292.伝説の夫婦喧嘩
セスが後年「伝説の夫婦喧嘩事件!」と呼ぶことになる大喧嘩から数時間。
ドッヂは、傾き始めたものの未だ日差しの穏やかなロートシュタインの市街地を、背中を丸めて歩いていた。
まだ冬の気配が薄い、温室のような日差しは、彼の荒れた胸中とは裏腹に、世界を優しく照らしている。
ことの発端は、魔導車:ネクサス4の衝動買いだ。
領主ラルフ・ドーソン卿の主導で大規模農耕へと切り替えた家業の農園は、導入した魔導機械の恩恵もあり、まさに破竹の勢いで利益を上げ始めていた。未来への光明が見えた矢先、「これなら、いける!」と、ドッヂは妻に一言の相談もなく、最新鋭の魔導車を契約してしまったのだ。
そして、始まったのは、地獄のような修羅場だった。
農村中に響き渡る、犬も食わぬ夫婦喧嘩の罵詈雑言。
その余韻というか、居心地悪さから逃れるように、ドッヂは家を飛び出し、当て所なく街を彷徨っていた。
酒でも呷って気を紛らわせたいが、領主ラルフが経営する居酒屋領主館の開店時間にはまだ早い。
(もしかしたら、あの心優しい領主様なら、俺一人くらい、こっそり店に入れてくれるんじゃねぇか……?)
そんな厚かましい希望が一瞬脳裏をよぎったが、すぐにその考えを振り払う。
「いや、さすがにそれは図々しいよな……」
途方に暮れ、盛大なため息が一つ、冬を待つ乾いた空気に溶けた。
「はぁ〜。……いや、そりゃあ、俺だって言い過ぎたけどよ……」
脳裏に浮かぶのは、妻の顔だ。
若い頃の面影を残しつつも、子を産み、少々ふくよかになった彼女。
だが、ふとした瞬間に見せる可愛げは、今もドッヂの胸の奥に、あの頃の甘酸っぱい恋慕を呼び起こすことがある。
そんな感傷に浸りながら道端に目をやると、彼の目は見開かれた。信じられない光景が、目の前で繰り広げられていたからだ。
「あ~あ~。陶芸なんて、もうやってられるかよぉ〜。もうネタ切れだってのぉ〜。なのに、アイツらときたら、もっと派手なデザインにしろだとか、聖杯と同じモノを作ってくれ、だとか……。こっちは素人だぞぉ」
酒を傾け、管を巻く一人の男。その顔は、他ならぬロートシュタインの領主、ラルフ・ドーソンその人だった。
「えぇぇぇぇ?! 領主さま?!」
ドッヂは思わず驚愕の声を上げる。
「んんん~? おやっ! ドッヂさん。どしたの? こんなところで?」
少々顔を赤らめたラルフが、間の抜けた声で応じた。
「いや、領主様こそ、どうしたんです? こんな真っ昼間っから……」
ドッヂの疑問に対し、ラルフは平然と答える。
「あー。今日は僕、休みだからさ。冒険者ギルドで、新米冒険者に絡んでたら、ヒューズに追い出されてよ〜」
(何をやっているんだ?! この領主様は!!)
ドッヂは思わず、心の中で絶句した。
公爵であり、この街の領主である彼が、用もなく冒険者ギルドで遊び、ギルドマスターに追い出されている。もっと、威厳や格式といったものは無いのか?
疑問が渦巻く中、ラルフは屋台の店主に声をかけた。
「パメラっ! レモンサワーおかわり!」
すると、屋台の主人、ポンコツラーメンのパメラは、空のグラスを受け取りながら、しれっと説教を始める。
「ハァ……。ラルフさま。ウチは、ラーメン屋であって、飲み屋じゃないんですよぉ……」
確かに、メニューには酒もあるが、あくまでここは麺料理屋であり、飲み屋ではない。
それは、領民と領主の間の、暗黙の配慮と不文律の領域だ。だが、この自由すぎる領主は、その領民たちの優しさに、少々甘えている節がある。
しかし、それはお互い様。この自由闊達な気風は、領主ラルフが作り出したものに他ならない。
それを知ってか知らずか、ラルフは、麺料理を注文する。
「じゃあ、ナポリタンのミニ、ちょうだい! あと、レモンサワーね!」
「わかりましたよ! ……もう、しょうがないんだからぁ……」
パメラは呆れつつも、グラスを受け取った。すると、ラルフはドッヂに向かって、またも信じられないことを言い出す。
「ドッヂさんもどう? 一緒に飲まない? 一人で飲んでるのもさぁ。なんか寂しいんだよね〜」
(貴族が、なぜ一人で、庶民の店で、酔っ払っているんだ?)
そう思う反面、ドッヂはその提案に、少しだけ救われた気がした。今の彼は、妻から逃れるように、家を飛び出してしまい、あまりに所在なさすぎる。
「すまんが……。俺にも酒と、ラルフ様と同じ、ナポリタンをくれ」
「かしこまりましたー!」
麺を茹でていたマジィが、軽快に応える。
こうして始まった、男二人の酒盛り。
レモンサワーの軽やかな酒精にドッヂはつい口が軽くなり、事の成り行きをラルフに話し始めた。顔を赤らめながらも、ラルフは「ふむふむ……なるほど」と、真剣に耳を傾けてくれる。
そして、
「まあ、……車とかの男の趣味って、女性には理解し難いっすからねぇ。よくある話っすよ〜」
妙に含蓄深いようにも聞こえるが、ペラッペラに薄い、テキトーなことを口にした。
その瞬間、近くの屋台の席から非難の声が上がった。
「ラルフさまー! 男とか女とか、関係ないでしょ?!」
「そうよそうよ! 私達だって、魔導車の購入手続きの最中なんだから!」
「女の人でも、魔導車運転する人、カッコいいと思いますよ」
クレープを頬張りながら、じっとりとした目をラルフに向けるのは、聖女三人衆だった。
この世界にも、"ジェンダー・ステレオタイプ"に対する目は厳しいらしい。
ラルフは思わずたじろぎ、深く反省した。
そして、そっとドッヂに耳打ちする。
「あー。ドッヂさん。これ飲んだら、店、変えましよ」
下手なことは口にせず、そそくさとレモンサワーとナポリタンを平らげた二人が次に訪れたのは、もっとざっくばらんな、裏路地の屋台だった。
「ここはね、冒険者ギルドの前マスターが開いた店なんだ!」
ラルフは得意げに教えてくれた。
暖簾を潜ると、見覚えのある髭面の美丈夫が、大鍋をかき混ぜながら「いらっしゃい!」と迎えてくれた。
彼はロートシュタインの屋台文化に感化され、冒険者を引退し、今は屋台の店主をやっているという。
「今日は、ふろふき大根、肉餡掛けだよ!」
差し出されたツマミは、透き通るほどに煮込まれた大根に、とろりとした餡がかけられた一品。たっぷりと混ぜ込まれたそぼろ肉の濃い味が、まるで肉料理のような満足感を与える。
ドッヂは米酒を注文し、馴染みのない《ふろふき大根》を口にした。
「うぉっ! うんんんまっ!」
思わず賛辞が口をつく。米酒の強い酒精が、再びドッヂの口を軽くさせた。
「俺さぁ。言っちゃならねぇこと、おっ母ぁに言っちまってよ〜」
「なに? なんて言ったの?」
「"お前は、俺の稼ぎで食ってるんだろ? なら、俺に文句言うんじゃねーよ!" って……」
その言葉を聞いたラルフは、頭を抱える。
「うわぁぁぁ、最悪だねぇ〜。ダメだよ……。だって、奥さんが頑張ってるからこそ、ドッヂさんが安心して仕事に打ち込めてるわけじゃん?! なんで、それがわからないの?!!」
「い、いや……。わかってるんだよ。そんなこと、よくわかってる……。だけどよぉ。……なんていうか、素直になれねぇ、っていうか……。いざという時、思ってるのと、違う言葉が出ちまうっていうか……」
ドッヂは、酔いが回った頭を抱え、うめいた。
「いや、気持ちはわかるよ! 僕ら男ってさぁ。なんか、期待しちゃうんだよね〜。言葉なくとも、理解してくれてるんじゃないか……って。でも、それが言葉足らずなんだよ! 女の人にとっては……」
「おぉぉぉぉ! ラルフさまぁ!! 心の友よー!!!」
ドッヂは泣きながら、ラルフに抱きついた。
さすがに、酔いすぎである……。
店主は何も言わず、二人の酔っ払いの人生相談を見守っていた。
ちなみに、熱弁を振るうラルフは、――独身である。
彼らは、男女の価値観の相違に基づく謎の人生相談を、うんうんと頷きながら繰り広げていた。
それから、ついに開店時間を迎えた居酒屋領主館へと二人は移動し、さらにしたたかに酔うまで飲みに飲んだ。
冒険者たちに囲まれ、気分が大きくなったドッヂは、
「ハーハッハッハッハ! あんなヤツ、離婚してやるぜー!!!」
と絶叫し、騒ぎ、そして潰れた。
夜半過ぎ。
居酒屋領主館の、店の明かりが漏れる暖簾の下に、一人の女性と息子セスの姿があった。ドッヂの妻だ。
腕を組み、勇ましく立つその姿に、さすがのラルフも酔いが引いた。
「領主さま! ウチのあの"バカ旦那"を迎えに来ましたよ!!」
彼女の怒鳴り声に、ラルフは冷汗をダラダラ流した。
しかし、ラルフには別の疑問が湧き上がった。
「えっ?! あのぉ、農村から、割と距離ありますよねぇ? あれ? もしかして、セスが魔導車を運転してきたの?」
問われたセスは、なんだか気まずそうにオドオドしている。
すると、彼女は堂々と宣言した。
「運転の方法は、セスから聞きました。あのバカ! が買った、ネクサス4を、私が運転してきました!!」
ベンチに酔いつぶれ、いびきをかくドッヂのところへ案内すると、驚くべきことに、彼女は旦那の腕を掴み、ひょいと背負ってしまった。
そして、ズルズルとドッヂの足を引きずりながら、後部座席に、屠殺された牛のように投げ入れた。
一応、マズいことにならなければ良いが、と成り行きを見守ろうと外に出たラルフは、なんとも言えない光景を目撃する。
酔いつぶれたドッヂの顔に、妻はそっと顔を近づけ、
「本当に、アンタは……相変わらずだよ。……いつまでも、バカなんだから。もう……ねぇ……」
なんだか艶っぽい声で囁くと、旦那の汗で乱れた前髪を、ササッと整えた。
そして、
「領主様。ご迷惑かけましたねぇ」
そう一言告げ、彼女は運転席に乗り込む。セスは慌ててラルフに頭を下げた。
まだ、頭に酔いが残るラルフは、この夜空の下で垣間見た、ほんの僅かな夫婦の物語が、あまり理解できていなかった。
魔導車:ネクサス4が走り去る後ろ姿を見届けていると、傍らに控えたメイドのアンナが、いつもの無表情で呟いた。
「良いご夫婦ですね……」
ラルフは、それには何も答えなかった。
やはり、今日は飲み過ぎたようだ。
昼間から飲み、ドッヂの愚痴に付き合い過ぎた。
しかし、遠くに去っていくテールランプは、あの家族の未来へと、どこまでも続いている気がした。
それから、しばらく後。
野菜の納品に居酒屋領主館を訪れたセスから、
「僕に、弟か妹ができます!」
と、とても嬉しそうに、母親の懐妊を告げる。
無邪気な報告を受けたラルフは、
(男女の仲は、複雑怪奇だなぁ……)
と、思うしかなかった。




