306.Wish You Were Here
脳内に微かな鉛の重さを感じながら、ロートシュタイン公爵ラルフは自室で目を覚ました。
鈍く痛む眉間に皺を寄せ、重い瞼をこじ開けるには、いくばくかの精神力を要した。
ほんのわずか、昨夜の余韻が、二日酔いの気配として舌に残っている。真っ白な麻のシーツを巻き上げるように横を向けば、遮光カーテンのわずかな隙間から、ねずみ色の空が覗いていた。
どうやら、天気は曇り。そして、どうにも寝過ごしたらしい。
ラルフは気だるく起き上がり、反射的に、優秀なメイドの名を呼ぶ。
「アンナ……。おはよう……」
しかし、その声は虚しく、豪華な寝室の調度品に吸い込まれるだけだった。
微かに寝ぼけた頭で、ラルフはふと思い出す。
(ああ、そうだった。いないんだった……)
この年納めの日、公爵邸のメイド全員に、心からの暇を出したのだった。それに、今日は領主としての公務も、辟易するような書類仕事も、一切が存在しない。ならば、と、ラルフは二度寝を決行しようとした……。しばし、ベッドの上で所在なく寝返りを打ち、最高級ロックバードの羽毛布団に頭まですっぽりと潜り込んでみた。
だが、それは無意味に、シーツにさらなる皺を作るだけに終わる。ラルフは諦め、冷たい床に降り立った。
長い廊下を歩くと、いつもより数段、ひんやりとした冷気が漂っているように感じられた。心なしか、空間の明度も淡く感じるが、それはこの天気のせいだろう、と、ラルフは納得した。
執務室の扉を開け、いつもの豪奢な執務デスクに腰掛ける。
しかし、またしても、ふと気がつく。
今日は、この場所に座る必要がないということを。
せっかくの年末なのだ。公爵として、ロートシュタイン領主としての全職務を排し、そのための入念な調整をした。そのはずなのに……。
窓を微かに揺らす、冷たい風。
ロートシュタインの街並みは、領民が煮炊きする生活の湯気すら見えない。おそらく、皆、思い思いの祝祭の日々を過ごし、ラルフのように、寝坊を決めている者も多いのだろう。
仕方なく、ラルフは一人、厨房に下りた。
そこには、いつものミンネとハルが、朝食を作る賑やかな姿はなく、冷たい静けさが支配していた。
彼女達も、今日は孤児院で過ごすらしい。聖教国の聖女たちが、神話を語り、祈りを捧げ、菓子を食べる宴を催すと聞いていた。
ラルフは、おぼつかない手つきで魔導コンロに火をつけ、湯を沸かす。濃い目のコーヒーで、カフェオレが飲みたかったからだ。小さなヤカンが沸騰し、まるで熱情的に蓋を揺らし立てても、この広い厨房を暖めてはくれない。
ラルフは食器棚から、先日、元同級生のヴィヴィアン・カスターがクリスマスにプレゼントしてくれた、少し歪なコーヒーマグを取り出した。
「ちょっと、試しに……。そう、試しに、作ってみたのだ。ちょっと不細工だが、良かったら、使ってくれ……」
照れながら視線を彷徨わせ、手渡してきたときの光景が蘇る。
エメラルド色の自然釉の"びいどろ"が、ダイナミックな模様を描く、彼女らしい、少し不器用で、それでいて可愛らしい造形だ。
ラルフは、立ったまま、厨房のカウンターでそれを啜る。カフェオレの温かさだけが、微かに心に沁みる。
壁際に鎮座する大時計は、昼前の時刻を指し示していた。
思い立ち、ラルフは保冷庫を漁る。"陽だまり食堂"の白パン、蒸し鶏、葉野菜、マヨネーズ。さらに、エリカの仕入れであるスパイスを少々拝借する。
いつもの居酒屋領主館の客に提供するにはほど遠い、簡易的、いや、かなり粗雑なサンドイッチを作り、一人咀嚼する。マヨネーズの酸味と黒胡椒の刺激は、なかなかの塩梅だ。
しかし、自分の為だけに作った食事は、どうにも味気なく、虚しかった。
二杯目のカフェオレを淹れ、再び二階へ。
執務室に入ると、書棚を見やる。
並ぶ本を指でなぞりながら、何か読みたいものはないかと目を凝らす。
ここには、本好きの孤児たち、ヨハン、カイリー、ヘンリエッタが執筆・編集した書籍が所狭しと並べられている。
ふと、指が止まる。その背表紙には、『夜の公爵は悪魔を憐れむ』。
お隣の領主、ラルフと同じ公爵であるファウスティン・ド・ノアレイン公爵をモデルにした、退魔伝冒険活劇だ。
この王国でベストセラーとなり、スズやエリカもファウスティン公爵のファンだと知っていた。ラルフは、はじめてそれを読んでみることにした。
執務椅子に座り、ページをめくる。
その物語は、ラルフの知るファウスティンとは似ても似つかぬ、少年の成長と挫折、そして絶望の物語だった。
フィクションがふんだんに盛り込まれているのかもしれない。
しかし、ラルフは、その物語に深く、深く没入していく。
ファウスティンが悪魔の呪いによって妻を失い、絶望の淵で、悪魔を決して赦さぬ最強の退魔師となってゆく過程を追いながら、ラルフは次々とページを繰るしかなかった。
どのくらい時間が経っただろうか。喉の渇きというより、習性のようにマグカップを口に運ぶ。
それは、もう冷たかった。
窓の外を見ると、綿埃のような雲の先に、薄っすらと日が沈みかけている。
なんともまた所在なく、そして、宛もなく。ラルフは一階に降りる。
つまり、なんだか、――暇になってしまった。
領主として、そして居酒屋経営者として、あまりに忙しい日々だった。
だからこそ、今日くらいは一人怠惰に過ごしたい。
そう思って調整した、貴重な休日なのに……。
カフェオレを飲み過ぎたせいか、腹の底に吹き溜まる不快さが、どうにもこの孤独な時間を楽しくさせてくれない。
居酒屋領主館の客席、その一つに、なんとなく腰掛ける。静寂とした空間を、見渡す。
すると、脳裏に浮かび上がる、いつもの騒がしすぎる喧騒。
――「かんばーい!!!」
――「あ~はっはっはっはっ! このチーズと味噌の相性、ひゃんでねっかてぇ〜!」
――「おいっ! ラルフ! なんだその”シュトウ”とは?! また米酒に合うツマミを隠していたなぁ!!」
常連たちの、一人一人の声と、彼らの抑えきれない欲望が、ラルフの耳に、幻聴として鮮明に蘇る。
ラルフは、諦めたような顔で立ち上がった。
コーヒーを淹れようかと思ったが、もうそんな気分ではない。
葡萄酒でも飲もうか?
しかし、なんだか、上手く酔える気がしない。
いっそ、寝床に入ってしまうおうか。
いや、寝れる気がしない。
水上都市の王族離宮にでも行こうか? あそこでは今、貴族たちが集まっているはずだ。
しかし、なんだか、そんな気分にもなれなかった。
再び、その場で、椅子に座り直す。
認めたくなかった。
自分が望んだ、一人の自由な時間のはず。
そう、認めたくなかったはずなのに。
なんだか、
ひどく寂しい……。
そのとき、扉の外から、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「領主さま、いるんすかねー?」
「離宮に行ってるんじゃないか?」
「まあ、しょうがないよねー」
ラルフは、考えるより先に、反射的に椅子から跳ね上がり、そして駆ける。
勢いよく、扉を開く。
ドアベルが、カラカラと、どこか乱暴に鳴り響いた。
すると、見慣れた三人の女性が、驚きに目を見開いている。
「うわっ! あ、あれ? ラルフ、さま?」
「えっ!! いたんですか?」
「いや! 私は、いると思ってたんすよー!!」
ポンコツ三人娘――パメラ、マジィ、ジュリが、口々に叫んだ。
ラルフは、目を見開きながら、
「お前ら、どうして? ここに?」
と、戸惑いを隠さずに問う。
パメラが、言いづらそうに、もじもじしながら答える。
「あー、あのー、そのー。なんかぁ~。休みなのはわかってたんですけどぉ……。もしかしたら、ラルフ様のことだから、居酒屋領主館。あけてたり、しないかなぁ、なんて……」
マジィは肩を落としながらも続ける。
「私は、止めたんですよ……。でも、私も、なんというか。もし、居酒屋領主館が、やってたら、ここで年越ししたいなぁ、って、思ってしまいまして」
「やっぱり、ダメ、っすかね?」
ジュリが俯き、心細げにそう言った。
ラルフは無表情で、客席の中に取って返す。
三人娘は、やはり迷惑だったかと、ため息をついた。
しかし、ラルフは、暖簾を持って戻ってきた。
そして、無言で、それを、いつものように扉の上に取り付けた。
それを見た三人娘は、狂喜と困惑の極みだ。
「えっ! えっ!! えぇぇぇ?!! 営業するんですか?!!!」
「ラルフ様。そんな、私達の為に、そこまでしなくとも……」
「ラルフさま〜! 本当に、本当にいいんすかぁ?!!」
ラルフは振り返り、いつもの不敵な笑みを浮かべる。
「ああ……。あまり、手の込んだ料理は出せないが。とりあえず、入れよ」
「よっしゃぁ!」
「か、貸し切り?! 私達が、居酒屋領主館を??」
「いや! 違うと思うっすね〜。どうせ、そうはならないっすよ!!」
ジュリは、なんだか予言めいたことを言った。
彼女らを招き入れ、ラルフは、慣れた手つきでエプロンをギュッと腰に巻いた。そして、
「お前ら、まずは、何が飲みたい?」
と、カウンター席の三人に問う。
「ビール!」
「白ワイン!」
「ウメシュのソーダ割り!」
すると、なんだか心底嬉しそうに、
「はいよー!」
と、ラルフは声を張り上げた。
作業台にグラスを準備し、最初のドリンクオーダーを作っていると、チリンチリンと、ドアベルが鳴った。
ラルフは顔を上げ、驚愕に目を見開く。
そこには、何故か、メイド服姿ではなく、ベージュ色のコートを着た、ラルフの最も近くにいる人物が立っていた。
「えっ?! な、なんで? どうしたの? アンナ……」
「どうせ……。こんなことだろうと、……思いましたよ……」
「あ、いや。その、これは、……仕事じゃないというか、その……。趣味というか、その……」
ラルフはしどろもどろに弁明する。
「はぁ……。いいです! そういうのは、いいですよ、もう。私も、手伝いますからね」
ため息と共に、
まるで、異論は認めぬとばかりの、有無を言わせぬ剣幕だった。
アンナはベージュのコートを脱ぎ去り、客席の椅子に恭しく掛ける。
その下の服装は、ラルフにとって見慣れぬ、簡素な平民風の装いだ。アンナもまた、手慣れた様子でエプロンを締め上げる。
ラルフは、ふと、不意に目に飛び込んできた、いつかプレゼントしたはずのネックレスが、アンナの首元に微かに煌めくのを見た。そのことには、あえて触れないことにした。
その瞬間、再びドアベルが鳴り、新たな来客を告げた。
「ふんっ! どうです? お父様、お母様。あたしの言った通りだったでしょ?」
不敵に、そして得意満面に、金髪のドリルツインテールを揺らす少女。
「ハァぁぁぁぁぁぁぁ??! なんで、お前まで来てんだよ?!! エリカ?!!!」
ラルフは、思わず大声を上げてその名を呼ぶ。
エリカの背後には、彼女の両親であるデューセンバーグ伯爵夫妻が、苦笑いしながら立っていた。
「お父様もお母様も、やっぱり“ここ”じゃないと、なんかしっくりこないって言うのよね~。マリアンヌ・ホテルのディナーは美味しかったけど。やっぱ、シメはあたしのカレーよ!!!」
エリカは薄い胸を誇らしげに張る。
すると、その背後から、風のようにスズが飛び込んできた。
「ラルフ! ブンタ連れてきた。お腹空いたから、お稲荷さん作って!」
彼女に手を掴まれた、豆腐作りのプロであるゴブリンのブンタは、ただ戸惑うばかり。
「えっ?! なんでっ?! お前! 腹減らないんじゃなかったのかぁ?!!」
ラルフは、思わずツッコミを入れる。亜神とも言える存在のスズは、生物としての摂理を超越しているはずなのだが……。
「それとこれとは、別問題……」
スズは、なんとも謎めいた弁明をした。
急激に、騒がしさを増した居酒屋領主館。
しかし、何故か。その後も次々と、来客を告げるドアベルの音が止まない。
「ほーらっ! やっぱり営業してた! なぁ?! 俺の言った通りだろ?! ラルフさまぁ! なんでもいいから、酒ぇ!!」
ドワーフたちが、怒涛のように押し寄せる。
「警備担当騎士から、タレコミがあったぞ! まったく、マスターは人が悪い、……営業するなら、そう言ってくれればいいのに……。とりあえず、ハチミツハイボールと、ギョーザと、ハルマキと、あと、なんかテキトーに!!!」
騎士団を伴って現れたミラ・カーライルが、口元の涎をこらえきれずにオーダーを叫ぶ。
「ほーら! やっぱりなぁ! やっておっただろう?!!」
まさかの国王陛下。
離宮に集まっていたはずの貴族たちを伴って、居酒屋の戸を潜ってきた。
「ハーハッハッハッハ! さすが! 国王陛下は、ドーソン公爵の心の内は、すべてお見通しのようですな!!」
グレン子爵をはじめとした貴族達は、当然のことのように、テーブル席に座り出す。
「い、いやっ! ちょ、ちょっと待って! みんな、なんで来た?!!」
ラルフは、もはやパニックだった。
すると、また来訪者が。
「皆様、いらっしゃいませー!」
「ようこそ! 居酒屋領主館へー!」
何故か、孤児たちがなだれ込んできて、勝手に接客をはじめてしまった。
「ちょっとぉ! ちょっと! ミンネっ! ハル! 君たちもさぁ、休みだからね?!!」
ラルフは焦り言い募るが。
「休んでまーす!」
「休んで、やりたいことしてまーす!!」
と、無邪気に宣言する。
ある意味、一本取られた形になり、ラルフは苦笑いをするしかない。
いつの間にか、知恵とユーモアを備えた、貴族であるラルフを言い負かすような彼女たちの処世術に、少しばかり嬉しくなってしまったのだ。
「ふっ、やっぱり、やってたか?」
と、ファウスティン公爵。
「ねっ! 私の予想どおり! やっぱり、やってたし!」
聖女様方も暖簾を潜ってきた。
「今日は飲むぞー! 今日こそは、ドーソン公爵を忙殺してやる!!」
「ハッハッハッハっ! 恨みが深過ぎでしょう?! ギルマスぅ〜」
商業ギルドの面々も雪崩れ込む。
「まっ! こうなるわよねー」
「そうだな……」
「それはそうだろう。目に見えていた事態だ」
ラルフの同級生であるパトリツィア・スーノ、ヴィヴィアン・カスター、そしてアルフレッドは、確信を以てこのラルフが営む居酒屋領主館へ赴いた。
彼の性根を熟知しているがこそだ。
そして、結局。
この居酒屋領主館は、年の瀬を目前としても、いつもの喧騒に溢れてしまった。
王族も、貴族も、平民も、国籍も、種族も超えた、ざっくばらんな、騒がしい飲み会が始まってしまったのだ。
日付が、変わる、まさに年を越える頃。
ラルフは、ふと、その熱気から逃れるように、扉の外へ歩み出た。
寒空の下にも拘らず、クレア王妃やリネア・デューセンバーグをはじめとしたモフモフ愛好家が、ワインを片手に狼たちを撫で回し、キャッキャッと、平和なお喋りに興じている。
ラルフは、愛しきペットである、ワイバーンのレッドフォードを見あげた。
そして、静かに語りかける。
「……なんかさぁ、色々。あったよなぁ~」
しかし、レッドフォードは、深紅の瞳をラルフに向けながら、何も答えない。
「まさかさぁ、こんなことに、なるはずじゃなかったんだけどなぁ……」
ラルフは頭をかく。
すると、レッドフォードは、「ふんっ!」と鼻を鳴らした。まるで、
(そう……、ご主人様が、望んだんじゃないの?)
とでも言いたげに。そして、くるりととぐろを巻き、寝入ったフリをした。
ラルフは、重く暗い夜空を見上げた。
すると、彼の鼻先に、ツンと冷たい感触。
目を凝らせば、濃密な夜空から、雪が降り始めていた。
大袈裟なセレモニーも無ければ、盛大な花火が打ち上がるわけでもなく。
こうして、ロートシュタインの、記念すべき年越しは、いつもの、なんにも変わらない居酒屋の喧騒と共に、幕を閉じ、そして新しい年がはじまるのだと、ラルフは、なんだか諦めの先にある、無自覚な感慨に浸る。
冷たい外から、客席に戻ると、そこには、汗が浮かぶような熱気が渦巻いていた。
ふと、大時計を見ると、いつの間にか、一日が終わり、年を越えていた。
なんだか、らしいっちゃぁ、らしい……。
特別なことは何も無く、特別な日が、こうして過ぎていくのが……。
だから、ラルフは、全員に……、
ここにいる、すべての、
この"愛すべきバカバカしい物語を織り成す人達"へ、まっすぐな視線で、最大限の感謝と、そして祝福にも似た感情を、どうしても伝えたくなった。
「みんな。おめでとう……。あけましておめでとう! これからも、……居酒屋領主館を、よろしくな!!!」
少し照れながら、恥ずかしそうに、ラルフは顔を隠した。
どうしようもなく、嬉しそうに……。




