255.ジョン・ポール、聖教国への突破口
その日、聖教国の大教会は、嵐の前の静けさを破るように、衝撃的な一枚の文によって揺さぶられた。
聖教国には、本来冒険者ギルドという組織は存在しない。故に、その報せは、遠く帝国に居を構える一団の冒険者が、分厚い国境の門をくぐり、届けにきたものだった。
彼らの纏う異国の土埃と、持参した文の重々しい空気が、神聖なる大教会の石畳に異物として軋みを上げる。
その書面には、血を思わせる、痛ましい真実が綴られていた。
聖女とその随行の一行、――壊滅。
王国領からの帰還の最中、山脈を越える過酷な道中。青空を裂くように突如出現した巨大なワイバーンの襲撃により、聖女マルシャ・ヴァールを筆頭とする一行は、文字通り引き裂かれたという。
死傷者多数。特に、聖教国にとって致命的だったのは、以下の三名の死者の名。
ペトロフ大司教
ジェイコブ司祭
そして、聖女マルシャ・ヴァール。
遺体の損壊は激しく、原形を留めていない。
後日、現場に赴いた調査団、冒険者たちによって発見された、血に汚れた遺品が、その悲劇を物語っていた。
大司教の神官服の切れ端、司祭が肌身離さず持っていた折れた聖杖、そして、聖女の髪の毛一房。
それら全てが、乾いた血痕に覆われていた。
大教会に集う枢機卿や大司教たちの間には、一瞬の静寂の後、蜂の巣をつついたような騒動が巻き起こった。
彼らは、教義と伝統に縛られ、常に威厳を保つことを義務付けられた者たちだが、この前代未聞の事態に、その平静を保つことはできなかった。
「トーヴァに引き続き、マルシャまでも……」
ある大司教が、信じられないというように、震える声で呻く。
「どうなっているのだ?! この短期間で聖女が二人も死ぬなど、前代未聞の事態だぞ!」
「王国に抗議はできないのか?! 護衛を怠った責任は王国にあるのではないか?!」
激高する枢機卿の声に、一人が冷静な事実を突きつける。
「いや、一行は国境越えの最中、魔獣に襲われたのだ……。護衛の冒険者も、金で雇われただけの者たち。責任だのなんだの、何者かに問えることではない……」
空虚な論争の末、行き着いた結論はただ一つ。
「……新たな聖女を、選定するしかあるまい……」
そして、誰もが恐れる、最も重要な懸念。
「……このことは、教皇様には……」
その問いに、最高位の聖職者が、厳しい顔で首を振る。
「いや、ならん! 我々だけで、対処すべきだ……」
彼らは、神の代理人として恐ろしくも敬愛する、教皇の峻厳な顔を思い浮かべ、一瞬にして沈黙した。この報せが教皇の耳に入れば、それは騒動どころでは済まない。恐怖が、彼らに秘密裏の対処を決意させた。
時を同じくして、聖教国の南端。
マルシャと、トーヴァ・レイヨンの故郷、ヴァール家の荘園に、一際異彩を放つ驕奢な魔導車が、静かに停車した。
その地の治安維持にあたっていた聖庁衛士たちは、眉をひそめ、警戒の眼差しを向ける。
国外から来た異邦人。
いや、この国の教義とは相容れない異教徒である可能性さえあった。彼らの知る「馬のいらない馬車」"魔導車"の噂は、遠い王国で発明されたというものだ。
ドアが開き、見慣れない装いの人物が降り立つ。その姿は、この地の常識からかけ離れていた。
「ほう……。ここが、聖教国か……。噂には聞いていたが。随分、鄙びた雰囲気のようだ……」
降り立った人物は、一見、喪服にも見えるダークグレーの服。この世界では理解されざる別の世界では、"スーツ"と呼ばれるその装いは、薄っすらとストライプが入り、真新しい白いシャツ、そして絹の光沢を放つ浅葱色のネクタイで引き締められていた。
黒縁の眼鏡の奥に隠された眼差しが、周囲を静かに観察する。
聖庁衛士は、その異質な雰囲気に、貴族か、あるいは成り上がりの商人に違いないと推測した。
「おい! 貴様、王国の民だな。商人か?」
一人の衛士が、挑戦的な声を上げた。
その人物は、優雅に一礼する。
「どうも……。はじめまして、私、ジョン・ポールと申します……。王国の、ロートシュタイン領にて、チンケな商いなどをさせていただいている者です」
「ほう……。で、ジョン・ポールさんとやら、この地に何用で来たんだ?」
「はい。行商でございます。……是非、この地で、私が王国から仕入れてきた品物を売らせて頂けないか、と……」
分厚いレンズの奥で、ジョン・ポールは不気味なほどに目を細めた。その冷たい、しかし貼り付けたような笑顔に、聖庁衛士たちの警戒心は一気に跳ね上がる。
「聖教国の法律は知っているのか? 行商がしたければ、鑑札を買う必要がある。そして、売上の八割を聖税として納めて貰う。同時に、帳簿も提出して貰う」
この国の実情を知らない行商人を追い返すための常套句。
たいていは、この言葉を聞いただけで、顔色を変えて逃げ去る。それが、彼らの日常だった。
しかし、ジョン・ポールの反応は、彼らの予想を裏切った。
「はい……。それで構いませんよ! で、鑑札はどちらで購入したら良いのでしょうか? あと、税はどなたに納めれば? その辺を詳しくお聞きしたいのですが……」
彼は、大きく両手を開き、冷たい笑顔を絶やすことなく、問いかけてきた。
聖庁衛士たちは、顔を見合わせる。
彼らが、この国に来る厄介事を追い払うために先代から受け継いできた文言が、今、本当に厄介な人物を前にして、無力な呪文と化した。
鑑札の値段も、税率の意味も、その税務がどうこの国の社会システムを構築しているのか、彼らは何も理解していなかった。
言われたことを忠実に守るだけで、飢え死にしない程度の清貧な生活に甘んじてきたがゆえに、その思考力は皆無となっていたのだ。
「えっ? ど、どうするんだ?」
「いや、俺に言われても……」
「というか、鑑札って、そういえば、なんなんだ? 名前は知っているが、見たことないのだが……」
衛士たちは戸惑い、ヒソヒソと狼狽の相談を始める。
その姿を見たジョン・ポールは、「ふむ」と、わずかに眉を持ち上げた。
「推察するに、どうやら貴方がたには権限が与えられていないようだ……。あー、すまない……。勘違いして欲しくないのだが、君らを悪く言うつもりはないのだよ……。君らも、大変だねぇ……。言葉足らずの"上"がいるようだ。君らは、熱心に仕事をしているだけなのにねぇ……。私にも覚えがあるよ。"バカな上司"を持つと、苦労するって……」
静かに、しかし、含みを持たせた言い方で、彼は言葉を放った。「バカな上司」が誰を指すのか……。
しかし、聖庁衛士たちは、その言葉に安堵の色を浮かべた。
責任が自分達ではなく、別の存在に移行したと感じたからだ。それが、ジョン・ポールの、悪魔的に巧妙な人心掌握術だと知らずに……。
その時、畑の方から、一人の少女が歩いてきた。
「私が、案内しましょうか……」
彼女は、農奴特有の作業着に身を包み、所々が土で汚れている。赤茶けた髪は無造作に結われ、そばかすが目立つ、十を過ぎたばかりだろうか。
「ヘストナ様! いえ、あの、ここは、我らが……」
聖庁衛士は慌てふためき、少女を止めようとする。しかし、ヘストナと呼ばれたその少女は、構わずジョン・ポールに歩み寄った。
「はじめまして。私は、ヘストナ・ヴァールよ……。握手はやめておきましょう、ご覧のとおり。土で汚れているから……」
彼女は、畑仕事で汚れた両の手のひらを、隠すことなく見せた。
しかし、ジョン・ポールは全く気にしない。
「はじめまして! ジョン・ポールと申します」
彼は、乱暴ともいえるほどに、彼女の右手を掴み、強く握手を交わした。ヘストナは、思わず目を見開く。
「……え、ええ。よろしく。ジョン・ポールさん……。ここで、商売がしたいんですってね? 聞こえていたわ」
「はい。そうなのです……。是非、いろいろと、この地のルールをご教授願いたいのです」
「ならば、父に会って貰うのが、一番手っ取り早いわ……」
「ほぅ……。ヘストナ様の、お父上に?」
「私の父は、この農園の、荘園主だから……」
その言葉を聞いた瞬間、眼鏡の奥、ジョン・ポールの目が、鋭く光った。
(……ヴァール、となると、この娘、ヘストナは、あの"二人の聖女"の妹というわけか……。なるほど……一発で当たりを引いたようだ……)
彼は、ロートシュタイン領の一大商会"ジョン・ポール商会"を築き上げた経営者としての、運の強さに感謝する。
溢れそうになる笑みを噛み殺しながら、ジョン・ポールは、この地に降り立った目的が、すぐそこにあることを確信した。




