337.親子丼の絆
「よーし! いつでもいいぞ。思いっきりやってくれ!」
いつもの喧騒が渦巻く居酒屋領主館。その中心で、ラルフは不敵な笑みを浮かべ、悠然と身構えていた。
対峙するのは、冒険者ギルドのマスター、ヒューズ。その右手に握られたナイフの鈍い銀光が、店内の灯火を反射して怪しく煌めく。
「本当にいいんですかい? 手加減なんて、土台無理な相談ですよ」
「大丈夫だって! いいか、ヨランダ。よく見ておけよ」
ラルフが促したのは、新米店員として給仕に勤しむヨランダだ。しかし、その正体は共和国から放たれた「目」、すなわち諜報員である。彼女は、ラルフの無謀とも思える言葉に、困惑を隠せないまま「は、はい!」と短く応じた。
「そんじゃあ、いきますよっと!」
ヒューズの手の中でナイフが一度、軽やかに宙を舞った。刃を握り直した刹那、空気を鋭く引き裂く断裂音が響く。投擲された鋼の切っ先が、一直線にラルフへと吸い込まれていく。
「ふぉぉぉぉぉ!!!」
「きゃああああああ!!!」
野卑な歓声と絹を裂くような悲鳴が、重奏となって店内に満ちる。それは、この酒場に集う者たちにとって、日常を彩る最高級の余興であった。
「忍法・変わり身の術!」
ラルフの叫びが響いた次の瞬間、鈍い衝撃音が響いた。確かに彼の額にナイフが深々と突き刺さった――そう見えた視界が、瞬時に裏切られる。
カラン、コロン。
乾いた音を立てて床を転がったのは、血を流す肉体ではなく、魔獣トレントの無機質な丸太であった。
「おぉ! 相変わらず、鮮やかだなぁ!」
「……んん? でもよ、いつも思うんだが、これって本当に『魔法』なのか?」
客たちの間に、感嘆と疑念が混じり合ったざわめきが広がる。当代随一の大魔導士と謳われるラルフの魔術は、あまりに独創的で、時に理を置き去りにするほどに謎めいているのだ。
「まあ、こんな感じだよ。何度かやれば、そのうち慣れるさ」
いつの間にか、ラルフは平然とテーブル席に陣取っていた。指先でカキピーを「パリポリ」と軽快に鳴らし、まるで他人事のように微笑んでいる。
「いや、あの! 全然、できる気がしないのですがっ?!」
ヨランダのツッコミは、もはや悲鳴に近かった。共和国の暗部で、人知を超えた過酷な訓練を積んできた彼女の目を以てしても、目の前の事象は理解の範疇を超越していた。
「いやぁ、だって君、母国の暗部に狙われてるかもなんでしょ? ある程度の自己防衛は身につけておいてもらわないと、僕も心配なんだよ」
「……それを、本当に『基礎魔力』だけで発動できると仰るのですか!? 構造的にどう見ても上級魔法でしょうに!」
「大丈夫だって。僕が書いたあの論文を読めば、あとはコツを掴むだけなんだから」
「あの論文、六百ページもあるんですよ!? まだ序文すら読み終わっていませんけどっ!」
「まあまあ、案ずるより産むが易し。諜報部の精鋭だったんだろう?」
「む。むう……」
その言葉は、ヨランダの胸の奥にある矜持を、静かに、しかし確実に刺激した。彼女の瞳に、微かな負けん気の炎が灯る。
「そんじゃあ、いくぞ?」
ヒューズが再びナイフを構える。
ヨランダは、その手元を凝視した。額には、冷たい汗が一筋、真珠のように滴り落ちる。集中が極限に達しようとした、
その時。
「不意打ちへの対処も、実戦では不可欠かと存じます」
氷のような無機質な声の主は、メイドのアンナであった。
「へっ?」
理解が追いつくよりも早く、ヨランダの額に鋭い衝撃が走った。
サクッ。
心地よいほどに軽やかな音が、彼女の意識を現実から切り離す。
アンナは、投擲を終えた後の美しい残心を保ち、微動だにせず立っていた。
バタリ、と。
ヨランダは、見事なまでに仰向けに倒れ伏した。その額には、無慈悲にもステーキナイフが突き立っている。
「ちょっとぉぉぉ!? アンナ! また何してんのぉぉぉぉ!!!」
ラルフの絶叫が木霊する。
その心中では、アンナのナイフ捌きが、歴戦の冒険者であるヒューズを凌駕していた事実に戦慄を覚えていた。
狂騒の「護身術伝授」は一時中断となり、ヨランダはラルフの治癒魔法によって再び現世へと引き戻された。
そして訪れたのは、この店で働く者だけが許される至福の刻――賄いの時間である。
「よーし。ヨランダ、腹減ったろ? ……だいぶ、血も失ったみたいだしな」
カウンター越しにかけられたラルフの声は、先ほどまでのふざけた調子とは異なり、どこか柔らかな温度を帯びていた。
ヨランダが席に着くと、隣には同じく休憩に入ったリネア・デューゼンバーグ伯爵夫人が、優雅にメイド服を翻して腰を下ろした。二人は、言葉を交わさず、ただ静かに視線を結ぶ。
「今日のオススメは親子丼でーす! 甘いよぉ!」
孤児のミンネが、弾けるような笑顔で声を張り上げる。
制御不能の、全自動タマゴ割り機が生み出した過剰な卵液と、セスの農家が育て上げた魔獣「コロントロ」の肉。それらが邂逅して生まれた、至高の丼物。
「あ、甘いの? じゃあ、それで……」
「……ぐっ。甘いはカロリー。でも、鶏肉は、比較的、正義……!」
隣で何やら謎の葛藤を繰り広げている貴婦人の言葉を横目に、ヨランダは調理場を見つめた。
ラルフの手際は、流麗であった。
玉ねぎが薄くスライスされ、艶やかに輝く鶏肉が切り分けられる。浅い片手鍋から立ち昇るのは、出汁の芳醇な香りと、醤油と砂糖が織りなす甘じょっぱい誘惑の香り。ヨランダは思わず、ごくりと喉を鳴らした。
「はいよ。今日の賄い、親子丼。お待たせ」
目の前に置かれたそれは、琥珀色の卵が肉を優しく抱擁し、湯気の向こうでキラキラと輝いていた。
「う、うわぁ……! いい匂い……!」
「いただきます」
リネアが厳かに唱え、猛然と箸を動かし始める。それはこの店における、聖なる儀礼。ヨランダもそれに倣い、小さく「いただきます」と零した。
木の匙で掬い上げ、口に運ぶ。
(甘い……。こ、これは?! なんて、美味しいの……っ)
舌の上で解ける卵の優しさと、噛み締めるほどに溢れる肉の旨味。
その刹那、彼女の脳裏に、遠い日の情景が鮮やかに蘇った。それは、今は亡き母が作ってくれた、質素な鶏のスープの記憶。
『どう? ヨランダ。今日のスープは……?』
母の、どこか不安げな、震える声。
しかし、幼かった彼女は、その献身を知る由もなかった。
『……美味しくない。お肉、硬いもん』
『……ごめんね。ごめんね、ヨランダ。明日はもっと美味しく作れるよう、お母さん頑張るからね』
悲哀を見せず、どこまでも屈託なく笑っていた母の顔。
大人になり、冷徹な世界を知った今ならわかる。父を亡くし、困窮を極めていた我が家で、安価な、年老いた硬い鶏肉を買い与えるのが精一杯の愛情だったのだ。
そんな生活を呪い、彼女は軍へ志願した。
心配する母を振り切り、これで這い上がれると信じて。しかし、彼女が「共和国の影」としての頭角を現した頃、母は静かに、この世を去った。
何不自由ない暮らしをさせてやるという誓いは、永遠に果たされることのない欠片となった。
喪失感の泥濘に沈みかけていた彼女に、ふと、唐突にリネアの声が届く。
「この親子丼、美味しいわね!」
「あっ、ねぇ! 美味しいね、お母さん!! って、……あ、あああ……っ! す、す、すみません! その、つい……」
思わず口を突いて出た言葉に、ヨランダは凍りついた。羞恥が瞬時に沸騰し、顔を林檎のように赤く染める。
「あら? 私は貴女のお母様に、似ているのかしら?」
リネアが、悪戯っぽく、しかし慈しむような眼差しを向ける。
「あ、あの、いえ、そういうわけでは……っ」
膝の上で拳を握りしめるヨランダ。
しかし、隣から漂うリネアの香りは、花の芳香の中に微かなスパイスが混じり、どこか懐かしい「母」の匂いを想起させた。
気づけば、何故か、とめどなく涙が溢れ、視界を滲ませていた。
そんな彼女の様子に、リネアは何も言わず、ただ優しく、ポンポンと、ヨランダの頭を撫でた。
「ここでは、この居酒屋領主館ではね、皆、家族みたいなものなのよ。血の繋がりなんて、些細なことだわ」
貴族としての気品と、聖母のような慈悲。
その温もりに、ヨランダはしゃくり上げるのを必死に堪え、再び親子丼を口にかき込んだ。
――なんて、妙な場所なのだろう。
職務として、仕方なく来たはずの場所で、失ったはずの温もりを噛み締めている。
「でも貴女は、ちょっと私の娘の、エリカに似ている気がするわ!」
リネアのその言葉に、ふと視線を向けると。
「だから、辛いのが得意なら挑戦しなさいって! 飛ぶわよ!!」
看板娘のエリカが、客に例の「超激辛カレー」を力説し、エキセントリックな笑みを浮かべていた。
"あんなの"と似ているなんて、心外だがな――。
ヨランダは涙を拭い、鼻をすすりながら、ただ目の前の、甘くて温かい丼に没頭するのだった。




