301.ある朝の情景
グルメギルドのマスター、バルドルは、冷たい朝の空気を切り裂くように、石畳の目抜き通りを足早に歩いていた。
昨夜、このロートシュタインの街は、冒険者ギルドの喧騒と、居並ぶ貴族たちの不穏なざわめきに満ちていたが、バルドルの関知するところではない。あるいは、関知したくなかったというのが正しい。どうせ、あの若き領主ラルフが、また街全体を巻き込むような厄介事を企てたのだろう。そんな騒動に首を突っ込むのは、馬鹿げている。
「フン……」
小さく鼻を鳴らした息が、冬の朝の光を浴びて白く立ち昇る。
やがて、地下街へと通じるシャロンゲートの巨大なアーチが見えてきた。
通りには、まだ仕事前の屋台の店主たちが、焚き火を囲んで暖を取りながら、遠慮のないお喋りに興じている。その横を、商売熱心な早起きの商人が足音を立てて通り過ぎていく。
広々とした石造りの階段を下り、地下一階の中央、いつもと変わらぬ場所に鎮座する、凶悪な顔立ちのガーゴイル像――人々が「シャロン様」と呼ぶ石像が目に飛び込んできた。
バルドルは立ち止まり、いつもの日課として静かに祈りを捧げた。
まさか、その像の内部に、領主ラルフの手によって悪魔が封印されていることなど、知る由もない。
封印された悪魔は、バルドルの献身的な祈りを感じながら、心の中で呟いた。
(まったく、アンタも、なかなか、大変みたいだなぁ……)
図らずも、自分と同じ領主に酷い目に遭わされてきた者同士の、奇妙なシンパシーのようなものが、バルドルの祈りを通して悪魔の心に禁じ得ず湧き上がった。悪魔に対して祈りを捧げるなど、常識的には言語道断。しかし、彼に対してだけは、悪魔の中に、なぜか説明のつかない慈悲の念が宿ってしまうのだった。
グルメギルドの本部に到着すると、堅牢な木扉の前に、見慣れない箱が置かれていた。
横にはメッセージカードが添えられている。バルドルはその書面を開いた。
バルドルさんへ――
新しい魔石ストーブを開発しました。是非、グルメギルドで使ってみて下さい。
――ラルフ・ドーソン
「ほぉ……。案外、気が利くこともあるじゃないか……」
思わず、独り言が漏れる。人を振り回す術だけに長けていると思っていた領主に、まさか心遣いがあるとは。
バルドルはすぐにそれを室内へと運び込んだ。この地下街は、季節や天候に左右されず一年中一定の気温を保っているが、冬場はやはり肌寒さを感じるものだ。
梱包を解き、説明書を読む。内部の魔石が魔力によって熱を発する仕組みらしい。魔導士ではないバルドルには詳しい理屈はわからないが、火を熾さずに熱だけを供給する魔道具のようだ。
彼は、魔石をコツコツと叩いて魔力同調を試みる。すると、魔石はふわりと柔らかな熱を帯び始めた。小さな取出口の扉を閉める。説明書によれば、このストーブの天板は熱くなるため、簡単な煮炊きが可能だという。
「ほう……。これはつまり、焼ける、ということか……。スルメや、モチもいいなぁ」
バルドルの頭には、静かなギルドの中で、ささやかな一人宴を開く自分の姿が思い浮かんだ。まだ誰も出勤してこない静寂の中、彼はふと物思いに耽る。
(案外、穏やかな日々ではないか……)
かつて商業ギルドのマスターだった頃、彼は若き領主ラルフの「グルメ革命」に付き合わされ、激務と過重労働に喘いだ。だが、今や商業ギルドから独立したグルメギルドの長。
昼時には、ギルド併設の小さな食堂の厨房に立ち、客に鍋料理を提供しなければならないという、謎の事態にはなっているが、それももはや慣れた。優秀な部下たちのおかげで、書類仕事はほとんど回ってこず、ひたすらハンコをポンポンと押す流れ作業があるだけだ。
しばらくすると、扉が開き、職員たちが出勤してきた。
「おはようございまーす」
「おはよう……、あれ? 暖か〜い」
職員たちは、すぐにラルフからの贈り物である真新しいストーブに気づき、暖気に包まれた。
朝礼などはなく、疎らに、各々が仕事を開始する。出勤早々、眠気覚ましの薬膳茶を買いに近くの屋台へ行くと出ていった者がいたが、誰も気にしない。この適度な「自由さ」こそが、このギルドの人員を安定させる魅力だと知っているのは、かつて人材不足に苦しめられたバルドル自身だ。
やがて、薬膳茶を買いに出た職員が戻ってくると、ギルド内部に、なんとも言えぬ、例えようもない、心地よい香りが広がった。
「深煎り豆茶、ここに置いておくんで、よかったら皆さんも飲んで下さい」
彼はそう言って、鉄製のポットをストーブの天板に載せ、自分のデスクについた。どうやら、皆の分を買ってきてくれたらしい。
(ふむ……気が利く……)
まだ手持ち無沙汰のバルドルは立ち上がり、その煎り豆茶を飲むことにした。東大陸から海賊公社が持ち込んだというこの煎り豆は、独特の渋みと酸味が利いており、眠気覚ましにはうってつけだ。しかも、まだロートシュタインでしか手に入らない貴重な品である。
バルドルは、湯気を吸い込む。その豊潤な香りは、王都の貴族すらまだ味わえない新しい美味だ。優越感とともに、ふとポットのことが気になり、豆茶が沸騰しないよう、天板の中央から端へとそっと寄せた。
その瞬間、コンコンコン、と、来客を告げるノックの音が響いた。
「むっ? 誰だ? こんな朝から……」
商人か、それとも観光客か。いくらなんでも時間が早すぎる。手持ち無沙汰のバルドルが対応するしかない。
扉を開けると、そこに立っていたのは……。
「ちわ〜、領主で〜す……」
目の下に濃い隈を作り、ひどく疲れ切った様子の、領主ラルフ・ドーソンその人だった。
バルドルは即座に反応した。
「間に合ってます……」
そして、扉を閉めようとする。
「ちょっと待って! ちょっと待って!! 厄介事じゃないから! 面倒くさいことないからっ!!」
ドアの隙間に、ラルフのブーツの爪先が差し込まれる。
「帰れ帰れ! 信じられるか?! また絶対に厄介事を持ち込む気だ! 俺は理解したぞ。貴様は、厄介事を持ち込まないと死ぬ病にかかっているんだ! そーだ、そーに決まっている!!」
バルドルは唾を飛ばしながら、渾身の力でドアを押さえつける。
ギルドの職員たちは、朝から繰り広げられる二人のドタバタ劇に、
(朝っぱらから……、うるせぇなぁぁぁ……)
と、激しくウンザリした表情を浮かべている。
「いやっ! 本当だってば! 仕事帰りに、空を飛んでたら、美味しそうな珈琲の香りがしたもんで……」
「はっ?」
バルドルは、怒りから呆けに転じた。
「ほら、実はデューセンバーグ伯爵もいるんですよ」
ラルフが後ろを指差す。バルドルが呆然とドアを開けると、ラルフの後ろには、やはり疲労の色を隠せないデューセンバーグ伯爵が立っていた。
「というか……。空? また、あのワイバーンに乗ってか?」
「そうっすよ」
「空の上にいて、この地下街の、豆茶の香りが? したと……?」」
「はい……」
平然と答えるラルフに、バルドルは愕然とする。その異常すぎる嗅覚は、もはや驚きを通り越して恐怖すら覚える。
ともあれ、貴族である二人の来訪だ。茶の一杯でも出すのが筋だろうと、バルドルは二人を招き入れ、応接用のソファに座らせた。
バルドルは、ラルフが「コーヒー」と呼ぶ煎り豆茶を、高級なカップに慎重に注ぎ入れると、デューセンバーグ伯爵の前に置いた。
「ささっ、どうぞ。お口に合えばよろしいのですが……」
敬意に満ちた態度で、伯爵に対して礼を尽くす。
「ふむ」
デューセンバーグ伯爵は、満足げにカップの芳しい湯気を深く吸い込んだ。
次に、バルドルはラルフの前に。
「ほらよっ」
と、カチャリと音を立ててカップを置いた。
「雑っ! 僕に対しては雑すぎるっ?!」
ラルフのツッコミがギルド内に響く。一応、彼も公爵家の人間なのだが……。
未知の琥珀色の飲料を口にしたデューセンバーグ伯爵は、しばし沈黙した後、目を見開いた。
「ほう……。これはまた、面白い味だなぁ。いや、しかし、やはりこれは、香りが素晴らしい……」
この輸入品を、伯爵はいたく気に入ったらしい。
バルドルは、またこれを買い付けたいという貴族たちからの書状が大量に届く予感に、少々恐ろしくなる。
「うん……。スッキリ、目が冴える……。でも、僕はちょっと、苦いかも。……バルドルさん、牛乳ないっすか? カフェオレにしたいんだけど」
とラルフ。
「は……カフェ、ん、何だと?」
またラルフがわけのわからないことを言い出したと、バルドルは困惑する。
すると、職員の一人が立ち上がった。
「あのー。ソレを買った屋台に、牛乳も置いてありましたよ」
その報告を受けた瞬間、ラルフの期待に満ちた視線が、バルドルの目を射抜いた。
バルドルは、不思議に思いながら職員たちを見渡す。
すると、職員全員が、バルドルに対して、何かを言いたげな含みのある視線を投げかけているのだ。
そして、バルドルは気づいてしまった。
「えっ? はっ?! 俺が、俺が買いに行かにゃならんのか?! 俺はギルマスなんだが?! その俺に使いっ走りをしろと?!!」
バルドルの魂からの焦燥と、絶望を含んだツッコミの声が、静かだったギルドに響き渡る。
また、このロートシュタインらしい、騒がしい一日が始まったことを告げるかのように……。




