298.オーバー・ミート
「へっ? 肉余り、そんなに深刻なの?」
ロートシュタイン領主、ラルフ・ドーソンは、耳を疑う言葉にポカンと口を開けた。その表情には、政策を司る者としての、ある種の狼狽が滲む。
「ああ。まったく、いい迷惑だぜ。これじゃあ、肉の値段を下げなきゃならん……」
肉屋のアントニオは、磨かれたカウンターに肘を突き、重々しいため息を吐き出した。その表情は、商売人としての切実な苦渋を物語っている。
「まあ、客たちにとっては、安くなるのは嬉しいだろうけど……。やっぱ、ある程度、物価は安定させたいところだねぇ」
ラルフの脳裏には、前世の経済学で学んだ、デフレ経済による様々な弊害が警鐘のように響いた。物価の下落は、一見すると恵みのように見えて、長期的に見れば経済活動を停滞させる毒になりうる。
「とにかく、手間が増えて仕方ねぇぜ。ギルドに持ち込まれる肉は、以前の二倍も三倍も増えてるって話だ」
アントニオは、苛立ちを隠せないように耳を掻いた。
「なるほどなぁ……」
ラルフは静かに納得した。ここ最近、ロートシュタイン領は、聖教国との交易と交流が急速に盛んになり、再び人口が急増していた。聖教国の農奴や、さらには聖剣騎士までもが、一攫千金を夢見てこの地に押し寄せ、冒険者の真似事をして金を稼いでいる。彼らはダンジョンに潜り、山に分け入って魔獣を狩る。その獲物は、当然、冒険者ギルドに持ち込まれるのだ。
ラルフの分析は瞬時に結論に至る。
現状は、供給過多。
消費が生産にまったく追いついていないのだ。
「で、ラルフ様。今日は何か買っていくのかい?」
アントニオが、商売人の顔に戻って尋ねる。
「一番余ってるお肉は、なに?」
「やはり、オーク肉だな」
魔獣の定番でありながら、豚肉に似た淡白な身と、上質な脂に定評がある人気の食材だ。
アントニオは、背後の保冷庫の重厚な扉を開け、顎をしゃくった。
ラルフがその中を覗き込むと、
「うっ……」
と思わず口元を押さえ、一歩後ずさった。
内臓を抜かれ、皮を剥がれた魔獣の肉。
人型を思わせるそれは、まるでホラー映画の一場面のように、ずらりと鉤に吊るされていた。
その光景は、フィクションではなく、現実としてラルフの目に飛び込んできた。
「また、まとめて買ってくれるなら、安くするぜ」
アントニオは、余剰在庫を一掃したい一心で声をかける。
「……う、うん。なんか、テキトーに見繕って……」
ラルフは、吐き気を懸命に飲み込みながら、腰のマジック・バッグをカウンターに置いた。
領主館に帰ると、裏手の勝手口で、ちょうど農家の少年セスが野菜の納品にやってきたところだった。
「よお……。セス、ありがとうね〜」
ラルフは、努めていつもの気さくさで挨拶を交わす。
「あ、はい。どうも! ラルフ様、なんだか、疲れてます? ……今日は、ハクサイが大量なんですよ。何か使えますか?」
セスは、少し遠慮がちに尋ねた。
「なるほど……。そういえば、東大陸から、白菜を輸入したんだったな……。まさに、今が旬か」
ラルフは呟く。
メリッサ・ストーン率いる海賊公社が、東大陸から買い付けてきた様々な野菜を、ロートシュタイン領の農家に卸し、試験的な栽培研究を続けていた。全てはラルフの思いつきで始まった事業だが、最近は「テキトーに勝手にやっといて〜」と領民に丸投げし、全員が呆れながらも、なぜか上手く回っているという奇妙な状況だった。
「不思議な野菜ですよね? やけに水っぽいし、あまり青臭くもなくて。だからといって、美味しいかと言われたら、よくわからないんですけど……」
セスは言いづらそうに、しかし正直な感想を述べた。
確かに、白菜は葉野菜の中でも水分量が多く、淡白な風味だ。香草のような劇的なバフ効果も無ければ、根菜ほどに食べ応えがあるわけでもない。
しかし、ラルフには、この淡白な野菜の真価を引き出す秘策があった。
「ふっふっふ……。白菜はなぁ、とっておきの相棒が必要なのだよ! その真髄を引き出す為にはな!」
ラルフは、肉が詰まった腰のマジック・バッグをポンと叩いた。その表情は、まるでいたずらっ子のようだった。
その夜、領主館の一室が居酒屋へと姿を変える。居酒屋領主館のサービスメニューとして、件の料理が供された。
"白菜とオーク肉のミルフィーユ鍋"
客たちがなだれ込み、いつもの喧騒がはじまる。真っ先に、セスの座るテーブル、その眼前に、湯気を立てる鍋がドンッと置かれた。
「さっ! 食べてみてくれ!」
ラルフは得意満面にセス少年に勧める。
セスは、目の前の鍋を見下ろした。
そこには、丁寧に折り重ねられた白菜と、ごく薄くスライスされたオーク肉。
具材は、その二つだけのようだ。そして、スープは、まるで水のように透き通っている。
セスは、なんだか違和感を覚えた。この居酒屋領主館で供される、絢爛な美食たちに比べて、あまりにも簡素だ。彩りも、薄緑と薄茶色のみで少ない。
彼の好物である、ラーメンやカレーチャーハンは、まるで絵画の如き色彩調和を描き出すが、この料理は、質実剛健という言葉が相応しい。
しかし、どうしてか、そこから立ち昇る湯気は、甘く、そして僅かに海の香りを纏っている。たまらないほどに、彼の腹が「ぐぅぅぅぅ」と大きく鳴った。
「タレは、特製ポン酢と、胡麻ダレな!」
ラルフは小鉢を二つ置いた。このタレに、具材を浸してから食べるという。それは、ソバやツケメン、サシミといった、ロートシュタイン料理の流儀の一つであることを、セスは既に理解していた。
彼は最近使い始めたハシを持ち上げる。
ラルフやスズ、そしてファウスティン公爵が、この細い二本の棒を駆使して優雅に料理を食べる姿に憧れ、密かに練習していたのだ。
そして、居酒屋領主館の流儀に従い、
「いただきます!」
と手を合わせ、儀式を執り行う。
鍋の中から、煮込まれてクタクタになった白菜と、脂が適度に落ちたオーク肉を掴み上げる。
まずは、ポン酢ダレだ。
セスは、タレはあまり多くつけない方がいい、という美食の哲学を学んでいた。
以前、ファウスティン公爵が、
「"蕎麦を食う時、汁を浸けるのは、三分の一程度だ。……わかってねぇなぁ〜"」
と、酔った赤ら顔で隣の冒険者に謎のコダワリを語っていたのを、彼は目撃していた。
セスは、肉と白菜をちょいとポン酢に潜らせ、パクリと口にする。
すると、
「んんんんんっ!? んんんんんんんっ!!!!」
彼は、まるで感電したかのようにパニックに陥った。
「ど、どうしたっ?! セス!! 熱かったのか?!! 喉に詰まったのかっ?!!!」
ラルフが慌てふためく。
「モグモグ、ゴクンっ! はっ! ……死ぬかと思った……」
セスは咀嚼し、嚥下し、何故か呆然としている。
「だから、何?! どうしたのさっ?!」
ラルフはなおも慌てて彼を揺するが、
「ラルフ様、美味しすぎて、死ぬところでした。……白飯も、下さい」
セスは、静かに、しかし確固たる声で呟いた。
「あっ……。うん。はいよ……」
ラルフは、彼に白飯をよそってやる。セスは、ご飯の到着を待たずして、もう一つの胡麻ダレも試す。
パクっ!
口に広がるのは、オーク肉の脂の野性味、そして熱を加えることで極限まで引き出された白菜の純粋な甘み。それらが、胡麻ダレの持つ甘く豊潤な大地の恵みと結びつき、まるで旨味の津波のように襲いかかってくる。
セスは、もう箸が止まらない。
ラルフの思惑通り、嵐のような注文が飛び始めた。
「お、俺も、くれー!」
「それには、辛いタレなど、あったりするのか? ……えっ! あるの?!!!」
「私達も、ミルフィーユ鍋下さーい!」
セス少年が恍惚の表情でがっつく様を見ていた客たちから、案の定、嵐のようなオーダーが巻き起こった。
(これで、肉余りの状況が、少しは改善されればいいが……)
ラルフは物思いにふける。
しかし、そんな彼の思考を中断させたのは、セス少年が放った、とんでもない一言だった。
「僕も、冒険者になれば、毎日オーク肉が食べられるのでしょうか?」
一瞬の沈黙、そして……。
「いや、いやいやいやいや! セスは、親父さんを継いで、農家やるんじゃないの?!」
ラルフは内心、焦りを覚えた。
これ以上、肉の狩人が増えては、供給過多が加速してしまう。
しかし、近くのテーブル席にいた冒険者ギルドのマスター、ヒューズが、それを耳ざとく聞きつけ、
「おっ! セスも、冒険者になるのか?! 歓迎するぜ! 明日、ギルドへ来な! 早速、登録しよう!」
と、また厄介な火種を撒き散らし始めた。
「ヤメてー! 冒険者は危ないから! ねっ! ねっ?! 考えなおそう?! ドッヂさんが心配するから!」
ラルフはセスを諭すが、
「ラルフさまぁ。こちとら、人材不足なんですよぉ〜」
とヒューズは嘯く。
(なんで、肉が余って、冒険者が足りていないんだ?!!)
需要と供給の不一致という、この経済学的理論の不可思議さは、ラルフの頭脳をもってしても、この世界の最も大きな謎の一つであった。




