236.水上都市の巨大魚⑥
件名:ロートシュタイン領水上都市における未確認巨大魚の出現事例について
王暦**年、秋の頃、第七王子ランドルフ・バランタイン殿下、北部ロートシュタイン領水上都市に御滞在の折、当地人工湖において未確認の巨大魚を御覧あそばされた由、随行記録官の記すところにより確認される。
当該個体の形状・体長等の詳細は不明なるも、湖水の一角に大規模な波紋を生ぜしこと、また多数の漁夫および市民がこれを同時に視認したことから、虚説に非ざるものと見做されている。
以降、同湖における類似の目撃報告、十数年を経てもなお散見され、住民の間においては当該巨魚を"ロットン"と称する慣用名が定着した。
また、一説には、当時の領主ラルフ・ドーソン卿が自ら釣糸を垂れ、該魚を一時的に針に掛けしとの伝聞も存ずるが、これを裏付ける確証記録は未だ得られていない。
現時点においても、当該巨大魚の捕獲・標本化の報告は一切存在せず、その実在及び種別の確認には至っていない。
——本件、後世において「ロートシュタイン湖の怪魚事件」として伝承されるに至る。
【王国史料局編纂 正史抄録】
第七王子ランドルフ・バランタイン殿下 御巡行記録より抜粋――。
王暦の秋、ロートシュタイン領水上都市の人工湖に滞在されていた第七王子ランドルフ・バランタイン殿下が、未確認の巨大魚を目撃された。
この事実が、後の世に「ロートシュタイン湖の怪魚事件」として語り継がれる端緒となる。領主ラルフ・ドーソン卿がこの怪魚に挑んだ一幕は、"都市伝説"として深く刻まれ、「ロットン」と名付けられたその存在は、今やこの地の文化的象徴となっている。
水上都市を包む穏やかな昼下がり、湖面に滑る柔らかな風を切り裂き、鋭く乾いた音が響き渡った。
ヒュゥゥゥゥン! と澄んだその音は、領主ラルフ・ドーソンの手にした釣り竿が極限まで撓み、美しい弧を描いた証だった。一拍遅れて、隣に立つヴィヴィアン・カスター女史の、悲鳴にも似た甲高い声が木霊する。
「ラルフっ!」
水辺に集う誰もが、その音と声で悟った。ラルフ卿が、腰を落とし、獲物と格闘を始めたのだと。
あれほどの強烈な引き。もしや、まさしくあの未知の怪魚、"ロットン君"なのではないか?
一瞬で、湖畔の静謐は破られ、人々はざわめき、熱を帯び始めた。
「おっ、おい! あれを見ろ!」
「え? うぉぉおっ! まさか、ラルフ様が掛けているのか?!」
「マジか! さすが領主さまだぜ。持ってるねぇ!」
湖に糸を垂れていた釣り人たちは、競うように竿を引き上げ、ラルフの方へと走り出す。あっという間に、ラルフとヴィヴィアンの周りには人垣が形成されたが、誰もがその一世一代の戦いを邪魔せぬよう、適切な距離を保ち、固唾を飲んで未知なる巨大魚への期待を膨らませた。
「んぐぐぐぐぐっ……、なんだ、これは?! とんでもない馬鹿力だぞ!」
ラルフは歯を食いしばり、全身のバネを使って竿を立てる。糸巻のラチェット構造が、ジリジリと唸りを上げ、抗いようもなく糸を吐き出し続けている。
「ラルフ様! 舟に乗ってくだせぇ! 岸にいちゃ、獲物に糸ごと持ってかれて終わりだ! こっちからも追っかけてやりましょう!」
漁民の男が、手漕ぎの小舟を近づけてきた。その申し出は、まさに窮地を救う天啓だった。
「感謝する! 邪魔するぜ!」
ラルフは小舟にひらりと飛び乗る。その直後、
「う、うわぁ~!!」
漁民の男の悲鳴が上がる。舟は急激に方向転換し、水面を滑り始めた。まるで糸先に掛かった獲物によって牽引され、曳航されているかのようだ。
「どんだけバカ力だ! 本当に魚なのか?!」
ラルフは叫ぶ。
「いや、ラルフさま! それ以前に、その糸の頑丈さがおかしいでしょ?! 大の大人二人乗せた舟を引っ張って、なんで切れないんです?!」
「ふふん。これはな、ミスリルとオリハルコンの合金を極限まで薄く引き伸ばして編んだワイヤーに、光学迷彩の魔導術式を施した、一種の魔道具なのだ!」
ラルフは水に濡れながらも、どこか自慢げに語る。
「なんだそりゃ?! 俺の生涯年収よりも高そうなんだがっ?!!」
「そのとおり! 非常に高価だったぞ!!」
「なんて金遣いだっ! 俺たちから税を巻き上げておいて! 民衆を率いて暴動を起こしてやる!!」
興奮冷めやらぬ漁民の男は、軽口を叩いてみせる。
「やってみろってんだっ!! まずは、コイツの正体を暴いてからにしてくれ!」
「おうよ!」
そう気合を入れ直した、その刹那――。
竿を引く強烈な力が、まるで嘘のようにフッと消えた。
ラルフは、時間がスローモーションのように流れるのを感じた。前方への牽引力が突如として失われ、彼はそのまま背後にのけぞって倒れゆく。それを支えようと立ち上がった漁民の男も巻き添えとなり、二人揃って、
ドボーン!!!
と、冷たい湖面へと落ちていった。
「ぶえっくしょん!!!」
盛大なくしゃみが、魚料理が人気の飲み屋の焼き場に響き渡った。
ラルフは火の傍で冷え切った身体を温めている。水に濡れた魔導士のローブは、その近くで風に吹かれ、干されていた。
「結局、あれは、ロットンだったのだろうか?」
木箱に腰掛けたヴィヴィアンが、静かに問うてきた。
「さあ。わからんな……。しかし、寒い……。ついこの間まで、たしかに夏だったはずなのに……」
ラルフは、落水で冷えきった身体を縮こまらせた。
「ささっ、ラルフさま。冷えた身体は、内側から温るに限りますぜ!」
一緒に落水した漁民が、焼き場の隅の鍋で温められた徳利を持ってきた。その心遣いに、ラルフは深く頷く。
「うへぇ、かたじけねぇ……」
震える手で無骨なぐい呑みを受け取り、男にお酌をしてもらう。それをぐいっと一口。酒精が喉を焼き、食道を抜け、腹の底をカーッと熱くさせる。
「かぁぁぁぁぁ! うめぇ!」
心の底から、ラルフは感嘆の声を漏らした。
「ヴィヴィアン嬢ちゃんも、どうだい?」
漁民の男がヴィヴィアンにも徳利を向ける。
「……少し、いただこう……」
ヴィヴィアンも、その誘惑には抗えなかったらしい。
「あーあー。それにしても残念でしたなぁ。あそこで糸が切れなきゃ、今頃はそこの竈でロットン君の塩焼きで、お祭り騒ぎだったてぇのに……」
漁民も二杯目の酒を喉に流し込む。
「糸が切れたんじゃない……」
ラルフは、焼き場でプスプスと音を立てて焼かれるマスを眺めながら、静かに呟いた。
「むっ? ラルフ・ドーソン。どういうことだ?」
ヴィヴィアンが怪訝な顔で問う。
ラルフは、最高級の自慢の竿を差し出した。その先端、糸は捩れ、肝心の釣針を失っていた。
「切れた、のではないのか?」
「針の方がやられたらしい……。結び目に極度の負荷がかかって、針が千切れたようだ」
「ハハッ! そんなん、まさにバケモンじゃねーか? そんなもん、どうやって釣りゃいいんだ?」
漁民の男は、早くも三杯目の酒を手酌で注ぐ。
「そう、だな……。僕にももう一杯くれ」
「おうよ!」
「あっ。私にも……」
「はいよー」
ラルフは深い思慮に沈む。実は、ロットン君と思われる獲物をバラした瞬間、彼は魔法を展開していた。
《思考力加速》と《反響探査術》を。
それにより、あの一瞬、水中の様子を微かに、しかし確かに検知することに成功していたのだ。
そして、ロットン君の、正体……。それも、微かながら推測が立ってしまった。しかし、それを今、この場で口にしていいものか……。
ラルフが逡巡していると、店主の逞しい女主人が声をかけてきた。
「領主さまも、アブラハヤの天ぷら、食べるかい?」
「……いただきます……」
冷えた身体に熱い酒と油。なんだか小腹が空いてきたラルフだった。
「あっ、俺も!」
「あ、わっ、私も!!」
青空の下、店の前の焼き場で、突発的な宴が始まった。
「おかみー! もう一本貰うぜぇ!」
と、漁民の男が勝手に鍋から熱燗を引き上げる。
「ツケは無しだよ! 金あんのかい?」
「今日はラルフさまが持ってくれるってさ! へっへっへぇ……。なぁ、領主さま!」
「まあ、いいけどさ……。一緒に池ポチャした仲だ……」
ラルフは諦めたようにため息を一つ。了承した。
「ラルフ。鯉汁、頼んでよいか?」
どうやら、ヴィヴィアンも奢られる気満々らしい。
すると、そこに、一組の冒険者パーティーが通りかかる。
「あっ! ラルフ様だ!」
「ええっ、ホントだ……。大魔導士さまが、平民に交じって、酒飲んでる……」
それは、最近ロートシュタインに流れてきたばかりの若い冒険者達だった。大魔導士であり、領主であるラルフの、あまりにも庶民的で奔放な姿に、彼らは目を丸くした。
「よっ! お前らも、飲んでくか。奢るぞ」
「いいんですかぁ?!」
「やったぁ!!!」
そこからは堰を切ったように、どんどんと人々が合流していき、日が暮れ始めても、その場所はざっくばらんな夜市のような賑わいとなった。
その騒ぎは、人工湖の向こう岸にある王族の離宮にまで届き、そこに滞在していた貴族や王族たちまでもが、好奇心に引かれて参加し始めた。
流れの行商人などは、人が集まれば商機ありとばかりに、その場で遠い異国から仕入れてきた酒のボトルなどを売り始める。
星が煌めき、二つの月が中天に差し掛かる頃になると、一部の釣り好き達は、
「そろそろ、頃合いだな!」
「よし。行くか!」
と、竿を担ぎ始めた。どうやら、夜釣りはまた格別な風情があるらしい。主に、オオナマズがターゲットだとか。
「ナマズって、美味いのか?」
「はぁ?! お前、わかってないなぁ! ナマズってのは、下手な高級魚より、美味いんだぞ!」
「そーだ! そのとおり! 香草とバターと白ワインでソテーも良き! 甘辛醤油ダレで蒲焼きも良し! しかもデカくて食べ応えもある!」
貴族も漁民も入り混じり、そんな会話が交わされると、所々からゴクリっ、と唾を飲む音が聞こえる。何人かがまた、暗い湖面に向かい、釣り竿を片手に駆け出した。
そして、この日以来、毎年、この日は民衆の自然発生的な熱狂から"ロットン記念祭"という祭りが開催される習わしとなり、水上都市の新たな文化として深く定着していくこととなった。




