304.神様の言うとおり
雪がしんしんと降りしきる街角。凍てつく空気の中、エリカは喉を震わせ、か細い声を絞り出していた。
「カ、カレーは……カレーはいりませんかぁ?」
粗末な木組みの屋台と、防寒の役目すら果たさない、ボロ切れのような召し物。
その哀れを誘う少女の姿に、しかし、誰も足を止めることはない。人々は無情にも、吐き出す息さえ白く凍る速度で、彼女の前を足早に通り過ぎていく。ある者は憐憫とも、またある者は侮蔑とも取れる視線を投げかけるが、誰一人として、彼女のカレーに手を伸ばす者はいなかった。
「カレーだってさ……。正直、もう飽きたよなぁ」
「ああ。王都の有名店のスパイスの効いたヤツの方が、比べ物にならないくらい美味いしな」
ヒソヒソと交わされる声が、雪の静寂をわずかに破って届く。その冷たい本音に、エリカの心は深く沈む。
かじかむ赤ぎれた手に「ハァ」と息を吹きかけ、わずかな温もりを与える。もう、今晩は諦めよう。肩を落とし、エリカは重い屋台の引き手を握り直した。
橋の下、冷たい風の届かない場所に屋台を引き込み、夜の帳の中で、とっくに冷めきった自分のカレーを食べる。
「美味しくない……」
思わず、そう呟いた。何故か、今日のカレーは味がしなかった。具材は確かに煮込まれているのに、魂が抜け落ちたように空虚な味だ。
なるほど、これでは売れないわけだ。
その事実を納得すると同時に、どうしようもない、どうしようもないほどの悲しみが胸の奥から込み上げてきた。生活のための切実な願いと、自分のカレーが求められない現実が、痛いほど彼女を苛む。
そして、雪が舞い落ちる、墨のように真っ黒な夜空に向かい、エリカは祈り、願った。
「神様……。どうか、どうか。アタシに、新しいカレーの知恵を、お授け下さい……」
その小さな、切実な願いは、凍てつく夜空に吸い込まれていった。
すると、その時——。
突如として、夜空が裂け、黄金色の聖なる光がエリカの頭上に差し込んだ。冬夜の鋭い空気とは打って変わり、辺りは柔らかな暖かい空気に包まれる。驚愕に、エリカは目を見開いた。
そして、エリカの願いを受け入れた、その「御方」が、福音のように光の柱の中から降臨した。
「そなたの願い、聞き入れよう」
それは、
豚だった。
何故か、神々しいまでの、眩い光を背負った、巨大な豚が、そこに降臨したのだ。
「は……。え、えーっとぉ……」
エリカは完全に思考停止してしまった。確かに新しい知恵を願ったが、想像していたのは、知的な仙人か、美しい女神の類だ。まさか、ブタ、それも神々しいブタが来るとは。
「新しいレシピ、知りたいんだろう?」
神豚様は、揺るぎない威厳と、どこか親しみやすい丸みを帯びた声で尋ねる。
「あ、あのー、えっと……。アナタは?」
「まあまあ。ご覧の通り、通りすがりの神だ」
いや、ご覧の通りと言われても、豚だ。巨大な、神々しい豚だ。エリカの知る神のイメージとはかけ離れている。
「えっ、えーっとぉ……」
エリカは困惑を隠せない。
「とにかく。そなたは、良き物を持っておるな。それを使いなさい」
と、神豚様は、エリカの屋台の横を鼻先で指し示した。
いつの間にか、そこには、真新しい圧力鍋が置かれていた。
これは、確か、いつかのメリークリスマスの夜に、枕元に置かれていた、あの不可思議なプレゼントだった。
「これで、何を作ればいいの?」
「それは、"角煮"だ。レシピは、"あの男"が知っている……」
「あの男って、いったい、誰なの?!」
エリカは、今、何かとてつもなく重要なことを聞き逃してはならないという焦燥に駆られた。
「まあ。達者でな!」
その神格は、光の粒子となり、ゆっくりと夜空へ遠ざかろうとしている。
「あ、ま、待って! 豚さん!!」
エリカは追いかけようとするが、何故か身体が鉛のように重く、上手く動かせない。視界も、そして時間の前後感覚も、まるで水の中にいるかのように、次第に曖昧になってゆく。
そして、ただ「角煮」と「あの男」という僅かな記憶だけを残して、エリカの世界は消失した。
「っていう、夢を見たのよっ!!!」
「なんていう、……シュールな夢だ」
ロートシュタイン領主館の執務室。
朝食を終えたエリカは、ラルフに昨晩の不可思議な夢の一部始終を、身振り手振りを交えて報告していた。
そんな謎展開の夢を聞かされたラルフは、酷い頭痛に見舞われたかのように、眉間を押さえた。夢占いなどには興味はないが、「角煮」という言葉をエリカに授けたという部分は、まさに天啓とも言えるのかもしれない。エリカの無意識が、"カレー開発の頭打ち"、という現状打破を求めて生み出したものか……。
「まあ、いい。……試しに、作ってみるか?」
ラルフは立ち上がった。本日の書類仕事は既に終えていたので、まあちょうど良い暇つぶし、いや、領地の課題解決の糸口になるかもしれない。
二人は居酒屋領主館の厨房に降り、保冷庫を漁る。
「まずは、オーク肉だな。……確かに、どんどん消費するには、角煮はちょうど良いかもしれないな!」
ラルフは笑う。彼が治めるこのロートシュタイン領は、現在、肉余りの状況が続いていた。だからと言って、市場価値を簡単に下げるわけにもいかず、肉屋や商家にとって、頭の痛い問題となっていたのだ。
「そんじゃあ、夢の中の豚神様の言うとおり。エリカの圧力鍋、ちょっと借りるぞ」
と、厨房の一角に置かれていた、ピカピカに磨かれた魔道具の一種である、エリカの私物の圧力鍋を手に取る。
「本当に、誰なのかしらね? それをプレゼントしてくれたのは。でも、勝手に人の部屋に侵入してくるのは、ちょっと気味が悪いけど……」
エリカは首を傾げる。ちなみに、あのクリスマスの夜のドタバタ劇は、ラルフの魔法によりエリカの脳内から、都合よく消去されている。
「まずは、下茹でだ。このまま、鍋に入れるぞ」
「でっかっ!」
見事なオークのブロック肉が、圧力鍋にドスンと投入される。ネギの青い部分や、生姜、そして米酒。さらに、ラルフは、生米を一握り鍋に入れた。
「なんで、お米なんて入れるの?」
「色々な理由があるんだが。こうすると美味しくなる。まあ、先人の知恵さ」
エリカは、生き甲斐であり、生業のカレー作りに活かせる知恵かもしれないと、熱心にメモを取る。
しばらく火にかけ、魔導コンロの火を消す。
すると、シュッ、シュッ、シュッ、と規則正しく湯気を吐き出す鍋。圧力が抜けきると、蓋を開け、白く彩りを変えた肉を取り出した。
それをまな板に置き、
「どれくらいの大きさがいいと思う?」
とラルフが尋ねる。
「ラーメンの、チャーシューみたいなモノなのよね? それなら、大きければ大きいほど良いでしょ!!」
エリカの底抜けの食欲を全開にした意見だが、ラルフは苦笑いしながら、なるべく、常識的な範疇で、大きめにカットしていく。
そして、ラルフは閃いたように、
「あ、この際だ。味玉も作るか……」
と、再び保冷庫を漁る。タマゴをいくつか取り出し、その一つを作業台に置き、指先で勢いをつけ、クルクルとコマのように回転させた。
「それは、何をしているの?」
「ん? ああ、生卵とゆで卵を、判別しているんだよ」
「えっ? なにそれ? 魔法?」
「違う違う! 単なる、物理学だよ」
ラルフは面白そうに、その原理を教えてくれた。エリカも、試しにタマゴを一つ回転させてみたが、それはラルフの手元のタマゴのように、勢いよく回転してくれない。
「それは、生卵だな」
と、ラルフは言うが、その原理は、カレー一筋のエリカにとってはチンプンカンプンだった。
調理を再開する。味付けは、醤油、砂糖、酒。と、驚くほどシンプルだ。最後に、先ほどの下茹での煮汁を少し加え、再び圧力鍋の蓋をロックする。
取り付けられた小型の圧力ゲージの針がグングンと上がるのを見ていると、それと同時にエリカの未知の料理に対する期待値も急上昇していった。
その夜、居酒屋領主館はいつものように客たちの喧騒と混沌の坩堝だ。
客たちからは、新たなサービスメニューを叫ぶ、興奮したオーダーの声が続々と上がる。
「カクニ! もう一つくれーっ! 味が染みてるのに、とろけるぞ!」
「こっちには、カクニラーメンだ! 絶対にヤバいって!!」
「何コレ!? なんでオーク肉がこんなに柔らかいんだ?!」
もはや、店全体がパニック状態だ。
もう、身分を隠す気もない国王ヴラドも、カウンター席で角煮をツマミに、熱燗を飲んでいる。
「甘いっ!」
「甘いっ!!」
「甘いっ!!!」
異口同音、三連打を繰り出したのは、聖女三姉妹だ。今宵は、三人でテーブルを囲み、ジョン・ポール商会から貰ってきた魔導車のパンフレットを何冊も広げ、どの車種を購入するのかの激論を交わしていた。
「あのー。これ、レシピって、教えて貰えたりしますか?」
と、ポンコツラーメンのパメラが、恐る恐るラルフに尋ねた。
すると、ラルフは涼しい顔で、
「このレシピ本に書かれてるよ」
と、ロートシュタイン出版から書籍化された、『酔いどれ公爵ラルフのオツマミレシピ』を取り出した。
「買うっ! 買います!」
パメラはすぐさま購入を宣言する。
ラルフのレシピは、今やこの世界の料理人なら、絶対に手に入れたい、聖書として扱われている。金を出せば手に入るという、ずいぶん手ごろな聖書だが。
エリカは、ふと、客席の隅の方で、
エリカ特製、角煮カレー(大盛り)を満面の笑みで頬張る、青い髪の少女を見つけた。
明らかに、神格を隠し、平民風の装いをしているが、この場にいるにはそぐわない、とてつもない存在感が彼女から放たれている。
意を決して歩み寄る。
「あの〜、ちょっと、お聞きしたいのだけど……」
と、声をかける。
「へっ?」
と、お忍びの女神様は振り返った。その頬に、ご飯粒を付けていることを、エリカは伝えるべきか悩んだが、それよりも、まず自分の興味関心を優先した。
「あのぉ~、そのぉ〜。……お知り合いに、豚さんって……います?」
「ぶ、豚さん? ……い、いやぁ~……。ちょっと、何を言ってるのか、わからないなぁ〜」
女神リュシアーナは困惑する。というか、今まさに頬ばっていたのが、オーク(豚さん)なのではないか?
と、女神なのに、この目の前の糧に対する、説明しがたい謎の罪悪感が湧いてきてしまった。




