200.吟遊詩人の欲③
数日経っても、ソニアは言葉にできない感情を持て余しながら、居酒屋領主館でハイボールを傾けていた。一目で心を奪われたあのララティナを、結局は手に入れることを諦めてしまった。ただ、それだけのこと。なのに、本日何度目かわからないため息がグラスの向こうで弾けては消えていく。今夜、何杯目のハイボールだろう。それすら数えられないほど、ソニアの心は沈んでいた。
「なに? 失恋でもした? 本命を誰かに寝取られでもしたのかしら?」
エリカのとんでもなく失礼な言葉に、ソニアは反射的にチョップを繰り出した。しかし、エリカはそれをパシッと真剣白刃取りの要領で受け止める。
「ふっ、甘いわね……」
ドヤ顔で去っていくエリカの背中を見送り、ソニアはまたどうしようもない焦燥感に襲われる。別にエリカが悪いわけではない。誰も悪くない。ただ、これは自分の欲望の問題だ。道具の良し悪しなど、何の関係があろうか。ラルフ曰く、「弘法筆を選ばず」――真の達人は道具に拘らない。そんな自己嫌悪の渦中にいるソニアに、カウンター越しからラルフが声をかけた。
「おかわり、いる?」
ソニアのグラスは空になろうとしていた。
「ハイボールを……いつものやつで……」
「はいよー」
ラルフは手際よくハイボールを作る。魔法で生み出した氷をグラスに入れ、火酒と炭酸水を丁寧に注ぎ入れ。最後に柑橘果汁と、ハチミツを一匙。軽くステアして、グラスをソニアの前に置いた。
「はい、お待たせ……」
「ありがとうございます」
ほんの少しだけ加わるハチミツの甘さ。ソニアが密かに“魔法の一匙”と呼ぶ、この一杯が、彼女のお気に入りだった。グラスを持ち上げると、半透明な硝子と氷の向こうで、ラルフの顔が愉快に歪んで見える。思わず笑みがこぼれた、その時だった。店のドアベルが鳴り、新たな客が入ってきた。
「やあ! ソニアさん。ラルフ殿!」
「あ! オルランドさん!」
そこに立っていたのは、宮廷楽団長のオルランドと、ドワーフの細工師、ポール・リーだった。ソニアの視線は、オルランドが手に持つ黒い楽器ケースに釘付けになる。まさか、中身はあのララティナでは……。
二人はソニアの隣に腰掛け、それぞれ赤ワインと火酒のロックを注文する。
「では、乾杯!」
「乾杯!」
グラスを打ち鳴らすのは、この店の常連客にとっては、もはや挨拶代わりの習慣だった。しかし、ソニアは我慢できず、尋ねた。
「オルランドさん……そのララティナ、娘さんへのプレゼントなんですよね……」
ソニアは、カウンターに立て掛けられた黒いケースをちらりと見る。オルランドは、気まずそうに、歯切れ悪く答えた。
「ああ、……うん、……まあ、そう。そうだった、のだがな……」
すると何故か、ポールが悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「オルランドさん、さっさと言っちまいなよ」
「実はな、これを……」
オルランドは、そのケースをソニアに差し出した。
それを受け取る。そして、膝の上に置かれたケースの留め金を、ソニアは導かれるように外した。蓋を開けると、そこに収められていたのは、やはりあのララティナ。息を呑むほどの豪華な装飾。再び強烈な物欲が胸を去来する。
「あ……あの……これ……」
言葉を失うソニアに、オルランドは信じられない言葉を告げた。
「ソニアさんに、差し上げようかと、思ってな……」
「ふぇっ!?」
ソニアは、間抜けな声をあげた。聞き間違いか?これを、私に?
「えっ? なんで?」
カウンターの向こうから、ラルフが本質的な問いを投げかけた。
「それがな……。娘に見せたら、なんだか浮かない顔をしてな……。よくよく話を聞いてみたら……」
――「私、ソニアさんと同じのが欲しかった……」と、言ったそうだ……。
「ええっ、でも、こんな高価なもの、タダでいただくわけにはいきませんし……」
ソニアは必死に常識と遠慮を引っ張り出す。
「いやいや……。ソニアさんのおかげで稼がせてもらってますし……。これからもどうぞよろしくお願いしますの気持ちとして、受け取って頂ければと……」
ソニアは悩む。憧れのものが突然手に入ると、それはそれで困るものだ、と呑気な考えが浮かんだ。
「ソニア……もらっちゃえば? そのうち別の形で返せばいい。ねぇ、オルランドさん」
ラルフの言葉に、オルランドも満足げに頷いた。
ソニアは再びララティナを見る。やはり美しい。黒檀の指板に施された、クレマチスの花と蔓の象嵌細工。魔導灯の暖色の光の下では、艶めかしさすら帯びている。他の客も興味を示し、ソニアの後ろに集まってきた。
ラルフは小さく笑い、促す。
「ソニア、弾いてみたら?」
「ぴょっ!!」
ソニアは奇妙な声を上げたが、恐る恐る楽器を抱えた。少し重く、楓の甘い香りがふわりと漂う。いつもの楽器より少し大きく感じる。震える手で調律を始め、運指を確認する。大舞台を幾度となく経験してきたのに、なぜか手汗が止まらない。客たちも固唾を飲んで見守る中、ソニアの指が弦を捉え……。
ポロルン……ポルトゥン……ペケロン……トゥロン……。
「ん?」
「ん?」
「んんん?」
困惑がその場を支配した。
誰もが期待したのは、凛とした鈴のような、天からの福音のような音色だった。はずなのだが……。
「ソニア? ……それ、チューニング合ってる?」
ラルフの問いに、ソニアは戸惑いながら答えた。
「合ってる、はずです……。あれ? これ、多分、調整がとれてない……ような? ちょっと、ネックも薄すぎて、指が余ってしまう感じがして……」
全員の視線が、制作者であるポール・リーに集まる。
「うぉっほん……。そりゃあ、自分は、細工師だからなぁ。楽器の作り方なんて知らん! 見様見真似で作ってみたものだからなぁ……」
「えぇぇぇ……詐欺じゃん」
ラルフが呟く。
「いや、だから! 売り物としては考えてなかったと、ソニアさんには説明したし。それに、試し弾きも勧めたのだ……」
「ん?」
「あれ?」
何かがおかしい。
ソニアは、くだらないものが複雑に絡まっているような違和感を覚えた。
「でも、それ、お高く売ろうとしたんでしょ? ソニアに」
ラルフがさらに問い詰める。
「だから、それも……制作費分は払ってくれってことで、これくらいは、と」
ポールが掌を広げ示した指の本数に、ラルフはすべてを悟ったように笑う。
「ああああ、わかった! わかっちゃったよねぇ!! ……ソニア、さては、お前、桁を勘違いしたな? その楽器の本当の価格は、お前が想定した額の、
……九十パーセント・オフだよ!」
「えええええぇぇぇぇぇぇぇ!?」
ソニアの絶叫が、居酒屋領主館に響き渡った。その声量はさすが歌を生業とする者だった。
「じゃあ、それってつまり……飾り?」
ラルフはソニアが抱えるララティナを指差す。
「まあ、そうなるなぁ……実用品ではない……。だから売り物ではないと言ったのに……」
ソニアの口から魂が抜け、それをエリカが一生懸命押し込んでいる。ラルフが疑問を口にした。
「でも、楽器ってそんなに作るの難しいんだ……だって、ソニアの今使ってるのだって、親父さんがサクッと作ってくれたんでしょ?」
ポールは、遠い目をして感嘆の声を漏らした。
「確か、ソニアさんのお父上は、家具職人のヘンリー殿だったな……。彼は天才だぞ……人間族にも、あれほど凄い職人がいるとはな……、もちろん、細工師としては自分の方が上だがな」
と、謎のプライドを付け加えながら……。
ようやく意識を回復したソニアは、茫然と呟いた。
「お父さんって、凄い人だったんだ……」
と。
話し合いの結果、後日、あの豪華なララティナは、居酒屋領主館の片隅、酔っ払いが割ってしまったりしないよう客の動線から外れた場所に、硝子ケースに収められ展示されることになった。キラキラと輝く装飾品は、その一角だけを格式高い空間に変え、見る者の目を引く。
オルランドは娘のため、ソニアの父ヘンリーに、ソニアと全く同じ、憧れの吟遊詩人直筆サイン入りのソニア・モデルを新たにオーダーすることにした。きっと、娘さんは歓喜してくれるだろうと、誰もが想像できた。
そして、ソニアはというと、ほんの少しだけ、自分の欲望を叶えることにした。これも何かの縁と思い至り、ポールに依頼を出したのだ。
彼女の愛用するララティナのヘッドストックには、ポールの手によって、小さなミツバチの象嵌細工が施された。
派手さはないが、調律をするたびにふと目に映るその可愛らしい姿に、ソニアの愛着は一層深まった。
後年、ポール・リーとヘンリーが楽器制作で協業し、技術交換を行うことで、それぞれがこの世界を代表する楽器メーカーへと成長していく。それは、また別のお話……。
伝説の女吟遊詩人。彼女の物語が語られる時、いつもその傍らには、いつしか誰からともなく。
"ハニービー"、と呼ばれるようになったララティナがあった。
使い込まれたその風貌に憧れを持つ演奏者は多く、ヘンリーから販売されるソニアのシグネイチャーモデル"ハニービー"は、この世界で最も売れた楽器として、その名を刻むことになる。
やっと200話……。投稿連載をはじめて、3ヶ月と少し……色々なことがありました。皆様、本当に応援して頂きまして、ありがとうございます。
実は、私、ヤマザキもギタリストの端くれでして、この話はどうしても書きたかった物語です。
頂いたコメントでいくつかありましたが、その通り。PRSがモチーフですね。私もPRSを愛用しております。二本持ってます(自慢)。
書籍化とコミカライズに関する告知も、これから順次行なっていければと思います。
どうか、これからも、このような稚拙な文章ではありますが、楽しんで頂けたら幸いです。




