244.レッド・ホット・チリ・ペッパー
ロートシュタインの港に、波を蹴立てて一隻の船が滑り込んできた。それは、領主ラルフ・ドーソンの肝いりで設立された海賊公社の輸送船だ。
「積み荷をおろせー!」
燃える炎のような鮮やかな赤髪を、磯の香を含んだ風に勢いよく靡かせ、船長メリッサ・ストーンは護岸に向かって低い声で指示を飛ばした。その声には、荒海を乗り越えてきた者特有の、揺るぎない威厳が宿っている。
「へいっ!」
彼女の部下である屈強な男たちは、慣れた手付きでテキパキと、船倉から分厚い木箱を運び出し始めた。
そして、護岸に詰めかける人々の反応は、異様だった。
「きゃ〜! メリッサ船長!」
「格好いい!!」
「結婚して下さい!!!」
老若男女から上がるのは、まるで売れっ子舞台役者に対するような、黄色い歓声の嵐。ちなみに、最後に「結婚して下さい」と叫んだのは、王都からメリッサを一目見に通ってくる、名門の貴族令嬢である。女性からの熱烈な求愛は、この港では日常の光景だ。
メリッサは、ふと、自分が纏う衣服に視線を落とした。それは豪華絢爛でありながら、船の上での活動に特化した機能美も兼ね備えている。貴族の装いを思わせる豪奢さと、海を征く者の実用性が融合した仕立て。これは、偏に領主ラルフの趣味全開の賜物だった。彼が「海賊といえば、これだ!」と、前世のフィクションから着想を得て一流の職人に作らせたものなのだが、メリッサ達はその背景を知る由もない。彼女らにとっては、公社の制服であった。
その時、ふと、隣に停泊する船が目に入った。海の冒険者クラン"シャーク・ハンターズ"の誇る鋼鉄の不沈艦、"ウル・ヨルン号"。鈍く光る黒色の船体は、今、魔導炉に火が入っておらずとも、静かに揺れるだけで、その圧倒的な攻撃力という凶暴性を微かに放っている。
メリッサは、思わず、不貞腐れたように頬を膨らませた。
(ラルフ様は、私にもああいう格好いい船を造ってくれるって言ったのに! いつになったらその約束を果たす気でいるのだ?! "シャーク・ハンターズ"だけ、ずるいではないか! だいたい、奴らは自らの趣味趣向で仕事をしているような連中だぞ! こちとら、半官半民の公社だぞ! むむむぅ、女を都合よく使うとは……、ラルフ様もゲスな男なのか?!!)
彼女の心に、不当な扱いに耐えるヒロインのような謎の被害妄想が湧き上がった、その瞬間。
護岸の人々から、またもや大歓声が上がった。
「あれぇ? メリッサ船長、なんか、すっごい可愛い顔してる〜」
「あれだろ、"ウル・ヨルン号"に嫉妬でもしたんだろ?」
「うっそー! そんなわけないじゃん! キャッハッハッハ!」
何故か、その的確過ぎる指摘に、メリッサの顔はたちまち赤熱しそうになった。
これ以上、情けない姿を晒すわけにはいかないと、彼女はそそくさと荷降ろしの手伝いに向かうフリをした。
船倉へ降りると、部下とロートシュタインの領兵が、何やら押し問答をしていた。空気には、わずかな緊張感が張り詰めている。
「どうしたのだ?」
メリッサは、努めて威厳を込めた声で彼らに話しかけた。
「はっ! 船長、それが、彼らが積み荷を検分したいとのことでして……」
部下の男が説明する。
「どういうことだ? 我々は、ドーソン公爵家の紋を下賜された、半民半官の輸送船だぞ?」
メリッサの問いに、領兵の隊長らしき男が、恭しくも毅然と答える。
「メリッサ船長殿。もちろん、その身分は承知していますが、抜き打ちの通関検査です。一応規則ですので。……ラルフ様も、『ご禁制の品が領内に持ち込まれるような事態はなきよう、徹底せよ』との厳命でして……」
「なるほど……」
ラルフの名を出されると、メリッサとしても強くは出られない。
案外、あの酔いどれ領主も、真面目に仕事をしているのかもしれない。
「ならば、どうぞ……。お互い、面倒なことは早く済ませよう」
「はっ! ご協力、感謝します……」
通関検査が始まった。領兵達は木箱を開け、東方諸国の野菜や香辛料などを検分していく。それを、メリッサの部下たちは不快感を滲ませながら眺めている。
「姉御、なんでこんな面倒くさいことに?」
「まあ、いい。ラルフ様が、意外に勤勉だったということだ……」
彼らがイライラしているのは、決して職責として急いでいるからではない。
早く仕事を切り上げ、あの居酒屋領主館に赴き、一杯やりたいという、至極真っ当な欲求が阻害されているからだった。
その時、領兵の一人が、奥に仕舞われていた、小さな布袋を持ち上げた。
「むっ?! それは、やめとけ! 貴方方の手に負えるモノではない!」
メリッサは、それまで抑えていた焦りを、はっきりと滲ませた。
領兵達はメリッサの様子を確認したものの、彼女の焦燥は、かえって彼らの疑念を強めた。隊長は素早く布袋を開く。
そこにあったのは、緑色の、小さな野菜のようなもの。
「メリッサ殿っ! これは一体何だ?!」
「待て! 貴方達は誤解をしている! ラルフ・ドーソン様に、直ちに伝令を! 貴方達の独断で判断すべき案件ではない!!」
何故か、「誤解」というには重すぎる断言をするメリッサ。その激しい動揺を見た領兵の男は、仄暗い権威の暗部を見た気がした。
彼は、領主ラルフのことが好きだった。彼の手から生み出される、未知の美食も。そして、なにより、このロートシュタイン領の居心地の良さは、何にも代えがたい。
だからこそ……良からぬ企みなど、あってほしくない。もし、この領に暗部が存在し、それが悪であるならば、この命に代えてでも、それを正したい。
彼の心に、純粋で、しかし、やや暴走気味の正義感が燃え上がった。
そして、隊長は胸を張り、船倉に響く声で宣言した。
「聞け、一同! これは、領兵としてではなく! ロートシュタインを愛する一人の男としての命! ご禁制の疑いある品、その真偽と毒性をこの身で断ずる。証人たれ。これを、――口にする!」
その悲壮な覚悟を聞いたメリッサは、血の気が引いたような顔で、思わず目をつむった。
数刻後。
居酒屋領主館の客席。テーブルには、まだ封を開けていない布袋が一つ置かれている。
「おい……、エリカ……。お前、海賊公社に何を発注したんだよ?」
呆れを通り越したような、嘆息に近い声で、領主ラルフ・ドーソンの説教がはじまっていた。
「や……、だから、"ヤバいヤツ"を……」
と、金髪ドリルツインテールの少女、エリカは、少々の反省の色を見せながらも、どこか開き直ったような表情だ。彼女こそが、公社に曰く付きの積み荷を依頼した張本人である。
「ヤバ過ぎるだろうが!! ナニコレ? 僕もちょっと舐めてみたけど、火吹くぞ!! コレッ!」
エリカが買い求めたのは、東大陸の南部で"ラグリマ・ロハ"と呼ばれている、とんんんんんんんんでもなく、辛い唐辛子だった。
それは、食べるという行為を超越し、もはや毒物に近い存在だった。
「カレーの辛さの限界値を追い求めるのも、あたしの使命よ!」
エリカは、顔を上げ、使命感に燃える瞳で言い放った。
「領兵が、一人死にかけたんだぞ! 可哀想に……。明日には、ケツからも火を吹く思いをするぞ……」
「下品すぎるわよ!!!」
ラルフの軽率な発言に、エリカはブチ切れた。
「とにかく! ……変なモノを勝手に輸入するな! 全部、没収だ! 没収!!」
「むぅ~!」
エリカは不服顔だ。客席の隅では、海賊公社の面々が成り行きを見守っている。彼らは、自分たちの船長が間抜けな領主に騙されていたのではないかと、不安そうだ。
そのとき、チリンチリンと、ドアベルが鳴り、新しい来客を告げた。
「いらっしゃいませー!」
「四名様ですか? お好きな席にどうぞ!」
ミンネとハルが、いつもの溌剌とした声で来客を案内する。
ふと、ラルフもそちらを見ると、
「へっへっへぇ、アレは、ヤバかった……。ヤバいほど、堪らねぇ……。あんなもん、生まれてはじめて口にしたぜぇ」
同僚の領兵に肩を貸されながら来店したのは、あのラグリマ・ロハを検食した若い領兵の男だった。彼の目は、異常なほどギラギラと輝いている。
「お、おい! 君、大丈夫なのか?! 死ぬ思いをしたって聞いたけど……」
ラルフは、慌てふためく。
「あー! 大丈夫だぜ、ラルフさまぁ! ところで、あのヤバい"ブツ"を使った料理、食わせてくれるんだろ?!!」
若者は、もはや末期の中毒症状のようだった。
辛さを超えた、未知の快感に憑りつかれたかのような鋭い眼光。
ラルフも、なんだか怖くなるほどに……。
そして尋ねた。
「……激辛麻婆豆腐か、激辛カレー、どっちがいい?」
死にかけたはずの領兵は、迷うことなく、
「両方で……」
と、その鋭い眼光で、オーダーをした。
「……お、おい……。エリカ……」
「え? あ、は、……はいな……」
戸惑いながらも、ラルフはエリカに簡潔に指示を出す。
二人はそれぞれの料理に着手するが、火を通すたびに、調理場では目がしみるほどの辛味が、周囲に立ち込めた。
この世界にも、「辛党」という、酔狂な味道楽が生まれてしまったらしい。
それをきっかけに、"ペッパー・ハンター"という、未開の地に分け入り、史上最高の辛味を探索する冒険者たちが、新たな文化として芽吹いてしまった…。




