195.言葉の力
地下街へと続く薄暗い搬入口。魔導車:エバーを駆るセスの心は、いつもとは違う高揚感に包まれていた。薄闇の中、前をゆく納品業者の魔導車がゆっくりと進む。その寡黙な隊列は、まるで地下へと続く静かな儀式のようだった。
防災センターでの入館申請は、もはや日常のルーティンだ。警備員の青年は、かつて冒険者だったという。彼と交わす「いい天気ですねぇ」「地下にいたら天気は関係ないな」という他愛のないやり取りは、セスにとって社会との関わりを実感させる、ささやかな魔法の言葉だった。
車を停め、地下一階の豆腐店へと向かう。店主のゴブリン、ブンタが、真剣な眼差しで水面に揺れる豆腐を切り分けていた。
「ブンタさーん! お世話になってます! 大豆、置いておきますねー!」
セスが声をかけると、ブンタは切り分ける手を止めずに応える。
「おう。セスか……。すまんな、今、手が離せない。……そこに、金貨とオカラが置いてあるから、勝手に持っていってくれ」
その言葉に、セスの頬が緩む。
「はい! ありがとうございます。いつもオカラ、ありがとうございます!」
豆腐の副産物であるオカラは、今やセスの好物の一つになりつつあった。彼は、店主がゴブリンであるという噂を信じていなかった。確かに緑色の肌をしているが、ゴブリンがこれほど流暢に話せるはずがない。きっと、どこかの遠い地方に住む亜人種なのだろうと、彼は勝手に想像していた。
持ち帰ったオカラは、母の手にかかると、まったく別の料理に姿を変える。嫌いだったはずのキノコとひき肉を混ぜた、母の適当な創作料理。それにエルフ族特製の醤油をひと垂らしすれば、それは魔法の如く極上の白飯泥棒となる。
再びエバーを走らせ、地上へと向かう。地下の静寂から解放され、開けた世界が広がる。眩しい陽光に、思わず目を細めた。反対車線には、魔導二輪車を駆るエリカの姿。風に揺れる金髪ドリルツインテールと、きらりと光るゴーグルの硝子板が、一瞬の間に彼の視界を横切る。セスが右手を上げると、彼女はハンドルから片手を離し、軽やかにピースサインを返してくれた。
街道に魔導車を路駐し、セスの足は本屋へと向かっていた。小遣いを増額してもらった彼は、新しい本との出会いを求めていた。書棚に並んだ背表紙を眺め、気になった本を手に取ってページをめくる。
その視界の隅で、黒い喪服のような、船乗りのような服を着た少女が、同人誌コーナーで血走った目をしている。あれは、たしか領主ラルフが「おぞましい!」と評した、ラルフとお隣の領主を"絡め"た薄い本だ。
「絶対に読むな!」とラルフからきつく言いつけられているにもかかわらず、セスは好奇心を抑えきれない。
鼻血を流しながら、少女が何冊もその薄い本を購入していく。もしかしたら、本当に面白いのかもしれない。だが、ラルフとの約束は守らねばならない。
セスは、積読になりかけていた『夜の公爵は悪魔を憐れむ』の新刊と、友人のトムがすすめてくれた『それからはカレーのことばかり考えて暮らした』を手に取った。
最近、農園で働く奴隷のブロディたちが、読み聞かせをせがんでくるのだ。文字が読めない彼らのために、セスは積極的に読み書きを覚えていった。
ある夜、酒を酌み交わす彼らの前で、『公爵ラルフ・ドーソンの酔いどれ迷言集』を読んでみた。彼らは腹を抱えて涙を流し、大爆笑していた。その光景は、セスにとって何よりも楽しい時間だった。いつか、自分も本を書いてみたい。そんな夢が胸をよぎる。だが、物語を書く自信はいまいちない。
それならば、どうすれば農作物に虫が付かないか、どんな肥料を使えば野菜が大きくなるかといった、役立つ知識を書いてみたい。しかし、そんな本を面白がって買ってくれる人がいるだろうか? きっと売れないだろう。
セスは、夢を夢として割り切っていた。父の農園を継ぎ、このロートシュタインで生きていく。それが、彼にとっての最高の幸せなのだと、幼い彼は信じていた。
しかし、彼はまだ知らなかった。
将来、彼が"エーテル農業工学"の権威となり、世界の農業革命を牽引し、飢餓や貧困を抜本的に解決する英雄となる未来を。
後年、王都に彼の功績を称える石碑が建てられた。
そこには、こんな言葉が刻まれていた。
「真の不幸は、お腹が空いてること。真の幸せは、お腹が空くこと……」
その言葉は、後世の言語学者や経済学者を大いに悩ませ、考察され続け、引用され続けることになる。
そして、その文脈には、いつも、伝説の大魔導士の名が共に語られ続けた。




