225.キンチャク
「すまんな。もう少し、待ってくれるか」
地下街の奥まった一角、香ばしい油の匂いが満ちるその店で、ラルフは店主の渋い声を聞いた。
「別に急いでないよ。むしろ、面倒なオーダーをして申し訳ない」
「いや。大して面倒なことはない……」
作業台に向かう店主の背中を見つめる。それは、一見すると小柄で華奢な背中だった。しかし、自らの仕事に懸ける揺るぎない勇ましさと頼もしさ、そして一種の迫力を纏っている。まさしく、職人の背中だとラルフは感じ入った。
「近頃は、だいぶ涼しくなったな……」
店主は、手を休めることなく、不意に世間話のような言葉を零した。
ラルフは軽く目を見開いた。寡黙で、ひたすら仕事に向き合う職人だと思っていたから、その変化に少し驚き、そして、なんだか嬉しくなった。
「そうだねぇ。なんか、あっという間だったよ。今年の夏は、色々と忙しかったから……」
思わず、ため息が漏れる。このロートシュタインで世界最大の祭りも開催し、領主として文字通り東奔西走の日々だった。もちろん、騒動の多くはラルフ自身が期せずして巻き起こしたものも幾度となくある。自覚がないわけではない。反省はする。だが、後悔はしていない。ラルフは苦笑いを噛み殺した。
「忙しいのは良いことだ。だが、忙しすぎるのは考えものだな。……立ち止まるべき時は立ち止まって、しっかり休むこと。それが、長く商売を続けるコツさ……」
店主は、商売人として、また職人として奥深い含蓄に満ちた言葉を、ラルフに静かに与えてくれた。
作業場の片隅、木の椅子に跨りながら、ラルフはその金言を噛み締める。またしても、苦笑いが浮かぶのを抑えられない。
確かに、忙し過ぎたかもしれない。
居酒屋領主館で働くメイドたちや、孤児たちも、やはりもう少し羽目を外して、仕事以外に心休まる時間が必要だろう。とはいえ、ミンネやハル、彼女たちは心の底から居酒屋での仕事を楽しんでいる。本人たちが良ければそれで良いのかもしれないが、それでもラルフは、未来ある子供たちには、無邪気に自由を謳歌してほしいと願ってしまうのだ。
思考の海に沈んでいると、店主の声が響いた。
「さあ。できだぞ。待たせたな」
作業台に、揚げたての小さな油揚げが並べられていく。
「あれ? なんか、いっぱい作ってくれたんだねぇ」
ラルフは思いがけないサービスに、感嘆の声を上げた。
「どうせ、居酒屋の常連たちが食い尽くしちまうだろ。これでも足りねぇんじゃねーか?」
「まあ、確かにね」
ラルフは、その大量の食材をマジック・バッグにしまい込む。そして、対価として金貨二枚をカウンターに置いた。
一仕事終えた店主は、作業場の隅で紙巻煙草に火をつけ、薄紫色の煙を燻らせていた。
(なんだか、絵になるなぁ……)
職人が職人である矜持を、ひと時だけ気を緩めるその姿勢にすら、ある種の美学を垣間見た気がした。
まだ次の仕事を控えているであろう店主の邪魔にならぬよう、ラルフはこの職人の戦場を去ることにした。
「じゃあ。またな」
と声をかけると、店主は手をヒラヒラと軽く振った。
シャロン・ゲートへ向かいラルフが歩を進める、その時。
目の前を、ロートシュタイン観光に来たであろう貴族令嬢たちが、グルメ本を片手に騒がしく駆けていく。
「こっちよ! こっち! ゴブリン豆腐店は!」
「ちょっと待ってよー。まだ食べるのぉ?」
「この、卵豆腐っていうのが、甘くて軽くてツルンっとして、いくらでも食べられるくらい、美味しいらしいわよ!」
騒々しい声が、ラルフの前を横切って消えていった。
ラルフはふと振り返る。そこには、地下街のランドマークであるシャロン像。その像に封印された悪魔は、相変わらず(な、なんだよ……)とたじろいでいた。自分を封印した大魔導士への苦手意識は、拭い去れないらしい。
ラルフは、今夜の居酒屋の開店準備に向けて、再び歩き出した。
その夜。
「ラルフさま、この、"キンチャク"? これ、なんなんですか?」
ポンコツ三人娘のリーダー、パメラがカウンターに座り、好奇心いっぱいの瞳で尋ねてきた。
「油揚げの中に、色んな具材を入れて出汁で炊いたものだ。色々あるぞー」
ポンコツ三人娘のパメラ、マジィ、ジュリは、揃って首を傾げる。
するとジュリが、
「とりあえず。一つ下さいっす!」
と前のめりになってきたので、ラルフは餅巾着を出してやった。
「む? ……むー! 美味い! でも、なんか、これは、伸びる伸びる〜!」
出汁とタレがしっかり染み込んだ油揚げ、その中に収められた餅の弾力と新食感に、ジュリは口元から餅をミョーンと伸ばしながら、目を丸くして驚いている。
「わ、私にも!」
パメラが手を上げて立ち上がった。
ラルフは、また一つ、巾着を差し出す。パメラは、その明らかに熱々の油揚げの袋を、思い切ってハムっ! とかぶりついた。
「あっふ! あっふ! 熱っ! うわっ! 卵だぁぁぁぁぁ!」
それは半熟卵の巾着。醤油ベースのタレがしっかり染みた油揚げとの相性は、まさしく絶望的な中毒性を生み出していた。
「あ! 私も。甘いのとか、あります?」
と、マジィ。ラルフは、もう一つ、とっておきの巾着を差し出す。
「モグモグ、モグモグ……。え?! これ、お米? でも、なんか、違う? あと、これ、イガ玉の中身が?!」
マジィは、とてつもなく新しい美味に、目を見開く。
それは、餅米と栗を使った"栗おこわ"を中に詰めたものだった。エリカがカレーの研究の為に仕入れてはみたが、使い道がなくなってしまった餅米をリメイクした逸品だ。
「すみません! 僕も、その、キンチャクって、食べてみたいです!」
農園から野菜の納品に来ていたセス少年が、テーブルから立ち上がり、もう辛抱たまらないといった風にオーダーを叫ぶ。
「はいよー」
ラルフが差し出したのは、カボチャと豆と昆布。
「モグモグモグモグ……。あー、秋です……。このキンチャクには、秋の実りが詰まってます……」
顔を紅潮させながら、セスは至福の表情で呟いた。
「お、おーい! 俺もキンチャク!」
「私も! ねぇ、チーズとかも、合うんじゃない?!」
「肉は? 肉はあるのか?!」
案の定、嵐のようなオーダーが飛び交い始めた。
この状況を、あの店主は予想していたのだろう……。
ラルフは、あの店主の、先読みの力、そして先見の明を思い返す。
そして、ニヒルで、時に凶悪な、あの店主の笑みが脳裏に浮かんだ。
あの店主、ブンタの姿が――。
(っていうか、ブンタって、ゴブリンだよな……?)
謎の急成長を遂げたダンジョンのモンスター。
なんだか、面倒くさ過ぎるので、ラルフは考えるのをやめた。