者だ。
「ふん! たまにはカレーチャーハンじゃなくて、スタンダードなのも食べておきたいわね!」
エリカの不遜な物言いを笑い飛ばし、振る舞われたチャーハンは、文句なしに絶品だった。
添えられた琥珀色のスープには輪切りのネギが揺蕩い、質素な見た目ながら、無限に飲めてしまいそうな深い味わいがある。
(なんで、こんなに美味しいんだろう……?)
まるで魔法だと思った。このスープだけでもおかわりをしたい誘惑に駆られたが、あまりに厚かましいかと思い、なんとか我慢した。
十三時。
自室である地下牢に戻り、読書の続き。
ベッドに寝転び、『殲滅の魔導士』のページを捲る。
そこには、大魔導士としての責務に苦悩し、戦場へ赴くラルフ・ドーソンの脆さと葛藤が描かれていた。
共和国の諜報員として、彼の逸話は情報として知っていたつもりだった。しかし、活字を通して触れる彼の姿は、あまりに生々しく、そして美しかった。
深く感情移入していると、鉄格子の向こうから、不躾な声が思考を遮った。
「おい! お前、共和国の間者なんだってな? どうだ、脱獄を手伝わんか? 金ならいくらでも払う」
コール・ディッキンソンの卑屈な買収工作。
ヨランダは何も答えず、ただ静かに本を閉じた。そして立ち上がり、暗く湿った牢獄を後にする。
「おい! 聞いているのか!? 貴様は共和国の手先なのだろう!?」
縋り付くような喚き声を背中で聞き流しながら、ヨランダは思う。
(本当、付き合ってらんない……)
なぜ、これほどまでに心が荒むのか。自分でもその理由が分からなかった。
十四時。
食べて寝てばかりでは身体が鈍る。彼女は走り込みをすることにした。
前庭に出ると、ラルフが七輪でスルメを焼きながら、グレン子爵や"ヴラドおじさん"こと国王と、野外飲み会に興じていた。
「ん? ヨランダ。ジョギングか?」
ぐい呑みを手に持ち、熱燗でほんのり顔を赤らめたラルフが問う。
「はい。少しでも身体をイジメておかないと、ここでの食事はついつい進んでしまうので」
「いや~、流石はプロのスパイ! 意識高ぇな~」
感心したような言葉に、ヨランダは悪い気はしなかった。
「共和国を抜けるのなら、儂が雇おうか?」
と、ヴラドおじさんが、とんでもない勧誘をしてきた。
しかし、それは自分如きでは、あまりにも巨大な政治策略に身を投じそうで、さすがに保留するしかなかった。
目抜き通りを抜け、市場を駆け抜けると、冷たい冬の空気の中でさえ、じんわりと汗が滲む。
やはり身体を動かすのは好きだ。
(今度、リネア様も誘ってみようか……)
歳の離れた、愉快な同僚兼、飲み仲間。彼女にはどこか母親のような親愛を感じていた。
なんだか、お腹のお肉を気にしながら食事をしている彼女を、ダイエットの最適解へ導いてあげたいと思えてならない。
「おー! ヨランダちゃん! 精が出るなぁ! そーら、持ってけ!」
屋台の主人がリンゴを投げる。凄腕の諜報員としての身体は、淀みなくそれをキャッチした。
「ありがとう! オジサマ! また今夜ねー!」
後ろ向きに走りながら手を振る。
彼もまた、新米給仕の自分にチップを弾んでくれる、居酒屋領主館の常連客だ。
――今夜、またあの気のいい客たちに会える。
そう思うと、今まで経験したことのないワクワクが溢れ、自然と頬が緩んだ。
石造りの階段を駆け下り、地下街へ。
中央に鎮座するシャロン像の下で、彼女は足を止め、息を整える。
汗に濡れた身体で、ラルフから教わった"謎の雄叫び"を上げることにした。
「エイドリア〜ン!!!」
両腕を天に突き上げる。
(うるせーよ!! エイドリアンって、誰だよ?!)
と、シャロン像の中に封印された悪魔がブチ切れるが、
エイドリアンが何者なのか、誰にとっても謎だった……。
十七時。
メイド服に着替えたヨランダは、大鏡の前で前髪を整える。
これから始まるのは、刃も魔導兵器も役に立たない、笑顔と愛嬌がすべての「戦場」だ。
メニューは完璧に覚えた。客一人一人の名前も、好みの酒も、すべて頭に叩き込んである。諜報員としての暗記法をもってすれば、造作もないことだ。
十八時。
とびきりの笑顔で武装したヨランダが、居酒屋ホールという名の"戦場"へ飛び出していく。
「いらっしゃいませ〜! 居酒屋領主館へ、ようこそ!!」




