279.幼き淫夢の生
深淵より生まれ出でた幼き淫魔は、飢えた本能に従い、獲物――人の香りに誘われ、帝国領の最果てに位置する小さな農村に辿り着いた。百にも満たない住人が暮らす、山間の盆地だ。
果樹園の白い花々が咲き乱れ、樹木の影が濃い迷路の中で、彼女は生まれて初めて、一人の人間の男の子に出会う。
「君、どこの子? この村の子じゃないよね?」
太陽の光を透かすような透き通る金髪、好奇心に輝く鳶色の瞳。十歳にも満たない快活そうな少年は、少し日に焼けた健康的な頬を緩め、不思議そうに小さな首を傾げた。
その瞬間、幼きサキュバスの心臓が甘い予感に震える。打算でも策謀でもない、それは魔としての性に根ざした、純粋な本能。この少年こそ、記念すべき初の獲物だと、彼女は認定した。
「ねぇ、アナタ……私のこと、好き?」
夢の中で響く妖精の誘いのように、澄み切った声が少年の耳元をくすぐる。
ドクリッ!
少年の心臓が不規則に、だが、これまでにないほど大きく脈打った。鳶色の瞳孔が見開かれ、彼の意識は甘い毒に搦め捕られる。
「う……。うん……、好き……だよ……」
その、純粋で、抗いがたい愛の告白を聞いたサキュバスは、歓喜に唇の端を吊り上げ、ニヤリと嗤った。それは、獲物を手に入れた魔の満面の笑み。
その日から、二人の秘密の密会が始まった。逢瀬と呼ぶにはあまりに幼い二人。場所はいつも決まって、白い花を咲かせた大樹の濃い影。二人が初めて出会い、そして、サキュバスが彼の魂に最初の楔を打ち込んだ、聖域だった。
しかし、甘い時間は、永遠ではなかった。
日に日に、息子の頬が痩せ、眼差しから生気が失われていく異変に、少年の父親が気付いたのだ。そして、ある農作業の最中、不審な挙動で村の中からコソコソと抜け出す息子の後を、息を潜めて尾行した。
その夜。
幼きサキュバスは、半死半生の体で、あの村から逃げ出した。
「……なんで? なんで私をイジメるの……。おかしいよ。だって、あの子は……あの子は私のこと、『好き』って言ってくれてたのに……」
彼女を追い詰めたのは、少年の父親が助けを求めた教会の司祭だった。
その司祭は、村の者には知られていない、優秀な退魔師。聖なる浄化魔法による奇襲は、幼き彼女の魔力をほとんど奪い去るほどの威力だった。
そして、農民たちは、愛する息子を蝕まれた怒りから、鍬や獣用の槍を手に、夜通し山狩りをはじめた。暗い森の中、無数の松明の火が、逃げ惑う彼女を追い詰めていく。
その絶望的な逃走の最中、彼女の耳に届いたのは、あの少年が大人たちに必死で懇願する、悲痛な叫びだった。
「やめてっ! やめてよ! あの子は悪い子じゃないんだっ! ねぇ!! お願いだからっ!!!」
(そうだよ……。私は、悪い子じゃないもん……)
心の中でそう言い募りながら、幼いサキュバスは、闇の中をひたすら逃げた。
行き着いた先は、帝都の歓楽街の裏路地だった。
人間に追われる恐怖と魔力枯渇の疲労から、薄汚れた路上の一角で、ボロ切れのような衣装を纏い、蹲っていた。
その時、一筋の光が差した。
「おや〜。貴女、同族じゃない? どうしたの? こんなところで〜」
声をかけてきたのは、綺羅びやかなドレスを纏った女性。
幼きサキュバスは、怯えからビクリと身を震わせる。
「そんなに警戒しなくてもいいわよ〜。私も、貴女と同じだから〜」
そう言って、彼女は人間への変化を解いた。そこに現れたのは、まさに淫魔としての大先輩。威風堂々とした立派な蝙蝠のような翼、そして、男の欲望を掻き立てるために最適化された、豊満な体躯。そのすべてが、彼女の同族であることを雄弁に物語っていた。
「……私と、同じ……」
幼きサキュバスは、途切れ途切れに呟いた。
「あら〜。貴女、随分幼いのねぇ〜。行く宛がないなら、私達の所に来なさいな〜」
誘いの言葉は、絶望の淵にいた彼女にとって、まさに蜘蛛の糸だった。
彼女――先輩サキュバスは、帝都の裏路地で、人間に成りすまし、娼館を営んでいた。そこで働く女たちも、全員が彼女の同族。
幼きサキュバスは、その日から一員となり、生きる術を先輩たちから貪欲に学んでいった。
男を誘惑する言語術。
人間の欲望の多様さ。
そして、何よりも退魔師の厄介さ……。
それを聞くたびに、彼女の胸の不安は膨らんだ。
「この場所は、大丈夫なんですか?」
「ん〜? 大丈夫よ〜。派手にやらなきゃいいのよ〜。獲物は生かさず殺さず……。甘い夢を見せながら、ちょ〜っとだけ、精気を頂く。これがコツよ〜」
先輩の言葉は、幼い彼女に妥協と生存の技術を教え込んだ。
しかし、十年後。その娼館は、大教会の襲撃を受けた。
帝国と聖教国の通商条約の一環として、時の皇帝が帝都に蔓延る暗部を良しとしなかった、と聞かされた。だが、彼女は人間社会の複雑な事情など知る由もない。娼館に身を潜めていたサキュバスたちは、散り散りになり、必死に逃げ惑った。
二つの満月が夜空に浮かぶ、薄暗い森の中で、かつて自分を拾ってくれた、あの先輩サキュバスに問いかけた。
「なんで。私達は、嫌われるの?」
ぜいぜいと荒い息を吐く、老齢の淫魔は、うわ言のように答えた。
「なんでだろうね〜。人間の、偉い人がそう決めるんだよ〜」
彼女は、聖教国の神官による聖なる浄化魔法で、片腕と片方の翼を失い、酷い姿になっていた。
「偉い、人?」
彼女にはその言葉が深く理解できない。
「そ〜。偉い人ぉ〜。人間って、国っていうの、作るのよ〜。その群れを作った人の言う事が、すべてなんだってぇ〜。ケッケッ、可笑しいよね〜」
老齢のサキュバスは、諦念を吐き出す。
「その、偉い人が、私達のこと、嫌いなんですか?」
またも、核心的な疑問が湧き上がる。
「……そんなの、わかんな〜い! 二百年もサキュバスやってるけどさぁ〜。あいつらの考えること、ホントわかんないのよね〜。……私達のこと、都合よく使ったりするクセにさぁ、ある時突然、"お前らは邪悪だぁ"ってさ……。もう、わけわかんないし……。付き合ってらんないよ〜」
酷く冷めた目で、人間たちを嘲笑うかのように答えた。
「……じゃあ、……じゃあ……。私達って、なんで生まれてきたんですか?」
泣きそうになりながら質問したが、先輩の瞳から光は失われていく。
「……わかんな〜い……。って、ごめん。……私、もう、ダメだわ〜。なんか……。疲れちゃっ……」
そう言い残し、彼女の身体はサラサラと白い塩となって、崩れていった。魔の生命が、聖なる力によって完全に浄化され、消滅したのだ。
また、幼きサキュバスは、一人ぼっちになってしまった。
これから、自分はどうすれば良いのか、道筋が見えない。
ふと、脳裏に浮かんだのは、あの娼館での、失われた日々。
先輩たちが騒がしく話していた言葉。
「東大陸のサルマ国って、悪魔に乗っ取られたらしいよ〜」
「え〜、ウソ〜。なら、ウチらも、国、作っちゃう〜?」
「人間がさぁ、馬とか牛を飼うみたいに、ウチらが人間を飼ってさぁ〜」
騒がしくも、楽しく、充実した日々。
あの場所は、聖教国の神官たちによって、帝国のわけのわからぬ偉い人達の都合によって、
失われた――。
ならば、やることは、一つ。
――自分が、国を作ればいい。
できることなら、自分たちを脅かす聖教国を乗っ取る。
サルマ国を意のままに操ったという悪魔のように……。
自分が、――"偉い人になればいいのだ"……。
その結論と、燃えるような決意を胸に、幼き淫魔は、聖教国を目指し、暗い森を後にした。
そして、今――。
彼女の緻密な生存戦略は、またしても一人の偉い人によって脅かされていた。
王国の公爵の位と、大魔導士の称号を持つ、ラルフ・ドーソンという名の人物によって……。




