2.市場へGo!
「さーて、市場調査といきますか!」
ラルフは、どこか楽しげな声を上げ、領主館の門をくぐった。彼の隣には、いつものようにメイド頭のアンナが控えている。護衛の騎士は数名連れているものの、彼らにとっては、気まぐれな若き領主の散歩といった感覚だろう。
しかしラルフの頭の中は、これから誕生する「居酒屋領主館」のメニューでいっぱいだった。
この異世界の食材で、どこまで前世の味を再現できるか。それが最大の関心事だった。
賑わう市場の通りは、活気に満ちていた。様々な露店が軒を連ね、商人たちの威勢のいい声が飛び交う。見たことのない色や形の野菜、香辛料、そして珍しい肉や魚介類が所狭しと並べられている。
ラルフは目を輝かせながら、それら一つ一つを品定めしていく。
「おや?」
ふと、細い路地の奥に、人影が複数いるのが見えた。普段なら気にも留めないだろうが、今日は気分が高揚している。何気なくそちらへ足を踏み入れた瞬間、背後から無骨な腕が伸びてきて、ラルフの体を路地へと引きずり込んだ。
「おいおい、いいカモが来たぜ」
「貴族様か? こりゃ大儲けだ」
薄汚れた男たちが、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら、ラルフを取り囲む。
典型的なゴロツキだ。アンナや護衛の騎士たちは、少し離れた場所を歩いていたため、この状況にすぐには気づかない。
「ちっ、面倒だな」
ラルフは内心で舌打ちをした。せっかくの市場調査だというのに、いきなりの不愉快なイベントだ。男たちが懐を探ろうと手を伸ばしたその時、ラルフは無言で右手を男たちに向けた。
「──《火炎球》」
詠唱もなく放たれた炎の塊は、しかし、男たちを完全に焼き尽くすことはなかった。黒焦げになったのは、彼らが身につけていたボロ服の一部と、彼らが立てていた土埃だけだ。男たちは熱さに飛び上がり、情けない悲鳴を上げる。
「ひぃっ、化け物!」
「ま、ま、魔道士かよ!」
ラルフは、焦げた臭いが立ち込める中で、冷静に懐から金色の紋章入りの短剣を取り出し、男たちの鼻先に突きつけた。
「よく聞け、クズども。俺はドーソン公爵家の跡継ぎ、ラルフ・ドーソンだ。以後お見知り置きを」
炎の威力と、公爵家の名前に、男たちの顔から血の気が引く。震え上がる男たちを、ラルフは蔑んだ眼差しで見下ろした。
「いいか、お前らは今日、運がいい。俺は今、ご機嫌なんだ。だから、特別に命だけは助けてやる。その代わりだ……近いうちに、俺の領主館で新しい店をオープンする。その店がオープンしたら、全員で飲みに来い!」
ラルフはそう言い放ち、男たちの凍りついた顔に笑みを浮かべた。飲みに来い、と脅されたゴロツキたちは、恐怖で顔を青ざめさせながら、ただ頷くことしかできなかった。
「あっ、もう終わってましたか」
少し遅れて駆けつけたアンナが、黒焦げになった路地と、震え上がっているゴロツキたち、そして平然と立つラルフを見て、呆れ顔で呟いた。
「どちらが悪者なのか、わかりませんわ……」
ラルフは「気のせい気のせい」とばかりに手をひらひらさせ、何事もなかったかのように市場の散策を再開した。アンナは深いため息をつきながら、その後を追う。
様々な食材が目に飛び込んでくる。地球にはないが、似たような性質を持つ香草や野菜。形は違えど、馴染みのある調理法で美味しく食べられそうな肉や魚。
「おお、これは!」
ラルフの目に留まったのは、魚をぶつ切りにしたものと、大根のような根菜、そして卵を煮込んだようなものだった。この世界ではスープとして売られているようだが、見れば見るほど、日本のおでんに似ている。出汁を工夫すれば、あの味が再現できるかもしれない。
その隣では、鶏肉を揚げたようなものが売られていた。香ばしい匂いが食欲をそそる。形は少し違うが、これはまさにフライドチキンではないか。骨付き肉を使い、香辛料をブレンドして揚げれば、誰もが病みつきになる逸品ができるだろう。
さらに奥へと進むと、米と肉を混ぜて焼いたようなものを見つけた。これは、前世で餃子と呼んでいたものに近い。中身の具材を工夫し、皮を薄く伸ばせば、あのジューシーな味わいが再現できるはずだ。
そして、茹でた芋を潰し、野菜と混ぜたものも。これは、ポテトサラダだ。この世界にはマヨネーズが存在しないが、思えば原材料はシンプルに卵、酢、植物油だ。もし作れたら完璧な一品になるだろう。
ラルフの頭の中では、次々とメニューが構築されていく。この世界の住人にも違和感なく受け入れられ、かつ彼らが体験したことのない「味の驚き」を与えられるような、そんな料理の数々が。
ふと、市場の片隅に、他とは少し違う光景が目に飛び込んできた。薄汚れた粗末な敷物を広げ、その上に何かを置いて売っている二人の少女がいた。年端もいかない、十歳ほどの子供たちだ。彼女たちの前には、籠いっぱいの青豆が置かれている。
ラルフの脳裏に、前世の記憶が鮮やかに蘇った。
塩茹でにした熱々の枝豆を一つまみ、そしてキンキンに冷えたエールをグビッと飲み干す。その至福の瞬間を想像しただけで、ごくりと喉が鳴った。
「あれは、孤児院の子たちですね」
アンナが、ラルフの視線を追って呟いた。
少女たちは、見るからにやせ細っていた。一人は雑に切られたブラウンのショートヘアで、もう一人は、一見すると姉妹かと思ったが、よく見るとその子の頭には、ピンと立った可愛らしい猫耳が覗いていた。どうやら、人間と獣人の二人組らしい。
ラルフは、まるで獲物を見つけたかのように、少女たちに向かってまっすぐ歩み寄った。
「ねぇ! 君たち、それ、大量に買い付けたいんだけど! どのくらい用意できる?」
突如として現れた見慣れない貴族の男に、少女たちは驚いて固まった。特に猫耳の少女は、恐怖からか、猫耳をぴくりと震わせている。
「え、えっと、あの、孤児院の畑、そんなに大きくなくて……」
ブラウンヘアの少女が、おどおどと答える。どうやら、自分たちで育てたものらしい。
「あー、そうなんだ。そっかそっか」
ラルフは納得したように頷いた。
「あ! うちの領の直轄の孤児院だよね? あー。じゃあ、予算付けとくからさ、あと敷地も広くしようか? アンナ、余剰予算まだあるよね?」
突然のラルフの言葉に、アンナが「はぁ……?」と呆れたような声を漏らす。予算の話も、敷地の話も、まるで寝耳に水だ。
「あ、なんなら、孤児院移転してもいいか? 野菜が育ちやすい土とか、色々考えなきゃだもんね。じゃあ、とりあえず。今あるそれ、全部買うからさ! 孤児院連れてってよ!」
ラルフは、まるで新しい玩具を見つけた子供のように目を輝かせながら、矢継ぎ早に言葉を続けた。少女たちは、目の前の貴族が何を言っているのか理解できず、ただ茫然と立ち尽くすばかりだった。そして、アンナは、頭を抱えるしかないのであった。