24.真夜中のソサイエティ
「知らない天井だわ」
エリカは、仰向けに横たわり、ぼんやりと呟いた。視界に広がるのは、魔導灯の明滅を受けて淡く輝く、豪華なレリーフがあしらわれた天井板だ。貴族の屋敷で過ごした日々を思い出すかのような、しかしどこか違う、奇妙な感覚。
ふと自分の腹部を見下ろす。信じられないくらいに膨らんでいる。
ああ、あの悪徳領主に孕ませられたのだ、私は──。そんな突拍子もない妄想が頭をよぎるが、すぐに現実の出来事が脳裏に蘇る。
王子に婚約破棄され、悪事の数々が暴露され、奴隷に身を落とした経緯。何が間違っていたのか。考えるほどに、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われる。
しかし、涙は出なかった。貴族としての矜持か、それとも現実を受け入れられないほどの麻痺か。
その時、頭上から声が降ってきた。
「おい。あることないこと、変な妄想してないでさっさと起きて手伝え! 閉店作業だ!」
ラルフの声だ。彼は、いつの間にかエリカの傍に立っていた。
「く、苦しい。動けない」
エリカは、腹部に手を当て、呻くように訴えた。
「そりゃあそうだろ。12杯も食いやがって」
ラルフの言葉に、エリカは瞠目した。
「えっ? 何を? 私が?」
信じられないといった表情で、ラルフを見上げる。
「覚えてねーのかよ。まったく、カレーライスを一口食った瞬間に、レディにあるまじき勢いで犬のようにむさぼり食い荒らしてたぞ。おかげで明日の朝の分なくなったじゃねーかよ」
ラルフは、呆れたようにため息をついた。エリカは、つい先ほどの記憶が全くない。ただ、一口食べた瞬間に、何かが弾けて、その後は無我夢中で食べたような、朧げな感覚だけが残っていた。
「う、うう、苦しい。動けない、お腹いっぱいになると、苦しくなるなんて、私知らない……」
「はぁ、もういい。寝てろ。明日の朝からしっかり働いてもらうぞ」
ラルフはそう言うと、傍にいたアンナに声をかけた。
「アンナ、毛布取ってきてやれ」
「なんやかんや、やはり旦那様はお優しいですね」
アンナが、からかうようにそう言うと、ラルフはむっとした表情で答えた。
「使い物にならねぇ奴働かせてもしょうがねぇだろ」
ガチャガチャと孤児やメイドたちが動き回る音が聞こえる中、エリカは、その日のカレーライスの衝撃と、膨満感に抗えず、再び意識を手放した。
夜更け。
ふと、エリカは目を覚ました。周囲は静寂に包まれている。ムクリと体を起こし、記憶を整理する。そうだ、ここは居酒屋領主館の一室。
自分が、あのラルフという男の奴隷として連れてこられた場所だ。
部屋を出て、一階の客席を覗き見る。領主であるラルフは、ベンチでイビキをかいている。少し酒臭い臭いが漂ってきて、思わず鼻をつまんだ。
厨房からわずかに明かりが漏れているのに気づく。こんな時間に、誰かがいるのだろうか。
恐る恐る厨房に近づき、扉の隙間から中を覗いてみると、そこにいたのは、孤児たちのトム、ハル、そしてミンネの三人だった。
なにやら、コソコソと小さな声で話し合っている。
エリカが扉を開けると、三人はびくりと肩を震わせ、一斉にエリカの方を向いた。
「あっ! エリカちゃん。あ、あの。これは、これはね……」
ミンネが、慌てた様子で言い訳しようとする。
「俺たち、夜食倶楽部ってソサイエティやってるんだ」
トムが、得意げに胸を張って言った。
ソサイエティ? 貧民がソサイエティなど、貴族ごっこも甚だしいとエリカは思ったが、口には出さなかった。
「あなたたち、何してるの?」
エリカが尋ねると、ミンネがにこやかに答えた。
「新メニューの開発とつまみ食いだよ! 一応、領主様からはコソコソやればいいって言われてるぜ」
「で、それは何なの?」
エリカの視線は、彼らが囲んでいる小さなテーブルの上に置かれた、白いご飯の上に何かをかけたものに釘付けになった。
「これか? これは、卵かけご飯!」
トムが、自信満々に言った。卵かけご飯? 生卵をご飯にかけるなど、非常識極まりない。
「あなたたち、バカなの?! 生卵を食べるなんて! 食中毒になるわよ!」
エリカは、思わず声を荒げた。貴族の常識では、生卵など食べるものではない。
「これはね、お兄ちゃんの魔法で、生でも食べれるようにした卵なんだよ。どう、食べてみる?」
ハルが、キラキラとした瞳でエリカに尋ねた。生でも食べられるようにした卵? そんなことが可能なのか。
すると、エリカのお腹がぐぅー、と盛大な音を立てた。どうやら、先ほど食べた大量のカレーライスは、彼女の若い身体にあっさりと消化されてしまったらしい。
トムとハルとミンネは、エリカのお腹の音を聞いて、思わず顔を見合わせて笑った。エリカは、顔を赤くして、恥ずかしさに身悶えした。しかし、その香りは、昨晩のカレーライスほどの蠱惑さには及ばないものの、じゅうぶんに彼女の食欲を刺激する。
エリカの夜は、まだ終わらないようだった。




