20.二日酔いの朝
ラルフは、重い頭を抱えながら目を覚ました。視界に映るのは、見慣れた居酒屋領主館の天井だ。どうやら、昨晩は一階の客席のベンチで酔い潰れて眠ってしまったらしい。
まあ、よくあることだ。誰かがかけてくれたのだろう、温かい毛布が体に掛かっていた。アンナか、それともメイドの誰かだろうか。
ゆっくりと体を起こすと、厨房から楽しげな声が聞こえてくる。コンコンと包丁の音が響き、香ばしい匂いが漂ってきた。
「おーい、お兄ちゃん起きた! どうする? 何か食べる?」
厨房の入り口から顔を覗かせたのは、ミンネだった。その後ろから、獣人のハルが、ぴこぴこと猫耳を揺らしながら、同じように顔を出す。どうやら、二人は朝早くから仕込みを始めているようだ。
二日酔いの重い頭でぼーっとしながらも、ラルフは無意識のうちに口を開いた。
「あー、お茶漬けお願い。鮭で」
「はーい! 先に顔洗ってきなよー」
ミンネの明るい声が、二日酔いの体に染み渡る。ラルフはよろよろと立ち上がり、顔を洗いに行った。冷たい水が、わずかに残るアルコールの靄を洗い流してくれるようだ。
昨晩は、グレン子爵とメリッサと、何か重要な話をしていたような気もするが、何を話したのかは全く思い出せない。まあ、いつものことだと、ラルフは深く気にしなかった。
顔を洗い終えて戻ると、熱々のお茶漬けと、シャキシャキとした野菜の漬物が用意されていた。温かい出汁の香りと、鮭の塩味が、疲れた胃にじんわりと染み渡る。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
ラルフが食べ終えると、ミンネとハルは、これから孤児院の畑に行くのだという。食料の安定供給のため、孤児院の子供たちが畑の世話もしているのだ。
「行ってらっしゃい。気を付けてな」
二人の後ろ姿を見送った後、ラルフは重い足取りで執務室へと向かった。
アンナはまだ出勤していない。居酒屋が始まってから、主に夕方から夜にかけて忙しいので、午前中はメイドたちに暇を出しているのだ。アンナも、それに合わせて出勤時間を調整している。
執務室の机には、すでに山のような書類が積まれている。ああ、憂鬱な書類仕事が始まる。しかし、ラルフの仕事は早い。前世で慣れ親しんだ、無駄の多い書類仕事の数々。無意識のうちに、ラルフの右から左へ、次々と書類が処理されていく。ペンを走らせる音だけが、静かな執務室に響き渡っていた。
昼近くになると、扉がノックされ、アンナが出勤してきた。彼女は、ラルフの顔を見るなり、フッと息を漏らした。
「旦那様、寝癖」
アンナの言葉に、ラルフは「あー」と声を出しながら自分の頭に手を当てた。確かに、昨晩の寝癖がそのままになっている。
「着替えと髭剃り、用意させますね。それに、もう少しでオークションが始まりますよ? そろそろお着替えされては?」
アンナの言葉に、ラルフの動きが止まった。
「はっ? オークション?」
ラルフは、頭の中で昨日の記憶を懸命に辿るが、オークションについて話した記憶が全くない。
アンナは、呆れたような、しかしどこか諦めたような表情で言った。
「まさか、覚えてないのですか? 昨晩、グレン子爵と話してましたよね。ある奴隷の少女を競り落として欲しいと」
「えっ? あー、なんか。そんな話、したっけ?」
ラルフの記憶は、酒の海の彼方に消え去っていた。自分が奴隷の少女を競り落とすなど、全く身に覚えがない。しかし、アンナがここまで言うのだから、きっと事実なのだろう。二日酔いの頭は、さらに重くなる一方だった。




