264.自由意思の反旗
改築を終えたばかりの応接室は、豪華絢爛たる輝きを放っていた。
木造でありながら、従来の様式を打ち破る曲線的な意匠を持つ前衛的な新居は、この聖教国において、まさに最先端の建築美と言えた。
その主、ロジオン・ヴァールは、琥珀色の火酒を立て続けに呷り、既にしたたかな酔いに身を委ねていた。
手にした精巧なガラス細工は、遠く王国のロートシュタイン領から輸入された逸品だ。この数日で急増したコレクションは、最高級のトレント材で作られたキャビネットに、ドワーフ職人謹製の綺羅びやかな光を放って並ぶ。
それらをこの地に齎したのは、目の前の革張りソファに深く腰掛ける大商人、ジョン・ポールその人であった。
彼はワイングラスを揺らし、眼鏡の奥で不気味な光を宿した瞳をロジオンに向け、口を開いた。
「また、娘さんが聖女に認定されたそうではありませんか?」
その声音は、賛辞とも皮肉ともつかない響きを帯びている。ロジオンは、酒気に満ちた重い溜息と共に答えた。
「また……か……。そうだな、今度は、ヘストナの番か……」
「先の聖女、マルシャ様のことは、……私も非常な心痛を覚えました。心よりお悔やみを申し上げます……」
ジョン・ポールの追悼の言葉は、酷薄なほど平坦だった。
「ふんっ、それも聖女という使命だ。覚悟はしていた。……しかし、……しかし魔獣に食われた、と……。ふざけている。まったく、ふざけている……」
ロジオンは、呪詛めいた低声で、憐れみと憤りが混ざり合った感情を吐き出した。
「しかし、マルシャ様に続いて、ヘストナ様まで聖女を輩出されたヴァール家の御威光は、この聖教国では、さらに盤石なものになるではありませんか……」
「そうだ……。その通りだ……。トーヴァ、マルシャ……。そして、ヘストナに……。ふふ……、ふふふふっ……、あっはっはっはっはっはっはっはっは!!
また大教会から神官が金貨が詰まった袋を持って、ヘストナを迎えにくるのさ!!! ジョン・ポールよ! また何か買ってやるぞ!! 魔導車がいいか? それとも別邸でも建てるか? いいや、妻に宝石でも買ってやるか?」
ロジオンの口から、先に"死んだことになっている"娘、トーヴァの名が出た瞬間、ジョンの目が一瞬だけ鋭く光った。農奴の娘に産ませた婚外子であるトーヴァ・レイヨンすら、この荘園主は自分の娘と自認しているようだ。
(彼に知らされていない事実。トーヴァもマルシャも、今は王国のロートシュタイン領で、案外、元気に、楽しそうに仲良く暮らしている。冒険者ギルドで治癒係や、居酒屋領主館の給仕を手伝い、ドワーフ達と謎の蒸留音頭を踊りながら、生計を立てているのだ……。)
「クックック……。やはり、ロジオン殿は、私が見込んだ通りのお人のようだ……。自分の子供さえ、売り物にしてしまうんですから……。いやはや、商売人として、私も見習わなければ!」
ジョン・ポールは、大袈裟に両手を広げ、彼の冷血さを讃えた。
「ふっふっふ……。なんでもかんでも、貨幣に置き換えられる。それが、貴様が言った、"資本主義"だろう? たとえ、娘だろうと……、金になる……」
ロジオンはそう言って、グラスの琥珀色の液体を一気に飲み干すと、震える手をテーブルの上のボトルへと伸ばした。ジョン・ポールは慌てたようにボトルを手に取り、彼のグラスに注いでやる。
「今宵は、それくらいにしておいたらどうです。少々、飲み過ぎですよ」
「何を言っておる! また、私の娘が、聖女に認定された、めでたい日なのだ。また! 私の! ……この私の娘が!!」
ロジオンは勢いよく立ち上がり、狂乱にも似た熱狂的な声で叫んだ。
「女神リュシアーナ様! ご加護を! この聖教国に、未来永劫の安寧を! そして、このヴァール家の繁栄を!!」
その酔いと興奮に歪んだ姿を目の当たりにしながらも、ジョン・ポールは平然とした笑みを貼り付けたまま、心の奥底で荘園主に断罪を下した。
(……有罪……。こいつも、ロートシュタイン送りだな……)
家族を金に換えることを嬉々として行うこの狂った支配者には、再教育が必要だろう。そう決意し、ジョンは皮肉を口にした。
「また、出直しますよ。……"娘さんを売った金が"入った頃にね……」
一流の商人としては失言だが、この愚かな男は酔いすぎて覚えていないだろう、とジョンはソファから立ち上がる。
「ハッハッハッハッハッ! 馬も売れたからなぁ! 何故かエリカ殿が買ってくれたから! 次はヘストナだ……。また、また……。金貨が、……金貨が、……………………金貨がぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
ロジオンは、もはや理性の箍が外れたように、おかしくなっていく。
喚き散らし、涙を流し始めた彼の姿に、流石のジョンも眉間にシワを寄せる。
「あ、あの……ロジオン殿……」
ジョンは狼狽を隠せない。
「ふざけんなよ!!!!」
突然、ロジオンは手にしたグラスを振り上げ、テーブルに叩きつけた。
砕け散るガラスの白い軌跡が、ジョンの眼前に光の破片となって広がる。
「なんで私の娘を、"殺す為"に差し出さなきゃならんのだ?!!! なんでなのだ?!! なんなのだ?! 聖女って。ふざけてる! ……私の、私の娘だぞ!! 何故だ! 何故、死ななきゃならんのだ?!!」
もはや狂乱。
ロジオンはジョンの肩に掴みかかり、その理不尽をぶつける。ジョンは戸惑い、彼の体を押さえようとする。
「落ち着いて! ロジオン殿! 落ち着いて!!」
「これが落ち着いてられるか!!! また、また! 娘を差し出すのだ!! 教えてやろうか?! トーヴァが生まれた時……。この指を、柔らかく握ってくれたのだ!! その愛おしさが、お前にわかるか?! 幸せになるべきだったのだ……。そう願った……。農奴だとしても、何不自由なく、過ごして欲しかった……。なのに、異国で死んだだと?!! マルシャが生まれた時も覚えている!!!! 明け方だった……。目元が、私そっくりでな、たまらなく愛おしかった……。なのに、魔獣に食われて死んだだとっ!!!!! ……怖かっただろう……。痛かっただろう……。私は、……私は……。もう、耐えられないのだ……」
慟哭とも言える絶叫と共に、ロジオンは豪華な絨毯に崩れ落ち、惨めにうずくまって泣きじゃくった。
ジョン・ポールは、この瞬間に理解した。
彼は、正しく、父親なのだ。
聖教国のしきたりに従い、その恩恵を享受しながらも、娘達の幸せを心底願う、一人の普通の父親。
聖教国の在り方、支配者としての地位、そして家族への愛という巨大な葛藤に押し潰されそうになりながら、彼は生きてきた。
それを一時的に慰め、忘れさせてくれるのが、この酒だったのだろう。
ロジオンは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を歪ませ、ジョン・ポールの足に縋り付いた。
「頼む……。頼む…。ヘストナを連れて……。逃げてくれないか? このとおり! どうか! どうか! ……金ならいくらでも払う……。大教会の手が届かない……。王国に、娘を、……貴方なら、できるでしょう? 頼む! このとおりだ!!!」
あまりに哀れな姿だった。
ジョン・ポールの瞳は揺らめいた。
これは、不幸だ。
何十年にも亘り、この聖教国は、魔獣や穢れから国を守るという大義のもと、聖女という媒体を消耗品として使い潰してきた。それを名誉だとか、神聖な使命という、美しく包装されたお題目で、人々を騙してきた。
ジョン・ポールは、その決意を新たにした。
聖女など、いらないのだ。
信仰の名のもとに、犠牲を強いて、小さく縮こまる国の在り方は健全ではない。
開かれ、自由の下にこそ、人々は生き方を選ぶべきなのだ。
それは資本主義的経済論に留まらず、民主主義という堅苦しい名文に閉じ込められるべきでもない。
――人が、自身の生き方を、自分で決める自由意志の世界があるべきなのだ。
ジョン・ポールは眼鏡の奥で目を細め、哀れな男に静かに告げた。
「よろしい。……売ってあげましょう……。"自由"を……。その対価は、貴方自身だ……。それは、可能ですか?」
笑みを貼り付けた顔で問う。
「……自由など、私はいらない……。娘を、娘達を返してくれ……。頼む、女神さまぁ……、どうか、娘たちを……」
泣きじゃくる男の姿に、ジョン・ポールは希望を見た。
人は、権威に頼らずとも、自分自身の生き方を選ぶ力がある。
そして、その力がある者は、幸せになるべきなのだ。
(クックック……。ロートシュタインで、娘達が元気なのを見たら。この男はどうなるんだろうなぁ?)
ジョン・ポールの胸に、愉快な妄想が浮かび上がった。




