302.エビフライと、ラルフの目覚め
「えっ? 領主様、まだお休みなんですか?」
昼下がり、領主館の裏手にある勝手口で、冒険者クラン"シャーク・ハンターズ"に属する屈強な男が、困惑の声を上げた。彼の視線の先には、居酒屋領主館の看板娘であり、スパイス・クイーンの二つ名を持つエリカが立っている。
「なんだか、昨晩は色々大変だったみたいよ。何があったかは、……知らんけど」
エリカは肩をすくめた。
昼時を過ぎても主である領主ラルフが目覚めないという事態は、普通ならば領民を不安にさせる。しかし、今朝、メイドのアンナが「今日は、心ゆくまで寝かせて差し上げましょう」と、どこか慈悲深い、それでいて諦念も混ざったような声色で言っていたのを聞き、皆、なんとなく事情を察していた。
昨夜の騒動と、午前中から一階の手摺りと二階の大窓の修繕に来ていた大工の存在。そのすべてが、領主の寝坊を不可抗力な事態として受け入れさせていた。
「そうですかぁ……。導入した"刺し網漁"の成果を、早く見ていただきたかったんですが。まぁ、お忙しいお方でしょうしねぇ。……とりあえず、色々と積んできたんで、納品してもよろしいですか?」
男は、多忙な領主への遠慮と、獲物への自負が入り混じった声で尋ねた。
「いいわよ。後で、"あのバカ"には伝えておくわ」
エリカの口から、主を「バカ」呼ばわりする言葉が飛び出す。奴隷という身分に似つかわしくない不遜な態度だが、このロートシュタイン領に集う人々は、領主ラルフとエリカの間に、強固で不可思議な信頼関係が構築されていることを知っている。それは、誰も口出しできない、一種の了解事項となっていた。
冒険者の男は、輸送用魔導車の荷台から、ごつごつとした重そうな木箱を一つ、また一つと運び出し、勝手口の床に積み重ねていく。その数、計七箱。
「じゃあ、エリカさん! また今晩、最高のカレーを食いに来ますぜ!」
「ふんっ、待ってるわよ」
エリカは、なぜか挑戦的で、どこか太々しい態度で男を見送った。彼女の金髪ドリルツインテールが、午後の陽光を反射してきらめいた。
その日、たまたま領主館の厨房に立っていた宮廷料理長、サルヴァドル・バイゼルがエリカに声をかけた。
「あのやり取りからすると、海産物のようですな。鮮度のことを考えると、すぐに保冷庫に運び込んだ方が良いかもしれんが……」
サルヴァドルの真面目な提案に、エリカは好奇心に満ちた瞳で答えた。
「開けてみる?」
二人は顔を見合わせ、まるで悪戯を企む子どものように笑った。
木箱の一つに手をかけ、二人掛かりで重い蓋を持ち上げた、その瞬間だった。
ビタンッ! ビタンッ! と、箱の中で何かが爆ぜるような音を立て、鮮烈な赤い生物が飛び出してきた。
「うぉっ!!!」
「ギャァァァああああっ!」
サルヴァドルは驚きに声を上げ、エリカは飛び上がり、激しく胸を打つ心臓を押さえた。
顔面から血の気が引くほどの驚愕。
「ちょ、ちょっと! まだ生きてるなんて、聞いてないわよ!!」
エリカが文句を言う横で、サルヴァドルは興奮したように目を細めていた。
「ふむ、これは、エビか……。しかも、規格外の大きさ。なるほど。これなら、鮮度抜群というわけだ……」
その巨大な甲殻類は、並みのエビではない。小型の伊勢海老ほどもある、赤く艶やかな体躯だった。
「これ、多分、今夜のサービスメニューよね? そろそろ、ラルフを叩き起こした方がいいのかしら?」
エリカの提案に、サルヴァドルは顎に手をやり、思案するように「ふむ」と唸った。彼の眼差しは、獲物を見定めた料理人のそれだった。
そして、まるで悪戯っ子のような、抑えきれない好奇心と高揚感に満ちた声で、彼は提案する。
「……どうかな? 今夜のサービスメニューは、我々でやってみるか?」
「……ふーん、面白そうじゃない!」
エリカもまた、その共犯関係の誘いにノリノリで応じた。
実のところ、この二人、ある意味では「ライバル」であった。宮廷料理長であるサルヴァドルが、居酒屋領主館の厨房に現れて「本日の宮廷料理長の一品」を提供すると、必ずと言っていいほど、エリカが提供する「本日のエリカのカレー」の売上げが落ちる。エリカが一方的にライバル認定しているだけではあったが、互いの料理に対する情熱は本物だった。今日この日、二人は初めて、高みを目指す料理人として手を取り合うことになった。
「で、何を作るのよ?」
エリカは腕を組み、金髪ドリルツインテールを揺らしながら尋ねた。
料理長は、領主ラルフが執筆し、ロートシュタイン出版から販売されている、例のレシピ本をパラパラとめくる。ラルフの類稀な頭脳から生み出された美食の数々が、懇切丁寧に記された、この領の食の福音書だ。
「ウ~ン……。エビ、エビ……。この、『エビフライ』なんてどうだろうか?」
サルヴァドルの提案に、エリカは大きく頷く。
「いいんじゃない。フライは、カレーのトッピングとしても優秀よ!」
揚げ物という、彼女のアイデンティティであるカレーと相性の良い選択肢に、エリカは太鼓判を押した。
サルヴァドルは早速、箱の中のエビを取り出そうとし、その中に氷の塊があることに気が付いた。恐らく、同行していた魔法使いが水属性魔法で精製したのだろう。
「ふむっ。ちょうど良い!」
彼はその氷を砕き、水を張ったボウルの中に入れた。エリカは不思議な工程に、思わず質問する。
「それは、何するわけ?」
「これにエビを入れて、仮死状態にする。それが、この獲物の最高の鮮度を保つ秘訣だな」
そして、巨大なエビを掴み上げ、ボウルの中へ。
ビタンっ! バシャンっ!
冷水に驚いたエビが激しく暴れ、その尾が冷たい水を弾き上げた。
「キャッ! ちょっとぉ、活きが良過ぎでしょっ!!」
顔に冷水を浴びせられたエリカが憤慨する。しかし、料理長の言った通り、五分ほどで、その甲殻類は冷たい静寂に包まれた。
サルヴァドルによる、流れるように華麗な下拵えが始まった。頭を取り、殻を剥き、ワタを抜く。エリカは、その一流の技をまじまじと観察した。
「尾に水袋といって、水が溜まっているから、それを抜くのも忘れずにだ」
淡々と、しかし淀みなく行われる工程と、その卓越した知識に、エリカは思わず感嘆の声を上げそうになる。
下拵えは滞りなく進み、バットの上には、白い宝石のように艶やかなエビの身が並んだ。
「エリカさん。少し、スパイスを分けて貰えませんか?」
「へぇ。下拵えに、スパイスを使うの?」
エリカは目を丸くした。
「ああ。ソースをかけず、そのまま食べても、じゅうぶんに美味しい料理にしたいのでね」
「何が必要?」
「ブラックペッパーと、パプリカパウダー、あとできればガーリックパウダーも」
「任せなさい。全部あるわよ!」
エリカは得意げに胸を張り、「スパイス・クイーン」としてのプライドを見せた。
次の工程は、パンを削り、パン粉を挽く作業。無心で作業をするエリカの脳裏に、ふと、懐かしい光景が蘇った。
(なんか、ここに連れて来られてすぐの頃、こんな事してたわね……)
遠い記憶のようだが、まだそれほど昔ではない。このロートシュタイン領での日常は、あまりにも濃密で騒々しく、時間が飛ぶように過ぎていく。
「よし。油の温度は良さそうだな。揚げてみるか!」
熱した油の表面を、箸の先が立てる泡立ちで見極めたサルヴァドルが告げた。
まさにその時だった。
ヨレヨレのパジャマの上に、魔導士のローブを羽織っているという、なんとも間抜けな格好をした寝坊助領主、ラルフが、やっとのことで起きてきた。頭は、寝癖があっちこっちにハネ回っている。
「おはよう……。ファァァァアアアア! ……なんか、良い匂いだねぇ……」
大きな欠伸をしながら、彼は言った。
「おはようじゃないわよ! もうすぐ日が暮れるっての! ……ほらっ、シャーク・ハンターズから納品あったわよ! 今夜のサービスメニュー、あたしとサルヴァドルさんでやっちゃってるから!」
エリカがまくし立てるが、ラルフは全く悪びれる様子がない。
「うん……、悪いねぇ〜」
彼は、保冷庫からオレンジジュースを取り出し、グラスに注いでいる。
「ラルフ殿。エビフライにしてみたのだが、味見をしてみて貰えないかな?」
サルヴァドルが、油の中で踊る狐色のフライをくるりと回しながら問いかけた。
「ぷはぁ~」と、起き抜けの水分補給を終えたラルフは、鍋を覗き込み、思わず、二度見した。
「え、うっわ! でっかっ!! 何コレ?! 何エビ?!」
それは、ラルフの前世の常識を遥かに超える大きさのエビフライだった。車海老の最上級であるオオグルマよりも大きい。まさに、小型の伊勢海老ほどの巨体。
「学者ではないので、種名はわからんが。もし、コレが王都で売られていたら、王族しか買えないような値段になるだろうなぁ!」
サルヴァドルは愉快げに笑う。
「はっ?! もしかして、これ、全部、エビなの?」
ラルフは勝手口に積み上げられた木箱の山を見つめた。
もし今日、この二人がいてくれなかったら、この大量の獲物を大寝坊した自分一人でどう処理すれば良かったのか、見当もつかない。急に、二人に対して感謝の念が湧き上がった。
「よし! 揚がったぞ! 試食してみよう!」
サルヴァドルは、さっと油から黄金色のエビフライを取り出した。ジュワジュワと音を立て、熱い油を滴らせるその様は、食欲を極限まで刺激する。ラルフもエリカも、思わず喉を鳴らしてしまった。
サルヴァドルは、油をしっかりと切った後に、まな板の上にそれを置き、サクッサクッ、と小気味よい音を立てて、包丁で一口大に切り分ける。
三人はそれぞれフォークを持ち、その一切れをプスリと刺した。わずかな身の抵抗感が、その歯応えの楽しさを保証している。
そして、三人同時にパクリっ! と、それを口に入れた。
咀嚼する。その瞬間、爆発的な美味が、彼らの脳髄を直撃した。
「うんんんんんんまぁぁぁぁぁぁぁ! ナニコレ?! え?! なんだコレ?!!」
脳の処理が追いつかないほどの美味に、ラルフはパニックに陥った。
「もうなんか、プリッ! として、口の中で、ジュワ! ブバッ! ってなったわ!!」
エリカもまた、あまりの感動に、語彙力すら怪しくなる始末だ。
大ぶりなエビは大味かと思いきや、溢れ出る海の旨味と、サルヴァドルが施した僅かなスパイスによる絶妙なハーモニーが、とてつもない美味を生み出していた。
「うむっ! これは、なかなか。結構美味くできたのでは?」
サルヴァドルは満足気だが、なんだか控え目な物言いに、ラルフは即座にそれを否定する。
「結構美味くどころか。これ、またヤバいですよっ! いや、さすが、宮廷料理長です」
最大限の賞賛を贈るラルフ。
「そうよ……。ヤバいわよ……。これを、カレーと合わせると……。きっと、死人が出るわね……」
大袈裟な物言いのエリカに、ラルフは笑いそうになってしまったが、その真剣な顔つきから、ラルフは彼女の気持ちを理解した。
それほどまでに、この謎エビのエビフライは絶品なのだ。
その時、ラルフの天才料理人としての血が騒いだ。
「よっし! タルタルソースも、作ってやるよ!」
「むっ?!」
「おっ?!!」
サルヴァドルとエリカは、ついにラルフ・ドーソンが"目覚めた"ことを認識した。
楽しげに小型保冷庫からタマゴや野菜を取り出すラルフ。彼の脳内では、既に新たなレシピが高速で構築されている。
「ピクルス各種と、そこに、タマネギも混ぜるのが、僕の好みなのよねぇ〜。あとは、自家製マヨと。隠し味に醤油を少々……」
ロートシュタインで数々のグルメ革命を巻き起こしてきたラルフの様子に、サルヴァドルとエリカは、期待と、ある種の不安が入り混じる複雑な笑みを浮かべた。
そのすぐ後。
ラルフ特製タルタルソースと、黄金色のエビフライが出会った瞬間、それは超新星爆発的な美味の相乗効果を生み出した。
結果、
宮廷料理長サルヴァドル・バイゼルは、
あまりの美味に、ぶっ倒れ。
エリカは、涙を流しながらクルクルクルクルと踊り出してしまった……。
その惨状に、ラルフは静かに困惑するしかなかった。




