206.秋の味覚
曇天が低く垂れ込め、遠のき始めた夏の気配を押しとどめるかのように、ロートシュタインの空には鰯雲が静かにたなびいていた。その物憂げな空の下、商業ギルドの木製の掲示板に、ラルフ・ドーソンは一枚の紙を貼り付けた。
「どもども!」
彼は軽快な調子で、ギルドの受付嬢に声をかける。かつて多忙を極めていた商業ギルドは、飲食部門をまるっとグルメ・ギルドへ移管したことで、驚くほどの平穏を取り戻していた。
「お疲れ様です!」
受付嬢の顔には心からの笑みが浮かんでいる。その柔らかな表情に、ラルフは領主として、そして友人として、穏やかな日常への感謝を感じ取っていた。
「何か問題は?」
世間話の体裁をとりながら、ギルド職員の意見を汲み取ろうと問いかける。
「全然です! むしろ快適すぎて、なんだか拍子抜けしちゃいます。それより、バルドルさんの方は大丈夫そうですか?」
彼女の心配は、かつての上司に向けられていた。
「大丈夫だと思うよ。多分ね……」
ラルフの言葉には、どこか含みがあった。
「でも、食堂も併設したって聞きましたけど……」
「新しいレシピの再現性を確認するためさ。それに、ギルマスなんてハンコ突くだけの役職なんだから、ある程度動いてくれないと、労働生産性が悪すぎる。ケーケッケッケッケッケッケ!」
悪魔のような笑い声がギルドの静寂を切り裂く。受付嬢は顔を青ざめさせ、ドン引きした。この若き領主は、その端正な顔立ちと立場からすれば、女性にモテて当然のはずなのに、突発的に現れる奇行の数々が、多大なる機会損失を生んでいると彼女は密かに確信していた。しかし、
「どうせ、今夜も居酒屋領主館で会ったら、愚痴を延々と聞かされるんでしょうねぇ……」
「目に浮かぶな! まぁ、仕方ないさ。じゃあ、ご来店お待ちしてますよぉ!」
ラルフはひらひらと手を振り、ギルドを後にする。受付嬢も笑顔で彼を見送った。
商業ギルドを出たラルフは、愛車である魔導車:ロードスターへ向かって歩き始めた。その途上、冒険者ギルドの前に設えられた屋台が、彼の視線を捉える。
それは、ロートシュタイン出版のヘンリエッタが、ドワーフの鍛冶屋が作ったたこ焼き用の鉄板と出会ったことで生まれた、新興のお菓子だ。ラルフは前世の記憶にある、どこか懐かしい姿に、思わず足を止めた。屋台から漂う甘く香ばしい匂いが、彼の郷愁を誘う。
もちろん、領主館で働く孤児たちへのお土産も忘れない。出来立ての"鈴カステラ"を紙袋いっぱいに詰め込んでもらい、彼はロードスターに寄りかかって、それを頬張った。
商業ギルドと冒険者ギルドが隣接する広場は、常に多くの人々で賑わっている。行き交う人々は、ラルフに気づくと、皆が親しげに手を振ってくれる。
この煩わしくも騒がしい日常。次から次へと事件が巻き起こる日々。それでも、このロートシュタイン領が、自分は堪らなく好きだと、しみじみと感じる。転生して二十数年。こんなにも愉快で、温かい場所の領主として生まれたことは、最高の幸せだと思えた。
「んが! んん~」
鈴カステラをもう一つ口に放り込むと、一瞬喉に詰まりかけ、妙な声を上げてしまう。その拍子に、ふと、広場の片隅に座り込む若い冒険者パーティーが目に入った。
彼らは疲労困憊といった様子で、膝を抱え、落胆の言葉を交わしている。
「はぁ、あー。オーク狩りって、あんなに大変なんだな」
「あんなに強いなんて、聞いてないよー」
「ちっ、これじゃあ、今夜は"居酒屋領主館"は無しだなぁ」
「はぁ、ビール、飲みたかった……」
どうやら、ダンジョンに挑んだものの、満足な成果を得られなかった新米冒険者らしい。彼らの悲哀に満ちた声が、ラルフの耳に届いた。
「とりあえず、これがあればなんとかなる」
リーダーらしき大剣を担いだ若者が、手に取ったもの。
「パンにするか? 粥にするか? まぁ、腹が膨らみゃ何でもいいけどよ」
彼らが今夜の糧について話し合う中、ラルフの視線は、彼らが手にしていた“それ”に釘付けになった。
たまらず、彼は声をかける。
「やぁ! 君たち! それを僕に売らないかね?」
突然のことに、若者たちは腰を抜かしそうになる。
「わぁ! え、領主様?!」
「えっ?! ラルフ様?!」
ラルフは煌めく金貨を若者たちに突きつける。
「それ! 売ってくれないか?」
「え、えー? この、"イガ玉"を、ですか?」
リーダーは不思議そうに問い返した。
「そうそう! その、"栗"が欲しいんだ!」
ラルフは若者の手に、金貨を握らせた。
その日の夜、居酒屋領主館は、新メニュー「栗ご飯」の話題で持ちきりだった。
飲んだ後の「シメ」として定着しつつあるご飯ものだが、飲酒前に炭水化物を摂りたい客や、酒よりも未知の美食を求める客も少なくない。
その季節限定の特別な一品は、老若男女、全ての人々の琴線に触れた。
栗と米。一見、シンプルな組み合わせだが、ラルフは前世の知識から、ひと手間加えることで、この料理が魔法のように化けることを知っていた。
昆布を加え、ごく僅かな醤油と酒を垂らす。そして、何よりも大切なのが、海水由来の天然塩をほんのひとつまみ。それだけで、栗ご飯は極上の一品へと昇華する。
甘党も、酒呑みも、その秋の味覚を、ただひたすらに貪り食った。
「何これ。甘い……。これは、スイーツになる可能性を秘めているのでは?」
ロートシュタイン出版の甘味担当、ヘンリエッタは鋭い洞察力で、その可能性に気づいてしまった。ラルフは彼女にそっと栗のペーストの作り方を教える。この世界に「モンブラン」が誕生する日は、そう遠くないだろう。
ヘンリエッタは早速、この「森の恵み」を採集する依頼を冒険者ギルドに出す手筈を整え始めた。
「おいー。米がなくなってきたぞ! どうするんだよ!」
ラルフは焦りを滲ませるが、冒険者のヒューズが立ち上がって言った。
「米農家がそろそろ収穫の時期ですよ。多分、今年は豊作です」
その言葉に、ラルフはハッとした。確かに、今年はロートシュタイン領の政策として米の増産を推し進めていた。大規模農家のモデルケースとして、セスの家が選ばれていたのだ。
しかし、そんな中、聖教国の聖女様が、とんでもないことを言い出した。
「米の収穫、私もやってみたいです!」
ラルフは深くため息をつく。他国からの来賓に農作業をさせるなど、前代未聞だ。だが、デューゼンバーグ伯爵やブラド国王までもが、この稲刈りイベントに向けて、楽しそうに話し合いを始めてしまっている。
ラルフは、収穫の時期が迫っていることを再認識した。
ロートシュタインは、今まさに実りの秋を迎えようとしていた。




