242.ダンス・ダンス・ダンス
秋雨が上がり、ロートシュタインの空は、磨き抜かれた宝石のようにカラリと晴れ渡っていた。
領主館の執務室。窓の外に広がる青空を眺めるのは、この館の主、ラルフ・ドーソン公爵である。
本日も完璧に遂行された山のような書類仕事は、整然とデスクの上に積み重ねられている。
そして、完璧なメイド、アンナが淹れてくれた最高級の紅茶からは、芳醇な香りが立ち昇っている。
完璧だ。この上なく、完璧な貴族の日常。
ラルフは満足げに小さく頷き、琥珀色の液体を一口含んだ。鼻腔に広がる薔薇のような高貴な香り。微かな渋みが喉を伝い、胸の奥にじんわりとした温もりが広がっていく。
至福の時。その静寂を、唐突に、そして盛大に打ち破るものが現れた。
まるで辺境の祭り囃子のような、賑やかな太鼓の音と、やけに陽気で、どこか素っ頓狂な歌声が、館のどこからか聞こえてきたのだ。
「今度は何だよぉぉぉぉぉぉ、まったく……」
ラルフは天を仰ぎ、深く、深く、ため息をついた。
すると、影のように控えていたメイドのアンナが、動じることなく冷静に告げる。
「裏庭からのようですね」
二人は一階へ降り、厨房の奥にある勝手口を開けた。そして、そこでラルフが目にした光景は、公爵としての威厳も、理性のタガも、すべてが一瞬で吹き飛びかねない、筆舌に尽くしがたいものであった。
「蒸留ぅ〜♪ あっそーれ、蒸留ぅ〜♪」
「ソイヤソイヤ! 蒸留〜♪ 蒸留〜♪」
元聖女と、現役の新聖女、そして汗だくのドワーフの職人たちが、輪になって奇妙な舞を踊り、朗々と歌い上げている。
その集団が狂ったように回転する中心には、木樽が一つ。そこへ、聖魔法の荘厳な光が降り注ぎ、眩いばかりに輝いている。
ふと、その謎の光景の傍らに目をやると、
トトンカトン! タカラッタトトンカトン!
空き樽を打楽器に、真剣な表情のエリカが、洗練された、極めて音楽的で精密なリズムを打ち鳴らしている。その技術は、場違いなほどに高い。
「あー、もう、意味がわからない。わからないよぉぉぉ、もう……勘弁してくれぇぇぇぇ……」
ラルフは頭を抱え、その場に蹲りたくなった。
いったい、この集団は白昼堂々、何の儀式を執り行っているのだ? しかも、ここはれっきとした領主館の敷地内だ。なぜ勝手に侵入し、このような奇祭を開いている?
ツッコミどころは尽きない。
新聖女は、若干の羞恥心を覚えているようだが、他の面々は明らかに真剣な顔つきで、この摩訶不思議な舞を続けている。
両手を斜めに振り上げ、クルッと回って合いの手を叩き、ガニ股になり、片足を上げる――複雑な振り付けにもかかわらず、一足一挙動、寸分の狂いもなくその集団は舞い続けている。
ラルフの前世の記憶に照らすならば、それは「ラジオ体操」と「よさこいソーラン」を掛け合わせて、さらにバカっぽくしたような代物に見えた。
「あっ! 良かった! ラルフ様も是非、加わって下さいよ〜」
踊りの輪の中から、元聖女が屈託のない笑顔でラルフに呼び掛けた。
「何が"良かった"のか、さっぱりわからんが……、遠慮させてもらう」
ラルフは心底疲弊した無表情で告げた。
「聖女様! そろそろ良い塩梅でねーか?」
ドワーフの一人が、熱気と踊りで汗を光らせながら提案する。
「ハイハーイ、では、ここでいったん、締めます!」
その声が合図となり、エリカの打楽器がドドンガドン!
と一段と大きく打ち鳴らされる。
全員がピシャリと手を打ち、直立不動の格好で、その謎の舞は締めくくられた。揃い過ぎていて、背筋が寒くなるほどに……。
そして、全員が中央に鎮座していた樽を覗き込んだ。
「うわ~、結構減っちゃったぁ」
「その分、酒精が凝縮されたってことだろぉ」
気になったラルフも、恐る恐る樽の中を覗き込む。樽の底、五分の一ほどに、無色透明な液体が湛えられている。しかし、微かに感じられるのは、強烈なアルコール臭と、果実の甘い残り香だ。
「これ、まさか、ワインを蒸留したのか……?」
ラルフは即座に察した。元聖女は、以前ラルフが執筆した魔導論文を応用し、聖魔法による蒸留酒造りを成功させていた。これまでは米酒の蒸留、つまり焼酎がメインであったが、この度、ワインの蒸留、すなわち、ブランデーを生み出してしまったようだ。
「あっ! そうだ、エリカちゃん! いつもありがとう! これ、約束の報酬ね」
元聖女は、打楽器担当のエリカに金貨を一枚手渡した。
「まいどありー」
エリカは、バチと空き樽を抱え、さっさと退散していった。彼女は純粋に金で雇われただけのようで、この狂乱の集団とは極めてドライでビジネスライクな関係らしい。
「よっしゃ! 早速、試飲だぜ!」
ドワーフの一人が、長いレードルを差し入れ、透明な液体をひとすくい。手のひらサイズの小さなグラスに移し替えると、辛抱たまらないといった様子で、まずその芳醇な香りを鼻腔に吸い込んだ。
「私も私もー!」
それぞれが小さなカップやグラスを手にし、ブランデーの新酒の試飲会が幕を開けた。
「ほぅ、これはこれで、面白い味だなぁ」
「酒精はじゅうぶんだな。火酒に近い」
「うわ~。これはガツンとくる味ですわぁ……。これは、飛べる!」
と元聖女。
「これは、もしかして聖教国の大教会でも造れるのでは? いや、でも、神官達にあの踊りをさせると……。プッ……それはそれで、見てみたいかも……」
と、新聖女は何やら高尚な妄想に耽っている。
その光景を見ていたラルフは、思わずゴクリ、と喉を鳴らした。そして、意を決して声を上げる。
「あ、あのぅ……、僕も試飲してみたいんだけど……」
その瞬間、蒸留の舞を踊っていた全員が、ラルフに対して、まるで底冷えするかのような、恐ろしいほどの白い目を向けた。
ジーッ、と。
「えっ?! な、なに?! その目は何さ?!」
「……だって、ラルフ様、参加してないじゃないですか……」
元聖女は、至極当然の事実を淡々と断じた。
「えっ!! ダメなの?! あの謎の踊りに参加しないと、試飲させてもらえないの?!」
どうやら、この一団には、神聖かつ謎めいた参加必須のルールが存在するらしい。金を払えば良いのか? と一瞬考えたが、それはそれで己の品格が問われる気がしてしまい、結局口には出せなかった。
(というか、どういう魔導術式を組めば、あのヘンテコな踊りが必要になるんだ?)
ラルフは首を傾げる。大魔導士であり、魔導研究者としても第一線で活躍する彼であっても、聖魔法は、独自過ぎてあまり深入りしてこなかった分野だ。聖魔法とは、宗教的で神学的、そして儀式的な作法が多く、理詰めのラルフにとっては最も遠い存在であった。
「まあ、とにかく。これで葡萄からも蒸留酒が造れることがわかったな!」
ドワーフの一人が、ぐいっと新酒を飲み干した。
ふと、ラルフは前世の知識を思い出し、言うべきか悩んだが、勇気を振り絞って口を開いた。
「あのぅ〜。それ、樽熟成させると、もっと美味しくなると、思いますよ〜」
何故か、恐る恐る告げる。すると、また全員からあの謎の視線が突き刺さる。
(だからっ! なんだよその視線?! なんで僕がまた空気読めてないみたいになるんだよ!!)
しかし、ドワーフの一人が、深く頷いた。
「やはり、……そうか……。そんな気はしてたんだよなぁ」
「つまり、火酒と同じか……」
一同は、納得したように樽の中を見下ろした。
「でもまあ、葡萄ならいくらでも採れることがわかったし。いくらでも造ればいいんじゃない?」
新聖女が呑気に言う。
いくらでも? ラルフは疑問に思い、首を捻る。はて? どこかの農家が葡萄の大規模栽培に手を出したのだろうか? 領主として、そのような報告は上がってきていないはずだが。
「ん? いくらでも、というのは? どういう意味だ?」
「だって、これ……」
新聖女は、ラルフの真上を指差した。
「へっ?」
ラルフは見上げる。
そこには、謎の巨木、リグドラシルの青々とした枝が無限に広がり、季節外れな青い果実、葡萄が、豊穣の象徴のように、たわわに、おびただしい量で実っている。
「なんじゃあこりゃあ?!!!!!」
ラルフは殉職寸前の刑事のように、魂の底から絶叫した。
リグドラシルの上層、ツリーハウスのデッキには、手摺りに肘をかけ、景色を眺めている偉大なるエルフ、ユロゥウェルの姿が見えた。まるで宗教絵画から抜け出たかのような美しい光景だが、彼女はほんのりと顔を赤らめ、芋焼酎のボトルから手酌でぐい呑みに注ぎ入れ、ぐびっと飲んでいる。真っ昼間っからだ……。
「ユロゥウェルさん! これ何ですか? どうなってるんですか?! もう秋ですよ! なんで葡萄が実るんですか?!」
ラルフは大声で質問を飛ばす。
すると、ユロゥウェルは気だるげに、だが至極当然とばかりに答えた。
「ん〜? そりゃあ、リグドラシルだからなぁ〜。ヒックっ!」
(いや、答えになっていない……)
ラルフは飲んでもいないのに、酷い頭痛に襲われた。
そもそも、このリグドラシルという樹の存在自体が謎すぎるのだ。エルフ達にとっては「あって当然」という認識らしいが、ラルフも気になって王立図書館で調べたが、どこにもそのような記載を見つけることはできなかったのだ。
するとそこへ、
荷車を引いた農民の男がやってきた。
「おう、邪魔するぜ。ワインを持ってくりゃ、葡萄がいくらでも貰えるって聞いてきたんだが?」
ラルフは目をまん丸に見開いた。情報が広まるのが早すぎる。
元聖女は、快活に答える。
「はいっ! ここにあるの、いくらでも採っていっていいので!」
「かぁー! こりゃあスゲェ。だが、梯子がなきゃ届かないぜ」
「これを使いなされ」
ドワーフの職人が、高枝切り鋏のような、特注の道具を持ち出してきた。
「なるほど、こりゃあいいや!」
しばらくすると。今度はセス少年まで、魔導車:エバーに乗ってやってきた。
「あっ! ラルフさま、おはようございます」
といつものように元気に挨拶をする。
「……セスも、葡萄か?」
ラルフはほとんど諦めの境地で聞いた。
「あっ、はい。お酒と引き換えに、いくらでも貰えると聞いたので」
「何処で聞いたのか気になるところではあるが……もう……。始まっているみたいだから、どうぞ」
ラルフは、最早、詮索する気力もなくなり、高枝切り鋏で葡萄の収穫に勤しむ一団の方を指差した。
「ありがとうございます!」
どうやら、季節外れのリグドラシル産葡萄を餌に、農家から自家製酒を掻き集める魂胆なのだろう。そして、農家はまたその葡萄でワインを仕込む。その結果、来年辺りには、更に大量の蒸留酒が生み出されることになる。
ラルフは想像してしまった。
数年後、この領主館の裏庭に、大量の人々が押し寄せ、あの謎の踊りを踊っている光景を……。それは、地獄絵図にも等しい、狂乱の盆踊り会場だ。
メイドのアンナに、冷汗をかきながら、ラルフは切実に告げた。
「アンナ、すぐに、土地を。なるべく広大な土地を、すぐに手配するぞ……。そして、コイツらに無償で与えよう……」
自らの屋敷を、謎の蒸留盆踊り会場にされてたまるか! という、ラルフの必死な覚悟と、公爵としての威厳を守るための切実な願いが、その言葉に滲み出ていた。




