338.夜更かし定食慕情
ロートシュタイン領の沖合、寒風に洗われる岩島の地下には、静謐な魔の回廊が広がっている。
「釣り人の聖地」という長閑な二つ名を持つこの島だが、その胎内に抱くダンジョンは「骨折り損のくたびれ儲け」と冒険者たちに揶揄される、不人気な迷宮だった。
しかし、その最下層エリア——常人ならば正気を保つことすら危うい深淵に、一人の少女が隠棲していることを知る者は、王国広しといえども領主ラルフ・ドーソンを含めた数名に過ぎない。
そこは、国家の存亡にも関わる、絶対不可侵の最重要機密事項だった。
二つの月が中天を過ぎ、地上の喧騒が寝静まった深夜。
ダンジョン・マスター——スズは、薄暗い格納庫の中で、彼女にとっての「生」そのものである壮大な趣味に没頭していた。
「……むぅ……。計算通りにいかない。この総質量を浮揚相殺させるには、あと1,300GW分の出力が足りない」
眉間に皺を寄せ、スズは空間に浮かぶ魔導計算盤を睨みつける。
「不足分を補うために予備スラスターを増設すれば、それ自体の自重でまたペイロードを圧迫する……。せっかくナノ・コンポジット材まで導入して、限界まで軽量化を突き詰めたのに。……やっぱり、動力源を魔導融合炉に戻すべき? ……ううん、ダメ。それでは比推力は稼げても、炉自体の質量で出力重量比が崩壊しちゃう。あちらを立てれば、こちらが立たず。むぅ、完璧な堂々巡り……」
独り言を漏らしながら、彼女は油の染みた計器類を指先で弾く。
そこは、迷宮というよりは、高度文明の残滓が集積したような異様な光景だった。
広大な格納庫の主役は、中央に鎮座する巨大な鉄のゴーレム。
それは、剣と魔法のこの世界において「異形」以外の何物でもなかった。
これは戦争の準備ではない。世界征服の野望でもない。ただの、あまりに巨大な「個人の趣味」だ。
ゴーレム生成のエキスパートとして転生した彼女にとって、物理法則の壁に挑むことこそが、前世から持ち越した業だった。
この試作機は、"高度研究開発用・汎用航空多次元試作機"。
英語では、――General-purpose Aerial Scale Prototype for Advanced Research and Development.
各単語の頭文字を繋げた仮称は——『G.A.S.P.A.R.D.(ガスパール)』。
・全高:32m
・重量:36t
未だ塗装を施していない鈍色の筐体は、ただ静かに、空を舞う夢を見ている。
「う〜ん……。やっぱり、ミノフスキークラフト……。って、そもそもミノフスキー粒子なんてこの世界にあるのかしら? ……いいえ、魔素の密度を偏向させて代用できれば……もしかしたら!」
深い思索の沼に沈み、彼女はふと、協力者の顔を思い浮かべた。
(……やはり、ラルフに相談すべき)
王国屈指の魔導士であるラルフ・ドーソンならば、この出力不足を解消する術を知っているかもしれない。
彼の顔を思い出すと、セットメニューのように彼が経営する「居酒屋領主館」の温かな灯りと喧騒が脳裏をよぎった。
作業台の時計に目を向け、スズは息を呑む。
「あ……。うそ、もう、こんな時間……」
集中という名の深海に潜りすぎたらしい。
夜はすでに深淵を越え、居酒屋領主館はとっくに閉店時間を過ぎているはずだった。
だが、一度芽生えた"感覚的空腹感"は、亜神に近い彼女の肉体すらも侵食していく。
亜神であるなら、栄養補給は不要だ。
しかし、心が何かを咀嚼し、温もりを嚥下することを求めていた。
スズは秘密の裏口へと続く転移陣を踏み、夜の街へと身を投じた。
領主館の地下、転移の光が収束する。
階段を駆け上がると、ホールには微かな魔導灯の残光と、酔客たちの不規則な寝息が満ちていた。
「んがぁっ!」
唐突な叫び声に足を止めると、ベンチで毛布にくるまったエルフのミュリエルが、夢の中から寝言を吠えた。
「ストゼロってのはぁ……ストレスゼロのことなんだてぇ……。アッハッハッハ……ぐがぁ~」
アルコール度数9%の魔力に脳を焼かれた哀れなエルフ。
スズは呆れ半分、慈しみ半分でその寝顔を一瞥する。
悪意を知らぬこのエルフの賑やかさは、孤独な迷宮で生きるスズにとって、案外心地よい「現世」の象徴だった。
冷え込む夜気に背中を丸め、スズは表通りへ飛び出した。
路肩に雪が残る目抜き通りを抜け、地下街へと続く階段を滑り降りる。
地下一階、広場で静止するシャロン像へ、無造作に手を挙げた。
(おいっす!)
『おいーっす……。って、なんなんだよ、その挨拶は!?』
像の中に封じられた悪魔のツッコミを背中で聞き流しながら、彼女はさらに深層へ。
地下二階の最奥。
そこには、小さな、あまりに小さな灯火があった。
立て看板には『本日の定食:焼き鯖定食』の文字。
引き戸を開けると、温かな出汁の香りが鼻腔をくすぐる。
「たのもー」
「あらっ? 黒装束の嬢さん。いらっしゃい!」
初老の女店主が、枯れた、けれど温かい笑みで迎えてくれる。
スズは無言で頷き、まだ新しいトレント材のカウンター席に腰を下ろした。
「玉子焼きは、甘いヤツがいい」
「ハイハイ、すぐ焼くわね」
この店にメニューはない。
一期一会の定食があるのみ。
ただ、副菜の玉子焼きの味付けだけが、彼女に残されたささやかな我が儘だった。
元冒険者だという女店主は、冒険者ギルドでの早朝のクエスト争奪戦に疲れ、自分のペースで生きるためにこの深夜営業の店を開いたという。
「お客さん、こんな時間に来るの?」
とスズが聞くと。
「お嬢さんが来てくれたじゃない!」
と店主が笑う。
確かにそのとおりだ。と、スズは納得するしかない。
しかし、
「明るいうちに営業した方が、もっと稼げる」
「イヤだよぉ、忙しいのは嫌いなんだ」
「そんな人が、お店やってるの、変……」
「ねぇ〜。私もそう思う! けど、貴族様たちから融資を受けちゃってね、運が良かったのよ」
そう笑う店主と、スズはそれ以上の深い話をしない。
互いの名前すら知らない。
けれど、この真夜中に交わされる適度な距離感の言葉こそが、スズの心を解きほぐしていく。
「はい! お待たせ。本日の定食ですよ」
目の前に並ぶ、至高の一汁三菜。
脂の乗った大きな焼き鯖、ほうれん草の胡麻和え、そして黄金色の甘い玉子焼き。
「いただきます……」
箸を取り、まずは味噌汁を啜る。
ブンタの豆腐に、ミュリエルの味噌。知った顔が丹精込めた食材たちが、お椀の中で優しく調和している。
玉子焼きの卵はセスの農家から、鯖は荒波を知るシャーク・ハンターズから。
かつては偏食で、食事をただの義務だと思っていた前世の記憶が遠のいていく。
このロートシュタインに集う者たちの熱量が、一皿の料理となって自分の中に溶け込んでいく。
鯖の身をほぐし、白飯に乗せて一口。その滋味深さに目を細めていると、背後で戸が開く音がした。
「いらっしゃいませ!」
新たな客が、スズの隣に腰を下ろす。
箸をくわえたまま横目でそちらを窺うと、そこには見慣れた、けれどこの場所には不釣り合いな男の横顔があった。
「まさか、お前もこの店を知っているとはな……」
独り言のように呟いたのは、ラルフ・ドーソンだった。
「どうしたの? こんな夜更けに」
「……いや、それはこちらの台詞なんだがな。なぜお前がこんな夜更けに出歩いている?」
ラルフは苦笑を滲ませ、横目でスズを射抜く。
スズは崩した鯖の身に卓上の醤油をさっとかけ、不遜に、けれどどこか誇らしげに言い放った。
「貴方が常々言ってること……『好きに生きろ』って。だから、私も好きに生きてる。それだけ」
ラルフは呆れたように一つため息をつき、店主へ「同じものを」と注文した。
それぞれが、人には言えぬ重責を背負い、人には見せぬ孤独を抱えて生きている。
けれど、この夜の底、隠れた名店の灯火の下で、同じ飯を食う。
そんな些細な、けれど決定的な共有こそが、明日もまた「好きに生きる」ための確かな糧となるのだ。
と……そんな、高尚な事を考えてしまったラルフだが、
……浅い酔いの徒然なるまま、そんな夜更けにかき込む定食が、それはそれで美味いのだ!!
と、牢獄に囚えっぱなしの亡国の王子の処遇はどうするべきか? という、領主として極めて頭の痛い問題から、現実逃避するのだった。




