295.コーラ
領主ラルフ・ドーソンは、午前中の煩雑な書類仕事を片付け、ようやく一息ついていた。重厚なオーク材の執務椅子に深く身を沈め、窓の外に視線を送る。
暦の上では、既に冬は間近のはずだ。しかし、このロートシュタインの空は、まるで時を忘れたかのように晴れ渡り、穏やかな晩秋の陽射しが、街を優しく抱きしめている。
通りには、冬支度に追われる人々の活気あるざわめきが満ち、行商人たちの「薪はいらんかね!」「質の良い炭だ!」という声が響いていた。
ラルフの領するロートシュタインは、各国との貿易が盛んな交易地としての役割を担っている。その恩恵は大きく、食糧が底を突くなどという、他領で聞かれる冬の懸念とは無縁だ。その確かな安心感が、彼の心を穏やかにする。
ラルフは両腕を天に向け、大きく、そして心地の良い音を立てて伸びをした。凝り固まった背筋が解放される。
(そろそろ、メイドのアンナに、温かい紅茶でも頼むとするか……)
そう思案した、まさにその時だった。
窓の外の、静謐な青空を切り裂くように、一つの影がよぎった。直後、それはまるで雷鳴のような、耳を劈く絶叫へと変わる。
「ギャァァァぁぁぁぁぁぁあ!!!」
そして、ドスンッ! と、地を揺るがすような重く不格好な着地音。
ラルフは、思わず苦笑を漏らした。
(やれやれ……今日もまた、レッドフォードの背に乗った聖女様たちが帰還したか)
近頃、彼女たちは聖教国とロートシュタインを、文字通り空から行き来している。
その目的は、チーズをはじめとした並行輸入品の運搬。彼女たちは、空を駆ける運び屋と化していた。
ラルフは「無理はしなくていい」と再三伝えていた。だが、彼女たちには、労働によって賃金を得るという、勤労意欲なのか、それとも純粋な金銭欲なのか、判別しかねるほどの強い推進力が働いているようだった。
その喧騒が収まるのを待たず、コンコンコン、と控えめなノックが響く。
「どうぞ」
ラルフが入室を許可すると、カチャリと戸が開き、
「旦那様、紅茶をお持ちしました」
メイドのアンナが、ティーポットとカップが載った銀のトレーを片手に、静かに立っていた。その気の利きようは、最早、心を読む魔法のようだ。彼女の完璧な仕事ぶりに、ラルフは心の中で最大級の賛辞を贈る。
「ありがとうな!」
椅子に座り直したラルフの目の前に、ソーサーが置かれる。そして、その白磁の上に、いつもと違う"黄色い欠片"があることに気がついた。
「これは、レモンか?」
「はい。裏のリグドラシルから収穫できたので、レモンティーでもと……」
領主館の裏にそびえる、正体不明の巨大な樹、リグドラシル。魔導研究者として一流のラルフですら、その詳細を一切解明できていない、謎の塊である。
(もう、さすがに謎すぎて草生えるレベルだ)
ラルフは苦笑しつつも、とりあえず思考を放棄した。
「なるほど。気が利くなぁ」
彼が、その鮮やかな黄色い欠片を指先でそっと摘まんだ、その刹那――。
チリリッと、鋭い痛みが脳裏を走り抜けた。それは、前世の記憶の、強烈な閃きだった。
✢
その夜、ラルフが趣味で開いている居酒屋領主館のメニューに、新しいドリンクが加わった。それは、ソフトドリンク。
その告知を見た客たちが、ざわめく。
「なんだ? コーラ? 酒じゃないのか? なら、セスも飲めるな!」
力自慢のドッヂが、好奇心に満ちた息子のセスに勧めた。
「コーラだって、なんだろうこれ?」
「どうする? 注文してみる?」
「お金はあるし、頼んでみる?」
聖教国からの出稼ぎ組である、幼い冒険者のスヴェン、ポラリス、セリナの三人が、初めて聞く名に目を輝かせた。
彼らは、ギルドの酒場の給仕や、ラルフから委託された地下街の管理業務で生計を立てている。
「よう! お前ら、奢ってやろうか?」
ギルマスのヒューズが、太っ腹な声をかけると、三人は恐縮しきりだ。
「はいよ。コーラお待たせ!」
ラルフがカウンター越しに差し出したのは、特製のクラフトコーラ。
それを、カウンターでカレーピラフを頬張っていたエリカが、興味津々で受け取る。
「モグモグ……。へぇ〜! キレイじゃない! 宝石みたいねぇ」
咀嚼を中断し、エリカはグラスの中で、シロップと炭酸水が織りなすグラデーションに見惚れた。元貴族の令嬢であった彼女にとって、このような輝きは、本能的に心を惹きつけるのかもしれない。
「マドラーで、混ぜてから飲めよ」
ラルフの声に促され、エリカは少し勿体なさげに、慎重にその美しい色彩の崩壊を許した。マドラーを中心にクルクルと渦を巻く液体は、まるで清らかな泉の水と、濃紺の宵闇が混ざり合うかのような、幻想的な光景を呈した。シュワシュワと下から湧き上がる無数の気泡は、まるで逆さまに昇っていく雨のように、彼女の目に映った。
「コーラってやつ、俺にもくれ!」
「ねぇ! コーラって、焼酎で割ったらどうなの?」
「いや、蒸留酒の割り物としてのポテンシャルは、かなり高いんじゃないか?」
未体験の味に対する興味と、更には酒と混ぜる割り物としての可能性を見抜いた客たちから、嵐のようなオーダーがカウンターに押し寄せる。
ラルフは、その光景にニヤリと、満足げに微笑んだ。
(やはり、この異世界でも、コーラの魔力は侮れない)
彼が前世で知っていた、洗練された工業的な味には遠く及ばない。
しかし、リグドラシルから収穫した柑橘類、そしてエリカから分けてもらったシナモン、クローブ、ショウガ、コショウ、ナツメグといった多種のスパイス。それらをハチミツと共に煮詰めたシロップを、炭酸水で割るという、現時点で彼が持ち得る知識と材料の全てを注ぎ込んだ、世界初のコーラが、今、この異世界に誕生したのだ。
「シュワシュワ〜!」
「ぷはぁ~! 爽やか〜!!」
歓喜の声を上げているのは、居酒屋領主館の看板娘、ミンネとハルだ。
アルコールを完全に抜いたフレーバービールの開発にも成功していたが、子供たちにとって、この甘味と刺激は極めて好評なようだった。
この夜を境に、ロートシュタインを中心に、爆発的な勢いでコーラブームが巻き起こった。
「こ、コーラをくれぇ!」
「瓶を持ってきた! これに入るだけ売ってくれー!!」
コーラ中毒者、とでも呼ぶべき熱狂的なファンを、次々と生み出してしまったのだ。
確かに、この世界には、ラルフの前世にあったような自動販売機やコンビニエンスストアといった、文明の利器は存在しない。このコーラという新たな清涼飲料は、このロートシュタインの「居酒屋領主館」を訪れなければ手に入らない、希少な存在となってしまった。
その結果が、この熱狂である。
「あー! もう、わかった! 書く、書くから!」
押し寄せる需要の波に、ラルフはついに折れた。
彼は、このクラフトコーラのレシピを執筆し、ロートシュタイン出版に書籍化を依頼することを、即座に決意したのだった。




