335.クーポンと監視者
騒乱の火種となったコール・ディッキンソンとその取り巻きたちは、領主館の地下牢へと放り込まれた。
「介抱」と呼ぶには些か無粋で、湿り気を帯びた場所ではあったが、これもラルフの聡明な、あるいは現実的な判断の結果だ。こうして物理的に隔離でもしない限り、店に集う血気盛んな常連たちが、彼らにどのような「制裁」を加えるか分かったものではないからだ。
(まあ、客たちにボコボコにされた傷はメイドたちに手当てさせたし、エリカには食事と酒を運ぶよう命じてある。今頃あの地下牢では、不承不承ながらも奇妙な宴が催されていることだろう)
ジョッキの縁を見つめながら、ラルフはそんな光景を幻視する。だが、思考の隅に冷たい澱のような懸念が残っていた。
――いくら亡国の王子とはいえ、一地方都市の領主が独断で捕縛して良かったものだろうか。
しかし、ここは「居酒屋領主館」。
各国の重鎮たちが身分を隠しもせず、ただの酔客として肩を並べる特異点だ。法よりも先に、まずは「生きた情報」を拾うのがこの場所の流儀である。
「皆さーん! 旧カドス国の、元王族のお家事情に詳しい方はいませんか〜? 有益な情報には、謝礼として特製クーポン券を差し上げます!」
ラルフの声が、喧騒の満ちる店内の隅々にまで響き渡った。
数秒後、ラルフの座るテーブルには、地鳴りのような足音とともに数十人の客達が殺到していた。椅子は瞬く間に埋まり、溢れた人々はまるで大道芸を囲む群衆のように、立ったままこの即席の情報提供会に加わろうとしている。
(いや、話が早すぎるだろ……おい!)
たじろぐラルフだったが、無理もない。ここは列強諸国の中枢に近い怪物たちが、酒の肴に機密を語らう異常な酒場なのだ。
「はいはい、二種類あるから好きな方を一枚ずつ持っていって」
ラルフがクーポンを配り始めると、場は一気に色めき立った。
「おお!! こっちはビール飲み放題だぞ!」
「なんと! 今日は朝まで麦酒の海に溺れられるというわけか!」
「見て、こっちは新作スイーツ食べ放題よ! 信じられない……」
大袈裟なほどに歓喜する大人たち。
ラルフの思い付きが生んだ紙切れは、彼らにとって王国の勲章よりも価値があるようだった。
「さて、本題だ。僕の元同級生、コール・ディッキンソンについて。アイツ、最近は何をしてるの? 今の正確な立場は?」
ラルフが視線を投げると、一人の男が鋭く手を挙げた。共和国の参事会議員、ティボーである。
「はい、ティボーさん。お願いします」
「彼の現在の肩書きは、国立『カドス歴史資料館』の名誉館長です」
「はあ? 歴史資料館? アイツが?」
ラルフは露骨に顔を歪めた。
「間違いありませんよ。……ラルフ様、何か?」
「あ、いや……あいつ、学生時代は赤点の常連で、勉強なんて大嫌いだったはずなんだが。そんなアカデミックな職に就いているとはね」
すると、隣で赤ワインのグラスを揺らし、その芳醇な香りに目を細めていた優男――共和国通商会議の論客、ワン・ハンセンが、残酷な真実を淡々と告げた。
「単なるお飾りの役職さ。実務権限など欠片も与えられていない。現に、こうしてフラフラと出歩いているのがその証拠だよ」
場に、冷ややかな沈黙が降りた。
いつの間にかラルフの傍らに立っていたエリカが、得意げに腕を組み、金髪のツインテールを揺らしながら口を開く。
「なるほどね……。カドスを飲み込んだ共和国としては、『自分たちは野蛮な侵略者ではなく、カドスの伝統を慈しむ解放者である』と、国内外にアピールしたい。そのための、生きたマスコットってことね?」
恐るべき洞察力。このチンチクリンな令嬢は、時折こうして物事の本質を射抜く。
「理屈は分かった。でも、なら何であんなに自由なんだ? 監視の一人もいないのか?」
ラルフが首を傾げた、その時だった。
「旦那様。どうやら、監視は『ちゃんと』付いていたようですよ」
無表情なメイド、アンナが、カトラリーセットの中から一本のステーキナイフを、淀みのない動作で抜き取った。
「えっ? 何、どういう――」
ラルフが振り返るよりも早く、アンナの身体がしなやかに翻る。
「ふっ!」
刹那、銀光が空を裂いた。
天井の梁の陰で、肉を穿つ「サクッ」という鈍い音が響き、直後、どさりと重苦しい塊が床に落ちた。
「うおっ!? なんだコイツ!」
「きゃあぁぁぁ! 血が、血が出てるわ!」
悲鳴とともに客たちが割れる。
床に転がったのは、夜の闇を纏ったかのような黒装束の人物だった。
覗き込むと、それは青白い肌の女性だった。
彼女は白目を剥き、その額の真ん中には、ナイフが深々と突き刺さっていた。
「あ、あ、アンナぁ! 何してんの君は!? 《上級治癒》!」
ラルフは慌てて両手から魔法の光を放つ。不審者とはいえ、一切の躊躇なく命を刈り取ろうとした有能メイドの過激さに、内心ドン引きしていた。
「問題ありません。加減はしましたから」
事も無げに言うアンナ。
(いや、どう見ても致命傷だっただろ!)
ラルフは彼女の手元に残った予備のナイフを見た。これを洗って客に出す勇気は、今の彼にはなかった。
「とにかく……傷は塞いだ。すぐに目覚めるだろうから、この人も牢屋へ運んでおいて」
「畏まりました」
アンナは女性の襟首を掴むと、殺人鬼が死体でも運ぶかのように、ずるずると地下へ引きずっていった。
ラルフはふと思い出し、エリカに向き直る。
「そういえば、コールたちの様子はどうだった?」
「ふん。あたしのカレーピラフを、野良犬みたいに貪り食っていたわよ。あのバカ王子、おかわりまで要求して……」
不機嫌そうな報告。だが、それは彼女なりの「毒気のない」観察結果だ。
「そうか、ならいい。酒もじゃんじゃん持っていって、酔い潰してしまえ。また暴れられても面倒だからな」
ラルフの言葉に、エリカはじっとりとした、蔑むような、あるいは呆れたような視線を一瞬だけ向けた。
「まあ、お優しいこと……」
皮肉な呟きを残し、彼女は厨房へと消えていった。
「しかし、まさかあの亡国の王子とラルフ様が、学友であられたとは」
ティボーが驚きを込めて呟く。
「彼は留学生だったんだ。共和国との開戦を機に、卒業を待たずに帰国していった。……あの戦争の後、どうしているかと案じたこともあったが。良くも悪くも、あいつは何も変わっていなかったな」
ラルフの瞳に、セピア色の追憶が浮かぶ。
すると、立ったままビールを呷っていた共和国の商人が、感傷を吐き出すように言った。
「王子の弟君の方は、戦後すぐに共和国の参事会議員に収まりましたからね……。王国に裏切られ、共和国に奪われ、最後には血を分けた弟にまで出し抜かれた。今の彼を突き動かしているのは、煮え滾るような怨嗟だけなのかもしれませんねぇ」
重苦しい空気。ラルフは天井を見上げ、肺の中の澱みを吐き出すように息をついた。もう、飲まずにはいられない。
「ミンネ、すまない。僕にもビールを」
「はーい! ちょっと待っててね!」
ミンネが、クレア王妃たちの席へ次々とスイーツを運びながら、元気に声を返してくる。
「……アイツは昔から、運のない男だった。おまけに、筋金入りのバカだ。上手くいかないのは全部、誰かのせい、環境のせい、生まれのせい。挙句には時代のせいだと。究極の他責思考……。だけど、彼がああなってしまったのは、他でもない……。僕のせい、か……」
誰に聞かせるともなく呟く。
「お兄ちゃん、お待たせ!」
目の前に置かれた、真っ白な泡の帽子を被った黄金色のジョッキ。
「ありがとな」
ミンネの頭を軽く撫で、ラルフは琥珀色の液体を喉に流し込んだ。弾ける炭酸と麦芽の苦味が鼻へ抜ける。
だが、今夜の酒はどうしても、心の奥底まで届かない気がした。
そこへ、再びエリカが姿を現した。
「ラルフ! さっきの女、目を覚ましたわよ。どうする? あたしが拷問して、全部吐かせましょうか?」
さらりと口にされた物騒な提案に、ラルフは顔を引きつらせる。
「お、お前……いったい、何を目指してるんだ? カレー屋の仮面を被った、異端審問官か?」
「ふん! あたしのカレー布教のためなら、それも悪くないわね。……それより、また『ヤバいブツ』を仕入れたのよ。これを試す絶好の機会だと思わない?」
エリカが不敵な笑みを浮かべ、重厚な木箱を恭しく開いた。
そこには、まるで赤子が泣き叫んでいるかのような不気味な皺が寄った、禍々しいまでに真っ赤なトウガラシが鎮座していた。
(こ、コイツ……また妙な劇物を密輸しやがったな!?)
直感した。この事態は、さらなる大騒動へと発展する。
予感は確信へと変わり、やはり今夜は、静かに酔うことさえ許されないようだった。




