305.無言の美味
炙った鮭の芳ばしい香りと、大根おろしのさっぱりとした風味。
カウンター席で温燗を傾けていた国王、ウラデュウス・フォン・バランタインは、湯気の向こう、厨房の主へ声をかけた。
「ところで、年末年始は、居酒屋は営業するのか?」
問いかけられたラルフは、見事な包丁さばきで大根の桂剥きを披露している最中だった。その手元は一切乱れることなく、彼は国王という身分すら意識させない不遜な態度で、当然のこととして言い放った。
「はっ? もちろん、休みますよ」
確固たる信念を宣言するその言葉は、客席に「えぇぇぇ……」という、悲鳴にも似た溜息の波紋を広げた。
ラルフは、これ以上の議論は受け付けぬとばかりに、絹織物のように薄く、延々と続く大根の帯に目を凝らした。
国王が王都に帰らず、このロートシュタイン領に居座り続け、年末年始でさえ毎晩この居酒屋領主館に通い詰める魂胆であることなど、ラルフには痛いほどに想像できていたからだ。
しかし、国王の次の一言は、ラルフの集中力を寸断した。
「では、水上都市の離宮に、料理だけでも届けて貰うことは……できんか?」
思いがけないの提案に、ラルフの手元が狂う。滑らかに続いていた大根の薄剥きが、「スパッ」と無残にも途切れた。
「はっ?! なんで年末年始までフードデリバリーせにゃならんのよ! 休むからね! 完全に、閉店ガラガラですわ!」
憤懣やるかたない様子で言い返すラルフに、国王は少々困り顔で呟いた。
「ふむ……。では、どうするかのぉ~。今年の祝宴は、ここロートシュタインで行いたいという要望が多くてな……」
ラルフ・ドーソン公爵が巻き起こした「美味しい革命」は、王国の王侯貴族たちが年末年始に城や邸宅で大規模な祝宴を開催するという古き慣習すらねじ曲げ、この領地をブラックホールのような求心力で引き付けてしまっていた。
その証拠に、客席の隅では、聖教国の重鎮たちが大袈裟な議論を繰り広げている。
「ここがやってないとなると、我々はどこで飲み食いすればいいのだ?」
「屋台の店主も、休む人が多いだろう?」
「どうするのだっ?! 死活問題だぞ!」
ラルフは呆れを通り越し、目頭を押さえた。
「いや……。帰れよ……。大教会で、"聖光祭"があるんでしょ?」
何故、聖教国の彼らまでが、この王国の片隅で年を越そうとしているのか……。
すると、聖女トーヴァ・レイヨンが、カウンターに頬杖をつきながら、しみじみと呟いた。
「まあ、帰っても。豆しかないですしねぇ~」
「あー、アレねぇー。アレしかないなら、このロートシュタインにいた方がマシよねぇ……」
隣の聖女マルシャ・ヴァールも同意する。
彼女たちは、もはや聖教国に戻る気があるのか怪しいほど。……輸入品売買と、冒険者ギルドの治癒魔法担当で稼いだ金を、この居酒屋領主館での飲み食いに落とす日々を送っていた。
騒がしい客たちの絶望をよそに、ラルフは厨房の幼い従業員たちに目を向けた。
「ミンネとハルは、どうするんだ?」
問われた孤児の二人は、揃って「ウ~ン……」「うーん……」と、大いに悩んでいる。
「えっ? 決めてないの?」
ラルフは戸惑った。
「ここがお休みなら、孤児院の屋台を手伝おうかと……」
ミンネが、どこか寂しそうに言う。
「私も、ここがお休みなら、そうするかも……」
ハルは、獣人族特有の猫耳をペタンと伏せて答えた。
彼女たちの凄まじい勤労意欲に、ラルフは心配になる。子供に過重労働をさせたくないと思う反面、彼女たちにとって、この居酒屋で働く日常こそが、何にも代えがたい幸福なのだと理解していた。
そんな中、奴隷にして居候、そして元貴族令嬢であるエリカが、金髪の縦ロールを揺らしながら得意げに言い放つ。
「あたしは、お父様とお母様と、マリアンヌ・ホテルに泊まるわ。ふんっ! ……あたしがいなくて、ラルフは寂しいでしょうけど。悪いわね!」
「全然、寂しくないから。むしろ、早く出ていけ」
ラルフが不遜な居候にそう告げた瞬間、ヒュルヒュルヒュル! と、エリカの意志を持つかのようなドリルツインテールが凄まじい速さで伸び、ラルフの首に絡みついた。
「ぐっ! ……ぐがっ……。ギヴ、ギヴ……」
呼吸困難に陥ったラルフは、プロレスのギブアップのように首元をタップし、意識を飛ばしそうになった。
騒がしい一幕が過ぎ、ラルフはようやく納得した。
「確かに、店がやってないのか……。なら、ある程度、今から作り置きしておくか……」
年末年始、アンナを含むメイドたちにも暇を与え、彼の住居である領主館で一人ダラダラ過ごす予定のラルフにとって、食事の煮炊きは面倒以外の何物でもない。日持ちする料理、すなわち前世で言うところの「おせち」作りを思い立った。
まずは黒豆。
下拵えが大変なアレを再現する代わりに、この世界の固有種である豆を甘く煮込み始めた。
湯気の向こうから漂う甘い香りに、嗅覚の鋭いトーヴァが目を光らせる。
「クンクン……。なんか、それ、美味しそうですね~! それ、下さい!」
「あっ、私も、食べたい」
マルシャも続く。
「はぁぁぁぁ?! お前ら、さっき、豆食いたくないって、言ってなかったか?!!」
ラルフはツッコミつつ、仕方なく小皿に盛って彼女たちに差し出す。
次に、ラルフは"伊達巻"作りに挑戦する。
漁村から仕入れたハンペンと、保冷庫の卵。
卵焼きに似て非なるその伝統料理に、ダンジョン・マスターのスズが立ち上がった。
「それ、食べたい! なんで、そんな美味しいモノが、お正月しか食べられないのか、私、ずっと不思議だった……」
食欲と、前世の不可思議な慣習に対する疑問を吐露するスズ。
ラルフは試行錯誤しながら巻き簾で形を整えつつ、静かにため息をついた。
「俺も、食いたいかも」
「甘いの? 絶対に甘いよね?!」
やはりというべきか、他の客からも"伊達巻"を所望する声が上がる。
ラルフが年末年始の、"休み"を企んで作り始めたはずの「おせち」は、日本古来の由縁を知らぬ客たちによって、作ったその場から次々と消費されていく。
焦燥感よりも、もはやどうでもよくなってしまったラルフは、諦めにも似た表情で、保冷庫の奥から、自分一人で楽しもうとしていた、"超高級食材"を取り出した。
それを見た国王は、「ブフぅぅぅっ!」と、米酒を吹き出した。
冒険者たちも貴族たちも、目をまん丸に見開き、冷汗を流す。
その大好物を見たランドルフ第七王子に至っては、顔面を真っ赤に紅潮させ、ワナワナと震えている。
カウンター席で静かにハイボールを傾けていたファウスティン・ド・ノアレイン公爵ですら、静かな驚愕にたじろぎ、呟いた。
「お、お前……、なんて、なんて、……モノを……」
ラルフは、その巨体を掲げた。
「ふんっ!!!」
得意満面にラルフが持つのは、巨体な、あまりにも巨大な、カニ。
シャーク・ハンターズの刺し網に偶然かかったというその獲物は、網を切る魔獣としてこの世界では認識されていた厄介者だ。
ラルフはヤケクソ気味に、湯を張った大鍋に、それを、ドボーン! と投入した。
数分後。居酒屋領主館の喧騒は嘘のように静まり返った。
誰も彼も、真っ赤に茹で上がった甲殻から宝石のような身を掻き出し、無言で貪り食っている。
年の瀬のロートシュタイン。
居酒屋領主館には、夜更けにカニの身を咀嚼する音と、甲殻を剥がす音、そして身の隙間の煮汁を啜る音だけが、ズルズルと響き渡っていた。




