260.聖魔法の使い手
日暮れを過ぎ、ヴァール家が治める荘園の広場は、熱気と活気に包まれていた。巨大なテントの下には、農民たちがひしめき合い、「蒸留聖水」という名の下に持ち込まれた琥珀色のアルコールを飲み干し、骨付き肉を貪り、賑やかな笑い声を上げている。
これは祭りの喧騒ではない。
この地にふらりと現れた異国の商人、ジョン・ポールが来て以来、毎晩繰り広げられる「解放の宴」だった。清貧を強いられてきた農奴たちにとって、労働後のこの時間は、まさに抑圧からの解放であった。
その狂騒の合間を縫い、甲高い声が響く。
「カレー食べたい人ぉ! 今ならナンが焼きたてよぉ!」
エリカの売り込みに、農奴たちが応える。
「エリカちゃーん! こっちにカレーくれぇ!」
「こっちもだぁ!!」
異国の地で、自身が作るカレーが「覇権」を取りつつあることに、エリカは満足そうに微笑む。
「お待たせしましたぁ! 蒸留聖水大ジョッキ四つです!! カラアゲはもう少々お待ち下さーい!」
荘園主の娘、ヘストナもまた、汗を流しながら、まるで居酒屋の看板娘のように溌剌と給仕に勤しんでいる。その額の汗は、これまでの単調な日々にはなかった充実感に濡れているようだった。
テントの奥、簡易焼き場では、ロートシュタイン領から来た冒険者や屋台の店主たちが、異国の肉や野菜を調理し、ここ一帯はさながら"出張版ロートシュタイン"の様相を呈していた。
喧騒の片隅、粗末なテーブルを挟んで、荘園主ロジオン・ヴァールとジョン・ポールが対峙する。
ロジオンは、スパイスがふんだんに使われた「フライドチキン」を豪快にムシャムシャと食らい、その手も口元も脂でテカテカだ。琥珀色の液体で喉を洗い流すと、野太い声が響く。
「ぶはぁぁぁぁぁぁ! やはり、このさ……、おっと! この"薬"は効くなぁ!!」
その満ち足りた姿に、ジョン・ポールは目を細め、満足げに笑う。
「クックック……。でしょうとも……。農奴たちも元気百倍、労働意欲も湧く。そして聖税もガッポガッポ……。ねぇ? 良いことづくめでしょう?」
ロジオンは、目の前にある契約書と手形に目を落とす。蒸留聖水の支払いは金貨ではない。農奴たちが作るトウモロコシや麦などの農作物だ。しかも、ジョン・ポール商会が農奴たちから直接買い付け、その後にロジオンへ「聖水」を納品し、ロジオンが農奴に専売できる、という複雑怪奇な仕組み。
「しかし、本当に、この程度の支払いでいいのか?」
ロジオンは深く考えなかった。
考える能力も、資本主義的な経済論理さえ理解していない。生まれてからこの封建的なぬるま湯でしか生きてこなかった彼には、目の前の「利益」しか見えていなかった。
農奴たちの餓死による聖税の減収に悩むこともなく、教会や聖庁衛士の目を盗んで酒を調達する手間もなくなる。
――これから、すべて上手くいく。我が世の春だ。
そう思い、酔いが回り、思考が億劫になってきたその時、巨大な天幕の入口が押し開けられた。
ロジオンは、入ってきた三人の人物を見て、血の気が引くのを感じた。中央に立つ、太った神官服の人物が、広場の光景を見て激昂したように叫んだ。
「なんだこれは?! どういうことなのだ?! これは、酒精の匂いではないか!! それに、香辛料の匂いも……堕楽だ! 聖庁衛士は何をしている?! 荘園主はどこだ?!!」
その人物――ヤンストラ司祭の姿に、ロジオンは首を縮こまらせた。
「うっ、な、なんで……、ヤンストラ司祭が、こんな所に……。マズイ……マズイぞ……、終わりだ……」
絶望に打ちひしがれるロジオンとは対照的に、ジョン・ポールは面白そうに目を輝かせる。
「ふむ……。あれが司祭様かぁ……。なぁ、彼が、ロジオン殿の、直属の上司ということで、間違いはないのか?」
その笑顔に、ロジオンは一縷の期待を抱き、冷や汗を流しながら呟く。
「そ、そうだ……」
「ふむっ! やっと"釣れた"ぞ! ……冒険者の皆さん! その三人を捕らえて下さい!!」
ジョン・ポールが意気揚々と大声を上げた瞬間、どこからともなく湧き出たロートシュタインの冒険者たちが、ヤンストラ司祭と護衛の神官二人をたちまち取り押さえた。
「な、何をするのだ?! 誰だ貴様らは?! 私を誰だと……?!!」
ジョン・ポールは、ヤンストラに歩み寄り、悪魔のような笑みを浮かべる。
「はじめまして……。ヤンストラ司祭。そして、ようこそ"居酒屋ヴァール"へ。三名様ごあんな〜い、ってか?! クックック……」
地に這いつくばらされているヤンストラ司祭が、叫ぶ。
「誰だ貴様は?! 聖庁衛士は! 聖庁衛士は何をしてるのだ?!」
ヤンストラを押さえつける冒険者が、愉快そうに答える。
「フッ……、聖庁衛士の皆さんは、"勤務時間外"だぜ。契約時間外の残業なんて、あっちゃならねぇからなぁ……。今は俺達、"業務委託"の冒険者しかいねぇのさ!」
「な、わけのわからんことを言うな! この、異教徒がぁ!!」
身悶える司祭を見下ろし、ジョン・ポールは静かに問う。
「わけわかんないのは、貴方だ、ヤンストラ司祭……。何故に、厳格な教義の下、清貧であるはずの貴方が、……酒精とスパイスの匂いを、知っているんですかぁ〜?」
その問いに、ヤンストラは開き直る。
「ふっ、ふふふっ、ふふふっ、あーハッハッハッハッ! ……ジョン・ポール……。貴様の名前は、ジョン・ポールだろ……? 知っているのだよ! この、クソ異教徒めがぁ!!! 我々の情報伝達能力を、甘く見るな! お前らが、侵略者だと、私は知っているのだ!!! お前ら、終わりだ!!! ロジオン・ヴァール!! ヘストナ・ヴァール……。異教徒を招き入れた、裏切り者だ!! そして、ここにいる全員も! 火炙りだ!!! 堕楽した異教徒めが!! 死ね! 死んで償え!!!」
狂気的な絶叫。しかし、ジョン・ポールは冷酷に言い放った。
「……なら、貴様が私服を肥やす為に余分に徴収した、聖税……。その堕楽の罪も、償わねばならないな?」
ヤンストラの身体がビクリと跳ねる。しかし、彼は虚勢を張る。
「な、なにを言っているのだ……。私は、私は司祭だぞ! この聖教国に於いて、私は……」
その時、ジョン・ポールは右手を掲げ、静かに詠唱した。
「《聖呪封鎖》」
高位な聖魔法の発動。
ヤンストラは息を詰まらせ、言葉を失う。
「……な、……ケ。ケハッ……、息が……、息が、できな、い……」
この異教徒、いや、経済的侵略者が、大司教や枢機卿、あるいは教皇でしかあり得ないはずの聖魔法を操った事実に、ヤンストラは戦慄した。
ジョン・ポールは、心底楽しそうな笑顔で、司祭の顔を覗き込む。
「他国の侵略なんて、実は、めんどくせーだけなんだわ……。暇じゃないし……。でも、この件に手を貸したのは、お前みたいな、"クソ"が、この国にはいそうな気がしたからなんだ……。なので、貴様は許さないよ……」
呼吸困難の最中、ヤンストラは悟る。
自分が間違っているとは薄々感じていたが、先代から受け継いだ「楽な生き方」を変える必要はなかったはずだ。
この聖教国は、"守護聖女"によって守られている。
なのに、この侵略者は、類まれなる聖魔法の使い手……。女神様に認められし者。
――ならば、自分の、「正しさ」とは、いったい何なのか?――。
意識を失う直前、声を聞いた。
「お前は、"ロートシュタイン送り"だ。――民の上に立つ者としての、"再教育プログラム"を用意してるよ……。お楽しみに……」
静まりかえったテントの中、農奴たちは不安そうにジョン・ポールの背中を見ていた。しかし、彼はすぐにその空気を打ち破る。
「まあ、変な客も、たまには来るもんですよ! ……今日は、荘園主、ロジオン・ヴァール様の奢りです! 皆様、心置きなく飲んで食べて下さいませ!!!」
その宣言に、農奴たちは狂熱的な歓声を上げた。
「主様! バンザーイ!!」
「ヒュー! ロジオン様、最高だぜ!!」
「俺は、ロジオン様の為に、働くぜー!!!」
熱狂を浴びながら、ロジオンは悪い気はしないものの、遅まきながら不安が胸をよぎる。
(これは、とんでもないことに……、なったのでは?)
その絶叫のど真ん中で、エリカはヘストナに目をつけ、身を乗り出す。
「あなた、なかなか見込みあるわね! 是非、ロートシュタインに来て、居酒屋領主館で働きなさいな!!」
戸惑うヘストナに、エリカは涼しい顔で言う。
「あ、あの……。司教様に、こんなことして、とてもマズイと、思うのですが……」
「大丈夫よ! 多分」
その「大丈夫」を裏付けるかのように、農奴たちの会話は、すでに聖教国の根幹を揺るがし始めていた。
「だいたい、教会って、なんなんだよ!」
「なんであんなに、偉そうなんだ?!」
「おかしいぜ! 聖女様一人に、なんですべて任せてんだ?!」
「そうだ!! 冒険者ギルドを誘致すればいい! それで魔獣からの脅威には、俺達も冒険者として立ち向かえばいい!!」
熱狂は、やがて聖教国全体を揺るがすことになるだろう。
ジョン・ポールはただ微笑んでいた。
荘園主ロジオンは、自分が手を握ってしまった相手が、異教徒どころか、悪魔よりも恐ろしい人物なのではないかと、今ようやく知ることとなったのだ。




